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一万字のエッセイ『ミスター•ミス•ニッポン』     

大腸内視鏡検査受診月間最優作品賞(嘘
便潜血+を放置しないでほしい特別月間作品(本当かも)

#創作大賞   #エッセイ部門

どうやら私は、無事に49歳と1日を過ごしている。
1974年9月29日生まれの私は、どうやら明日、49歳と1日になるようです。指折り数えても、49。足折り数えてみれば、25くらい数えたところで姿勢がつらく、こむら返るところを見ると、ややもすると私は25歳なのでは、と、思わないこともありませんが、それこそが歳の成せる技であることを私は知っています。
ほら、鏡をみればそこには49歳それ相応の重力に負けた顔があります。ほうれい線の内と外には、本丸と城下町を流れるくっきりと身分を隔てられた堀があり、潤いのない空堀が引かれています。
私の丸い頬の山から顔中心部にむけて、ずいずいにじりよる頬厚が、しぼんだおちょぼ唇をぷっくり二山作りだしています。
端からみれば、接吻をお預けされた唇がエアキスをするように「ぱくぱくちゅうちゅう」しているように見えるでしょう。
そんな私が明日49歳と1日になるのです。

少し季節を戻しましょう。
48歳の最終コーナーを周りだした今夏、私はとつぜんの腹痛に襲われてしまったのです。年に一度の健康診断をつつがなくクリアした(つもりの)私は、年相応の肥満とアルコール摂取の影響をうけたγgtp異常を笑い飛ばしながら暮らしていました。それは、再検査を受けるほどのものでもない。
いわば、シャクシャク余裕で「JOYJOY」過ごしていたのでした。
それが、7月初旬のある日、右腹にチクりと痛みを感じたのです。初めは、ちょとした筋肉痛や、腹を寝違えたのか(そんなことあるのか)。くらいに思っていました。それが、10日程つづき内科を受診する事にしたのです。私は虫垂炎になっていました。
まず、医師による右腹下の触診がありました。それほど痛がらない私を見て、「軽い虫垂炎だと思います。念のためCT検査をして、抗生剤で治療しましょう」和やかな雰囲気のもと医師の説明がありました。これがいわゆる虫垂炎の痛みを「散らす」という治療法なのでしょう。抗生剤の力で虫垂の炎症を鎮めていく。虫垂炎を眠らせておく。完治とまではいかないまでも普段どおりの日常生活をおくりながら治療ができる。その上で、虫垂のご機嫌がななめにならないよう暮らしていく。ごく初期の虫垂炎の一般的な治療とはこのようなものであるらしい。

私は、血液検査の結果が判明するまでの小一時間を、待合室でいねむりをして過ごしていました。その間も看護師は「辛くなったら横になってもかまいませんよ」「ほとんどの人は手術にはならないんですよ」と私を気にかけて励ましてくれていました。その、和やかで落ち着き払っていた看護師の様子がピリついてきました。私は慌ただしくなった看護師を目で追いました。「やたら目があうな」でも、気のせいだろう。急患かも知れない、それでピリついているのだ。病院とはそういうものだ。でも、それにしても、ますます「目があう」のだ。私はこの秋で49歳になるメタボ腹した中年男だ。なぜだ。なぜだ。なぜなんだ。マスクをしているから鼻毛がでているわけでもない。その、よく目があう看護師がとうとう私に近づいて来る。看護師はこう告白した。「紹介状を書きます」そして、この地域の中心的医療を担う基幹病院の外科を受診する必要があることを私に告げた。
暫くして病室へ入ると、『CT検査』『レントゲン検査』『血液検査』のどれもが、私の腹に異常があることを濃厚に示す根拠と説明があった。「虫垂も腫れているのですが、それ以上に大腸癌の疑いがあります。リンパも腫れているように見えます。紹介状を書きますから大きな病院を今すぐ受診してください」

 
家に着いた私には、この病気に思いあたるフシがありました。遡ること2018年。この年の健康診断で、とある兆候があったのです。私はここで大きなミスを犯していたのです。私の2018年の健康診断結果には気になる所がありました。私の大便検査は、E判定でした。『便潜血+』とあったのです。これは、なにがしかの原因により大腸内で出血が認められる可能性があるということなのです。私はコレを無視しました。「痔かな」くらいに思っていたのです。次の年も、また、次の年も『便潜血+』でした。
こういう者が当たり前のようにみなさんの隣で暮らしているのです。それが多様性です。さあ、どうでしょう。これほどアレな大人が未だかつていたでしょうか。いたのです、それが私です。
私はそのときから2023年の初夏までずっと「痔かな」くらいに思っていたのです。みなさんは、これほど愚かなミスを繰り返したことがありますか。「私はある!」「いっぱいある!」私はこのときから「ミスター•ミス•ニッポン」を襲名することになりました。2018~2023の「ミスター•ミス•ニッポン」は前代未聞ではありますが、私でした。六連覇の偉業です。
そして、私が幸運であった事もこの場を借りて追記させてください。私の癌はたまたま場所が良かったのです。『ラッキーガン』でした。たまたま盲腸に癌細胞が出来た事により、たまたま虫垂の入り口を癌細胞が塞いだのです。それでたまたま虫垂炎になったのです。無症状で気づかないまま手遅れになる事も多いのが大腸癌です。私がたまたま気づけたのは『ラッキーガン』のお陰でした。『ミスター•ミス•ニッポン』六連覇の私に訪れた、ラッキーチャンスでした。
 
紹介状を書いてもらった私は市内にある基幹病院を受診しました。
いくつもの検査があり、私の大腸に癌があることを決定づけたのは、『大腸内視鏡検査』でした。私はその夜こんな詩を書きました。

『カメラ•イン•ワンダーランド』

カメラ・イン・ワンダーランド
そんなアトラクションだと
そう、思うことにしませんか?
私は私に、そう、問うたのだ

「にゅうるんとずぼり」
私は下からゼリーを食べた
私は下からカメラ付の管を食べたのだ
そんな30分か40分のアトラクション
カメラ・イン・ワンダーランド
そんな不思議の国のアトラクション
下からカメラを食べながら
私が上から画面で観劇する不思議の国のシステム
操縦士と副操縦士と私のはじめての共同作業
操縦士の私への体位の要求は厳しく
管を避けながら足がつりそうになる
操縦士と副操縦士と私の痴態はつづく
私の大腸を行ったり来たりする
カメラ付のスロウコースター
そんな30分か40分のアトラクション
スロウコースターの操縦士が問う
「ほら、すこし触れただけで出血しています。貧血の気はありませんか?」
私の桃色のワンダーランドが赤色に染まった
うわ、いま、貧血になりそうっす
「せいのさん、何歳でしたか?」
私が49歳のただの童顔だと知るとスロウコースターの操縦士は納得したようだった
なんの責任も背負わない者はつるんとした顔になる見本のような私だ
私は上からぼんやりワンダーランドを観劇している
「踊るコースターを観る阿呆、おなじ阿呆なら観なきゃ損、損」
念入りにスロウコースターは行ったり来たりしている
「抜かりのない、いい仕事ですね」
私は心のなかで称賛していた
下からガスか空気を飲ませているせいで腹が張ってきた
操縦士と副操縦士から屁をすることを促される
「するもんか」そこまでは思いどおりにはさせない
なんか色々と水でびしゃびしゃになる
そんなどっきりもあった
下から食べて上から観劇するアトラクションを私は満喫した
カメラ・イン・ワンダーランド

「ふ、やはりな」
私には思いあたるフシがあった
健康診断の『便潜血+』を数年放っておいたからな
見ないフリをしていたからな
2018年から見ないフリをしていたからな
痔かな
痔かな
痔かな
痔かな
痔かな
痔じゃなかったな
「ミスター・ミス・ニッポン」、私のことだ
「ふ、やはりか」
「虫垂炎と、盲腸がんのステージ2」の観劇の余韻
スロウコースターは刺激的だった
いいアトラクションだった
カメラ・イン・ワンダーランドは傑作だった
傑作、傑作、これは傑作と私は私を嘲笑した

私はみなさんにも問う
カメラ・イン・ワンダーランドのアトラクションのスロウコースターを下から食べませんか?
下から「にゃうるんとすぼり」食べて
下から「にゅうるんとすっぽり」吐く
『便潜血+』それがスタートの合図です
『カメラ・イン•ワンダーランド』

2023年8月19日は快晴だった。
9階の病室の南側の窓からの眺めはいい。とくに希望を出したわけでもない私は、大部屋(4人ベッド)で10日間過ごすことになる。私のベッドは窓際だった。

町のどこかで救急車のサイレン音がした。ひっきりなし、というわけではないにしろ救急車の出入りは多い。コロナ禍は遠い昔の出来事ではない。もし、コロナ禍に盲腸癌を患っていたとしたら、私はどうなっていたのだろうか。当時、とくに気にすることもなく、各自治体別の空きベッド数を、切迫感など感じることもなく流し見していた張本人が、今、入院しているのだ。
これはただの幸運だ。善人、悪人、分け隔てなく差し伸べられた救いの手が、偶然にも私に「shall we手術?」と来たのだ。私は「ウィ」と応えた。入院期間は10日の予定だ。私は、入院診療計画書をかるく頭に入れておこうと思った。

入院診療計画書にはこうあった。2023年8月21日『腹腔鏡補助下回盲部切除術』。手術日は明後日だ。なぜ手術の二日前に入院しているかというと、簡単に言えば、切除する大腸の中身をスッカラカンにするためだ。この手術前の二日間で下剤を飲んで、スッカラカンにスッカラカンを重ねるのだ。万が一手術中にもりもり大便が腹から尻から「こんにちわ」しないための大切な手術前の二日間なのだ。
 
2023年8月21日。予定どうり手術は4時間で終わった。
手術室に運ばれる途中に見た時計の針は14時30分だ。そう、記憶している。
私はその後『全身麻酔』の夢の中にいた。
手術前のベッドに横たわり、担当医と挨拶を交わした。マスク(麻酔の)が私に近づいてきた。

━━気づいたら、手術は終わっていた。全身麻酔の手術とはこのようなものなのだ。

しかし、なぜか、私は全身麻酔の夢の中で決勝ゴールを決めていた。なんでなんだ。全身麻酔とはそういうものなのか。日本にFIFAワールドカップ初優勝をもたらしたのは、この秋で49歳になろうかという中年男だったのだが、意識がもどるにつれ私の夢はフィールドから離れていった。
ここは手術室で時計の針は18時30分だった。どうやら私は無事で、どうやらすこぶる腹が痛かった。筋肉痛の強だ。いや、これは筋肉痛の強の上だ。それでも足りないような。筋肉痛の強の上の+だ。そもそも筋肉痛と比較して『腹腔鏡手術』の痛みを論じるのが場違いなのだ。
決勝ゴールの恍惚からの落差がひどかった。腹の痛みで仰向けでじっとしていられない。ツラい。「らくなしせい、らくなしせい、らくなしせいを見つけなければ」、私は焦った。
そうだ。わかった。胎児の姿勢がいちばん楽なのではないか。思い出せ。羊水にうかぶのだ。ぷかぷかうかんで丸くなろう。丸くなれば楽になるのではないか。私はそう思い「えい」と膝を抱えようと、目を下半身にうつした。
「ああ、なんてことだ」いつの間にか私は紙オムツをしているではないか。看護師に預けておいたLサイズのオムツは、このタイミングで装着されていたのか。いつの間に。てっきり自分で履くとおもっていた。私は油断をしていた。
Lサイズの紙オムツには隙間があった。「しまった、はみ出している」、やはりMサイズのオムツを買うべきだったか。夢の中とはいえ、はみ出した紙オムツのLで決勝ゴールを決めたのは世界で私だけだ。
私は腹痛に耐えながら、横向きに丸くなる胎児の姿勢を覚えた。私の『患者士』のレベルがひとつあがった。
装備は心もとない。Lサイズの紙オムツだけだった。

2023年8月21日。夕方。
私は手術室から外科病棟の大部屋に移動式ベッドで運ばれた。
かつて主流であった『開腹手術』に比べれば、私が受けた『腹腔鏡手術』は社会復帰も早い。腹は穴だらけになっているのだが、現在はこの『腹腔鏡手術』が大勢をしめているとのことだった。でも痛いのなんの。呼吸するのもこわごわといったかんじで、どうしても呼吸が浅くなってしまう。

移動中は感染症予防の不織布マスクの上に、さらに酸素マスクをしていた。廊下はとくに暑苦しかった。省エネと二つのマスクとで、三重苦だった。
私は咳とくしゃみがでないように祈った。「八百万の神様、誰でもいいですから。咳とくしゃみだけは勘弁してください」、不敬極まりない祈りだ。それでも、私は大人げなく痛みに負けた。「うっ」とか「はっ」とか「ふぅ」とか「ふぉー」とか、ついつい口走ってしまった。「痛いときは我慢しないでくださいね」そう言ってくれた看護師の言葉に、私は甘えることにした。「痛ふぉー、すね」「そうですね、痛いですよね」、とは言うものの看護師は私を運びながら「痛ふぉー」にしている私を気にとめているフシはなかった。看護師は慣れているのだ。修羅場の数も違うのだ。命のやり取りをコロナ禍でしてきた強者なのだ。「はい、せいのさん着きましたよ」

8月19日からたったの3日。窓側のこのカーテンで四方を目隠しされた空間にも、私は里心のようなものを感じていた。ほっとする。私の体には様々な管と装置がつながれていた。体が熱っぽい。息苦しい。とはいえ、人造人間にでもなった気分で格好良い。『半死半肉人間』『半大腸無盲腸人間』『無癌訥々人間』『腹穴複数詩氏』『術後賢者』『極私的復活者』等々。読み方は自由だ。

2023年8月21日に私は死んだ。ような気がした。
そして同時に、私はもう一度生まれたような気もしていた。48歳と11ヶ月の赤ん坊が誕生していた。ほら、紙オムツだって履いているし。私のぜんしんぜんたいは、『転向感』と『新品感』でいっぱいできらきらしていた。「シャングリラ生まれシャングリラ育ち」であるような気がしていた。大病を経験すると、みな、こうなるのだろうか。

その夜、看護師はこう言った。「抗生剤の点滴がもうすこしで終わるので、その後で眠剤の点滴を入れましょう。」私は腹の痛みに耐えながら眠剤の投入を待っていた。眠剤は今夜の試合の切り札であり、スーパーサブであり、結びの一番なのだ。痛み止めの点滴はまだ許可がでていない。眠剤の力を借りて充分な睡眠をとることで、腹の痛みから逃避するほかないのだ。

栄養は点滴で体内に取り込まれている。腹が減るということはなかった。ただ、水分の経口摂取は翌日まで禁じられていた。テーブルの手前に置いていた私の水もベストポジションから動かされ、看護師によってバッドポジションに動かされてしまった。それは私の視界から見えない位置だ。ベテラン看護師は侮れない。私の行動は読まれていた。水を飲まないまでも、隙あらば口をゆすぐつもりではいたからだ。そうなれば自ずと多少は喉を潤してくれるはずだった。もう一度いう、ベテラン看護師は侮れない。患者のことをそれとなく見ているのだ。プロの仕事だった。ベテラン看護師は手強い。患者は看護師の手のひらに載せられた人形だ。
そして、看護師の運動量の凄さには目を見張るものがあった。ぱたぱたぱたと、あれ程走る仕事だとは思っていなかった。外科病棟の看護師は(一部を除いて)ほとんど痩せていた。中には腕に引っかき傷がある看護師もいた。

しばらくすると、突然耳が痒くなった。腹の痛みでのたうち回るうちに、酸素吸入マスクがどういうわけか耳にしゅうしゅう酸素を送りこんでくる。すうすうするしむず痒い。点滴の管と腹帯(腹に巻くさらし)とはだけた手術着と紙オムツのLで、私のベッドはひっちゃかめっちゃかに散乱していた。こんまり氏でもいないと収拾がつかないようにおもわれた。しかし、私は私の理性では対処できない腹の痛みで苦しみながらも、色彩豊かでめまぐるしくうつり変わるベッド上を整理しなければならなかった。そして、自ら整えた。よくできたものだ。「ふあっ」とか「うっ」とか姿勢を変えるたびに幾度も声が漏れた。

「では、眠剤を点滴から入れていきますね」、これで私は眠れるのだろう。さよなら鬼のような腹痛と、なるはずであった。私の体に点滴から眠剤が投与されていく。
ほう、眠剤を投与されるとだんだん体が熱くなるのか。顔がほてり、頭がのぼせているようでもある。息苦しい。汗も止まらない。心臓の鼓動もいつもとちがう。これは初恋の感覚、ではない。私は、枕元にあるスマホに手を伸ばして検索をした。

『ホットフラッシュ』なんの必殺技だ。更年期障害?。色々羅列する文言を見ても『アマ患者』の私には判断がつかない。
私は生まれて初めてナースコールを押した。そして、事情を話した。「そういえば、この間の造影剤を使用してのCT検査でも、体のほてりと若干のアレルギー反応がありました」
「そうですか、じゃあ、眠剤の投与は中止しましょう」
今夜、こうして私の不眠が確定した。看護師が眠剤の点滴を外しながら、「アイスノンありますけど、使いますか?、人気なんですよ。他の患者さんもよく使ってますよ」私は間髪を入れず「━━っます。使います。ふたつお願いします」と言った。ああ、アイスノンありがとう。それでも眠れないけど、ありがとう。

そして、ここは大部屋だった。私のほかにも同室の入院患者が3名いた。私なりに、プライベートに配慮して仮名を付けた。
『ゴジラさん』と『イウォークさん』と『王蟲おうむさん』だ。それぞれの鼾から私が愛をもって命名しました。
私の8月21日の夜はこのように『不眠不休』であるばかりでなく、『不眠有痛』でもあった。こうなってしまっては、さらさら眠るつもりはなかった。私は私の意識を別世界に飛ばすことにした。それぞれのムービースターの鼾に耳を傾けて、痛みの少ない体勢を探す冒険に私は出発することにした。この病室には『ゴジラ』と『イウォーク』と『王蟲』がいるのだから。
本多、円谷コンビと、ルーカス&スピルバーグに宮崎、高畑コンビによる夢の『大鼾獣戦争だいいびきじゅうせんそう』がカーテンで隔てられただけの三方から私を責めたててくる。残念ながら私が長年愛用していた高名な耳栓も役にたたなかった。それでこそ『3鼾獣』だ。手強い。

そして、この『大鼾獣戦争』の多チャンネルサラウンドシステムの音響は、3人それぞれの睡眠薬によるところも大きいのではないかと思われた。私は入院するまで、これほど睡眠薬を入院患者が日常的に服用していることを知らなかった。睡眠障害の者は私が思っているよりずっと多いのだろう。

サラウンドシステムは9チャンネルあった。右鼻。左鼻。口。✕3人分だ。どのスピーカーもビンテージ品でそれぞれに味があり、その鳴りはそれぞれの体躯のサイズと関係しているのかも知れない。興味深い。オーディオとはそういうものだ。惜しむらくは、カーテンの仕切り一枚とはいえ、それぞれの私的空間は充分に確保されていたということだ。そのため『3鼾獣』の背格好までは、私にはわからなかった。

また、ビンテージ品のスピーカーは、「か」とか「く」と言ったきり、前触れなく息がつまるように『無』になることも多い。私は何度か肝を冷やした。これこそがビンテージスピーカーの魅力なのだろうか。「か」で無音になり数秒後に「ずびいいいい」と鳴るのだ。慣れるまでに小一時間かかってしまった。こんな環境で繊細な私が眠れるはずがない。私は、眠れぬまま夜を明かした。気づけば窓の外は明るくなりかけていた。

手術から丁度半日がたった。私は相変わらず、10段階中の10の腹痛を柔らげるための多種多様な寝姿勢を試していた。
医療器具に絡まれながらも、私の夜中の探求の結果はむなしいものだった。成果という、成果はなかった。せめて10段階中の9でもいい。なにかないものか。
ふと、ベッド脇に目をやるとリモコンがある。そのリモコンはベッドの外側に表を向けていた。いわば、看護師側だ。私はくるりと患者側に表を向けた。それは、パラマウントベッドのリモコンだった。盲点だった。なぜいままで気づかなかったのだ。
だが、患者がこのリモコンを勝手に使用していいものなのか。新米患者の私には分からなかった。でも確かに、「ジー』とか「キー」とかパラマウントベッドの稼働音らしきものはどこかのベッドから聞こえていた。
腹痛に耐えかねた私は押した。ゆるやかな『W』とでも言おうか『~』とでも言おうか、横から見るとそんなかんじの角度がつけられた。『L』にもできるぞ。
「なんてやさしい姿勢をくれるのだ」パラ様。
私の腹痛は10段階中の8になった。私はこのときよりパラマウントベッドのことを『パラ様』と言うこと事にしている。
『パラ様』の微調整「パラ音」が私のカーテン部屋から「ジーキージーキー」し始めると。他のベッドからも大胆な「パラ音」が聞こえてきた。
ここは、大部屋だ。患者それぞれが遠慮しながらストレスを抱えて過ごしている。9階のとある大部屋では、朝の6時に「パラ音」の大合奏が始まっていた。

点滴スタンド以外の医療装置は昼には外された。水も飲める。こうして、『パラ様』のおかげで私の入院生活はずいぶん快適になった。
この時点で私はまだ紙オムツのLを履いていた。オムツからは管が伸びて点滴スタンドの下方の尿袋(と私は呼ぶ)に尿湖(と私は呼ぶ)を貯めていた。すごく便利だった。尿意があるのかないのかすら私には分からなかった。それなのに、いつのまにか尿袋にいっぱいの尿湖ができあがっているのだ。それを看護師が定期的に捨ててくれていた。ありがとう。

私は完全に寝たきりになっていた。栄養は点滴から腕に送られて、尿道からは管をとおり尿袋に尿湖を貯める。『パラ様』のおかげで腹にやさしい姿勢も手に入れる事もできた。だが、私は喉が渇いていた。
腹腔鏡手術後から24時間が経っていた。ミネラルウォーターのペットボトルは、あと1本だ。夜中に備えて、あと3本はほしい。だが、私は歩けるのか。点滴スタンドを支えにすればなんとかなるのか。「ミネラルウォーターがほしい」とナースコールを押すのは私のプライドが許さない。
『パラ様』のおかげで、寝てさえいれば私の腹痛は10段階中の8だ。でも、歩くとなると10段階中の10になる可能性があった。販売機まで往復20メートルはあった。いけるのか私は。
結果。私は行った。点滴スタンドの力を借りて、私は行った。
『h』だった。窓ガラスに写しだされた私のシルエットだ。左の縦棒は点滴スタンド。それにもたれ掛かる私の全身は腰から折れ曲がり90度から上がらなかった。
「痛ぇ」し「h」だし「10の10」だし。私はなんともいえない顔をしていた事だろう。そんなふうに、私の手術後一日目は(無事?)終わった。

さて、虫垂炎からの入院生活はここらで閉めよう。あとは、だんだん腹痛が穏やかになっていくだけだ。点滴スタンドをもって歩く私の『h』の腰の曲がりも、また穏やかになっていった。
オムツを脱がされ、体も拭かれた。点滴スタンドの尿袋もいっぱいだ。「たくさんオシッコでてますよ(オムツの中ではない)」と看護師に褒めてもらった。
やがて、点滴も不要になり、シャワーを浴びる許可もでた。私は私の脚力でどこにでも行けるようになった。食事も流動食のようなものから、お粥、白米と通常の食事(薄味)に戻っていった。私の体調が回復するにつれて、担当看護師もベテランから新人に変わった。よく出来た(良い)システムだ。

尿袋(私と一体のものではない)は、点滴と同時に外された。それでも一回毎の尿の測定は退院間近まであった。一回の尿量を500㎖の計量カップで量り、紙に尿量を書いていくのだ。それを看護師が計算する。私は、たびたび「たくさんオシッコでてますよ」と看護師に褒めてもらった。たくさんオシッコがでると褒められる(良い)システムだ。こちらもやる気がでるというものだ。
腹痛は10段階中の3くらいにはなっていた。もう、なにもおこらない。平和な時間だけがながれていた。そして私は退院した。
誰も褒めてくれない日常に回帰するのだ。結果的に、私は盲腸癌のステージ2の転移なしだった。5年生存率は80%。その期間に再発がなければ、『完治』となる。

『ミスター•ミス•ニッポン』のタイトルを返上するのは5年後だ。

と、言っておきながら、2024年3月。肝臓にがんが大小6個確認された。
転移=ステージ4だ。それは、また別の機会にでも書こう。




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