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"歴史" 系 note まとめ

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#日本史

【現地リポート】日本史講師が”歴史フェス”に潜入!!

皆さん、こんにちは。 日本史講師のSatoです。 今回、私は2024年3月17日に名古屋大学東山キャンパスで開催された”歴史フェス”に潜入してきました。 その模様をお届けしたいと思います。 ”歴史フェス”とは・・・ 歴史フェスは、歴史に関心のある人が一つの場に集まって、ともに歴史を楽しむお祭りです。 (歴史フェス公式HPより) 歴史研究者や社会科(日本史・世界史)教員のみならず、歴史を楽しみたいすべての人が一緒に歴史(学)について考えたり、情報共有したりするという新しい

國學院大學ポッドキャスト番組「学問のNUMA」 歴史学から切り拓く、教科書には載らない戦国時代<後編>

その時歴史を動かした!? 矢部教授の論文に世間が注目 第3回のゲストは、文学部史学科の矢部健太郎教授。<前編>では、戦国時代に起こった数々のイノベーションや織田信長と豊臣秀吉の知られざる素顔に迫りました。 <後編>では、矢部教授の人となりがわかるエピソードも。なんと、歴史学のNUMAにハマったきっかけは、歴史シミュレーションゲームの名作「信長の野望」なのだとか。同じく「信長の野望」にハマっていたタツオさんも乗っかって、話題は思わぬ流れに。2人のゲーム愛に宮田さんもたじたじ

渋谷の風景印散歩で國學院大学博物館へ

昨日、渋谷の風景印散歩で塙保己一の史料館へも立ち寄った事を書きました。 が、それ以外にも行ったことのない所へ立ち寄りました。 國學院大学博物館です。 ⬇️此方は博物館のパンフレット表側 ⬇️パンフレット裏面の地図です。 まち歩き、最終箇所。 高齢者の方々、よく歩きましたね。 主催者の方が 埴輪や土器が所狭しと雑貨屋のように並んでいる と仰っていて まさかねぇ…と思ったのですが、 はたして その通り!言い得て妙、な表現でした。 先ずはかわいいお二方がお出迎え

【ニッポンの世界史】#23 「国益」のための世界史へ:なぜイスラム世界は「文化圏」に格上げされたのか?

格上げされた「イスラム世界」  1970年度学習指導要領では「イスラム世界」が、ヨーロッパ文化圏、中国の文化圏とともに、単独で世界の「三大文化圏」のひとつに数えられるようになりました。  この「格上げ」の背景にあるのは、やはり戦後の研究の進展により参照できる情報が増えたということが大きいでしょう。  もともと西洋生まれの「世界史」において、イスラムの扱いは貧弱で、その傾向は、西洋的世界史の影響を強く受けた発足当初の世界史も同様でした。  そこでは、西洋文明が まるで”主

『東大のディープな日本史』アーカイブ①・「日本」はいつから始まったか?

 2月26日に、『東大のディープな日本史』の最新刊である〈傑作選〉が刊行されます。そこで、出版元のKADOKAWAさんの厚意により、これまで1〜3に収録した問題の中から、泣く泣く〈傑作選〉から外したものを、記事として紹介していきたいと思います。  1回目となる今回は、「日本」の国号の成立にも関わる遣隋使・遣唐使に関する問題です。 ・〈外交音痴〉ではなかった古代の朝廷  昨今の領土問題やTPP参加問題をめぐる政府の対応を見ていると、日本人はどうしてこうも〈外交音痴〉なのだろ

【ニッポンの世界史】#19 「戦前」やアジアと向き合う世界史は可能か? : ロストウ・ライシャワー・竹内好

高度経済成長と近代化論  安保闘争が岸信介の退陣により急速に沈静化すると、政治の季節は経済の季節へとうつりかわります。GNPやら経済成長率やら、経済学者しか使わなかった用語が、国民の人口に膾炙するようになっていく。  「いざなぎ景気」や「三種の神器」といういずれも皇室と関連する言葉を用いたネーミングが、経済成長を象徴することばとして流行したことは、日本人の自信回復のあらわれでもありました。  思い起こせば、1945(昭和20)年に戦争が終わり、「間違っていた」とみなされるよ

【ニッポンの世界史】第18回:1960年代の新動向—「明治百年」・反戦・『岩波講座世界歴史』

昭和元禄と明治百年:政治から経済へ  学習指導要領が告示された1960年は、日米安保をめぐる闘争が、条約の締結と岸信介内閣の退陣という幕引きをみた年でもありました。  岸を引き継いだ池田内閣は、防衛費をおさえつつ経済成長に力を入れ、ここから「政治」の時代は「経済」の時代に様変わりします。1964年には東京オリンピックが開催され、国民の生活水準も全体として着実に上向いて行きました。「豊かさ」がそこかしこにひろがり、1968年には「昭和元禄」という言葉も聞かれるようになりました

【ニッポンの世界史】第16回:授業時間が足りない?—就職者にとっての世界史

A科目とB科目に分かれるまでの世界史の変遷  1960年度指導要領で就職者向けのA科目と進学者向けのB科目に分かれた世界史。A科目は週3時間、B科目は週4時間が標準とされました。  前回の1956年度学習指導要領では、社会科に「社会、日本史、世界史、人文地理」が設置され、このうち高等学校の社会科は日本史、世界史、人文地理から2科目は必ず履修することになっていました。  しかし1960年度指導要領では、社会科として「倫理・社会、政治・経済、日本史、世界史A、世界史B、地理

【ニッポンの世界史】第12回:梅棹忠夫の『文明の生態史観』

トインビーの来日  1954年に大著『歴史の研究』の一応の完成をみたA.J.トインビーが日本を訪れたのは、1956(昭和31)年のことでした。  一度目の来日は、国際問題の第一人者として1929年にひらかれた「太平洋問題調査会」に出席するためでしたが、今度は文明を大きく論じる歴史家としての来日です。  滞在中には各所で日本の知識人と交流したり、一般向けに講演したりする機会がもたれました。訪日が知識人に与えた影響は、翌年発刊された『トインビー・人と史観』からうかがい知ること

【歴史的視点】歴史を日常にどう活かすか?

こんにちは、けいごです。 仕事やプライベートを充実させる中で、「視点のストック」をためることは非常に有効です。「視点のストック」というのは、「その経験独自の視点を身につけること」としています。 例えば、警察官を数年続けていれば、警察官的な物事の見方が出来るようになります。その他の仕事や趣味で得た「視点」もストックとしてためていくことで、様々な日常の出来事に応用し、人生をより面白いものにしていきます。 「視点のストック」とは「視点のストック」の考え方については、以下の記事

【高校日本史を学び直しながら文学を読む】はじめに

 僕は私立の中学・高等学校で社会科教諭として勤務し、主に高等学校の授業を担当してきました。社会科のほとんどの科目を担当した経験がありますが,主に日本史と倫理の授業を担当してきました。現在は高校の「日本史探究」と「歴史総合」という科目を担当しています。  勤務先以外でお仕事をいただくことも増えてきて、大学入試問題の解答・解説、授業実践の発表、大学での講義、社会人向け歴史講座の講師、高校教科書づくりへの参加など、現在多くの経験をさせてもらっています。  「歴史教育」に関わる上

ニッポンの世界史【第4回】東洋史の「再発見」 : 宮崎市定・古代文明・トインビー

宮崎市定 「ヨーロッパは後進国だ!」  戦前の日本における東洋史は、中国史のウエイトが多くの割合を占めていました。  しかし、いわゆる京都学派の宮崎市定のように、アジアが世界史に果たした役割を重視し、アジアを射程にいれた世界史を描こうとする試みも、すでに戦前からありました。  たとえば、文部省の要請により宮崎も編纂委員として関わった『大東亜史』(未完)の冒頭部分をもとに戦後刊行された『アジア史概説』は、東洋史の学習指導要領(試案)でも参考図書に挙げられています。  オリエント

【趣味活】30代になり初めてわかった「歴史」の楽しみ方をまとめる

こんにちは、けいごです。 お恥ずかしながら、30代に突入して初めて歴史の面白さを知りました。それまでは、「戦国時代? 歴史っていつも戦ってませんか?」みたいな感じでした。しかし今では、徳川がどうのとか、信長がどうのとか、割と話せるくらいになってきました。 歴史の楽しみ方には人によって様々あると思いますが、私なりの「面白いと思ってること」と「楽しみ方」をまとめていきたいと思います。 本記事では「歴史がつまらなすぎて勉強が進まない」と感じている学生さん、「歴史を知りたいんだ

栄西の交友関係

鎌倉新仏教の開祖のひとりに栄西(えいさい、ようさい/1141-1215)がいる。 備中国の出身で、比叡山にのぼり密教と天台宗を学んで山林で修行した。 二度にわたる入宋ののち、日本に臨済禅を伝え、北条政子や源頼家などの帰依を受けたことが知られている。 さて、この栄西、広い交友関係が知られている。 まずは重源である。栄西は先に述べた通り二度入宋しているが、そのうち一度はこの重源とともに帰国している。その縁で栄西は重源のあとをついで東大寺大勧進職に就任している。 *「勧進」