見出し画像

"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第18話 ヨーロッパ船の出現と幕府の動揺(1760年~1815年)

産業革命がイギリスで始まる時代

総目次はこちらから。
◎前々回(1500~1650年)、前回(1650~1760年)の時代。

―この時代に、ついにアジアとヨーロッパの「大逆転」のきっかけになる出来事が起きるよ。

あれ、今まではどちらの地域のほうが力は上だったんでしたっけ?

―経済済的にも軍事的にも、アジアのほうが断然上だ。


 ヨーロッパがアフリカやアメリカを経由してアジアに向かったのも、「大航海」というカッコいい名前が付いているものの、実際には豊かなアジアにある物欲しさに目指したんだったものね。
 アジア各地でつくられるハイクオリティな商品は、とてもヨーロッパでは作ることができなかったんだ。

でも、この時代にそれが「逆転」することが起きると…

―そう。
 そのひとつの原因が、人や馬を使わなくても、その数十倍ものパワーを出せるテクノロジーの開発だ。


「数十倍」…ですか!

―もしもサルだったら、力(ちから)を出す仕事をするには自分の体を使うしかないよね。その場にある木とか石を使うっていっても、結局は自分の体を使うしかない。


 人類もはじめはサルと同じだった。
 何をするにも、力を出すには自分の体を使うしかない。

 それがイヤなら、誰か別の人を使うしかない。
 そこで利用されたのが「奴隷」だ。

 ‘Voyage pittoresque dans le Brésil’, published in 1835, by the German artist Johann Moritz Rugendas. (Royal Museums Greenwichより)


 敵を奴隷として、力を出してもらう道具として使ったわけだ。


家畜も力を出す道具として使えませんかね?

―家畜なら、たとえば馬1頭で奴隷7人分のパワーが出せるといわれている。
 でも、人にしろ馬にしろ、体力には限界があるよね。


消費カロリーには限界があります。

―そうだね。
 成人男性だったら1日にこれぐらい食べなきゃいけないという量が決まっているけど、さすがにそれを何十倍も超える量のご飯を食べるわけにもいかないよね(笑)
 馬だって同じ。
 エサを食べる量には限界がある。


どうすれば人も馬も使わずに、仕事をする力を手に入れることができるんでしょうか?

―まさにそんなことができれば夢のようだけど、その夢のようなことが、この時代に実現したわけだ。
 燃料は石炭。
 石炭を燃やすことで、その熱であたためられたお湯から湯気(ゆげ)が出て、その湯気がふくらむ力を利用して機械を動かせることがわかったんだ!
 その力はなんと馬50頭分! 
 改良が重ねられ、最終的には馬2000頭分にまでパワーアップした!

馬2000頭! そんなに力があったら、なんでもできそうですね。

―たとえば荷物をたくさん積んだ箱に車輪を付け、鉄でできたレールの上をその力で走らせれば、「鉄道」になるよね。
 その箱を海に浮かべてスクリューを回せば、帆(ほ)がなくても高速で巨大な船を動かすことだってできる。

 今まで動物の力や風の力に頼っていた人間の活動範囲が、劇的に変化することになるんだ。

 さらに機械なら、燃料さえあればいつまで動いても疲れない
 同じようなクオリティの商品を大量につくることだって可能になる。


「職人技」の意味がなくなってしまいますね。

―だよね。
 インドから輸入されていた高品質の綿織物(綿の糸で編んだ布。キャラコ)も、機械をつかえばマネできる。
 そもそもこの新技術の発明も、アジアからの輸入に頼っていた製品を、自分の国でつくりたい!という願いから生まれたんだよ。


なるほど。こんなことになってしまえば、イギリスはどんどん経済的に発展していきますね。

―大量に物がつくれるようになったということは、原材料もその分たくさん調達しなければならないから、海外への進出も強まっていくよ。

 でも良いことばかりとは限らない
 人間が機械のペースに合わせて働くようになれば、人間がそのペースについていけなくなってしまう。機械は疲れないからね。
 機械や材料を導入するのにもお金がかかるから、経営者は「利益」のことを一番に考えるあまり、働く人をコキ使いがちだ。


昔のように、同じ業種の人が集まって協力し合ってお互いつぶれない程度に「なあなあ」で商売をする時代は終わったわけですね。

―その通り。
 「どうすればもうかるか?」を考える実力本位の時代になっているわけだ。
 起業家は、それを知恵をしぼって考える。
 貧しい田舎出身でも、アイディアひとつで成功をおさめることも可能だ。

 彼らにとってジャマだったのは、古臭い身分制度だ。
 生まれたときから「身分」が決まっていたら、どんなに実力があっても這(は)い上がることはできないという古臭い身分制度
 このような「古い制度を変えよう!」という運動が、政治や経済の世界で盛んになっていくのもこの時代だ。


「古臭い制度」イコール、「王様」や「教会」ですね?

―そう。王様や教会は、自分たちを頂点にして国じゅうに家来を従え、広い土地を所有していた。
 土地がこういう古臭い人たちにの持ち物になっている限り、そこで自由にビジネスすることはできない。
 そこで新しく「ものづくり」でのし上がっていった起業家たちは、やがて政治活動を始め、世の中のしくみを変えていこうとするよ。


成功したんですか?

―それが、イギリスではだいたいうまくいき、フランスでは大混乱におちいる。
 なんでもそうだけど、「もうけ話」というのは一番初めに成功した人だけが大きな利益を得るものだ。イギリスはその後、世界で一番リッチな国としてトップランナーとなっていくよ。

 アメリカに移り住んだヨーロッパ人は、ほぼゼロから、新しい時代に合わせた国を建設することに成功する。

 それに刺激を受けて、カリブ海の島のひとつ(ハイチというところ)や、南アメリカでも、「自由」を求める運動が盛り上がるよ。


 人間は文明が始まって以来ずっと「進歩」してきた。
 今もその「進歩」の途中だ。
 だから、古臭い制度は倒されるべきで、新しい世の中の仕組みへと「進歩」するべきだ、という考え方がヨーロッパから広まっていったわけだ。


良い考え方ですよね?

―ただ、なんでも「人間の思い通りに変えていこう」という考え方は、ややもすれば、人間の思い通りに「自然」を作り変えていこうという考え方になりがちだ。科学が技術に応用されれば、効率よく自然を改造することだって可能になる


例えばどういうことですか?

―燃料がたくさん欲しい!と思えば、山を思い切り掘り返して大量の石炭を獲得することも可能になるよね。
 で、その石炭を燃やせば、大気中の二酸化炭素濃度は上昇する。
 こうして人類は、地球上で唯一、地球の自然を大規模に作り変えてしまう力を手にした動物になったわけなんだ。


かなり大きな変化ですね…。
中国や日本への影響はあったんでしょうか?

―中国では、自由に貿易をおこなうことのできる拠点がいくつかできているね。
 ユーラシア大陸や北アメリカの北方でラッコなどの毛皮をゲットし、中国に売れば大儲けできた。この「毛皮交易をめぐる欧米の抗争」が、日本近海にも及ぶことになっている。


当時の幕府の将軍は?

―この時代の初めに第10代(注:徳川家治(いえはる))が即位。


 彼は「商業を重視」する側近(注:田沼意次(たぬまおきつぐ))を重用した。


どんな政策をしたんですか?

―彼は、商品の生産や流通をコントロール下に置けば、幕府の収入になると考えた。

 そこで、都市や農村の商人や手工業者がつくっていた「助け合い組織」を株仲間として公認・保護し、その代わりに売上の一部をおさめさせた(注:運上(うんじょう)、冥加金(みょうがきん)。
 また、特定の商品の販売を独占する組織(注:座。銅座、人参座、真鍮座など)をつくらせ、専売制を実施した。大坂の大商人の資金も活用し、金融市場を安定化させようともしているよ。

 従来は東日本のお金は金、西日本は銀だった。
 この2つの通貨圏を統合しようと、「南鐐二朱銀」(なんりょうにしゅぎん)を導入している。

 また、貿易を盛んにしようと、中国の高級食材向けに、いりこ(なまこを煮たあとで干したもの)や干しアワビ,フカヒレを「俵物」(たわらもの)としてじゃんじゃん輸出している。

円山応挙「長崎港之図」 。右下に出島が見える。
(長崎歴史文化博物館所蔵。長崎市公式観光サイトより)

どうしてそんなに輸出するんですか?

―貨幣の材料にするための銀を確保したかったんだ。

 同時に国内の開発もおろそかにはしない。
 現在の千葉県の低湿地(注:印旛沼(いんばぬま)・手賀沼)の開発に着手しているし、工業化も推進している。


なんだかすごい先進的ですね。
貿易をした相手は中国だけだったんですか?

―なんとロシアとの貿易の可能性もさぐっていた。

 青森県の松前藩はこのころ、国後島のアイヌとの交易を始めていた。背景にはロシアが貿易エリアを、北海道の北東の島々(注:ウルップ島)に広げ、アイヌとの間の交易をはじめていたことがある。


ロシアってそんなところにまで来ていたんですか! 

―ロシアはもともと東ヨーロッパで生まれた国だけど、前の時代から短期間でユーラシア大陸の東部にまで進出していたんだ。当時ロシアのトップに君臨していたのは、女帝(注:エカチェリーナ2世)だ。

 幕府が対ロシア対策の必要性を現実的に考えるようになっていた中、仙台の医者(注:工藤平助)がロシア研究書(注:『赤蝦夷風説考』(あかえぞふうせつこう)を著した。この中で、北海道(注:蝦夷)を調査を調査するべきだと訴えたことが政権にも反映され、探検家(注:最上徳内)に、国後島(くなしりとう)・択捉島(えとろふとう)・ウルップ(得撫)島のロシア人を調査させている。


今でもロシアとの間に領土問題を抱えているところですよね。

―そんな中,浅間山(あさまやま)の大噴火が甚大な被害を与えた。
 成層圏まで吹き上がった噴煙により悪天候が続き、至るまで冷害が続き,天明の大飢饉が勃発した。
 実はこのときの噴煙が、地球レベルで気候不順を引き起こし、農作物への打撃を与えた結果―。


結果?

―フランス革命の遠因になったともいわれている。

日本の噴火が、フランスにまで影響を? すごいスケール。


―当時の日本では商品作物が普及しており、農民の中には富農(注:豪農)と貧農(注:ほかには小作人)への分解がすすんでいたことも、飢饉が大規模化した一因だ。
 豪農たちは農業生産をアップさせようと、最新の農業技術書(注:大蔵永常(おおくらながつね)の『広益国産考』『農具便利論』)を参考に新技術を導入していく。

 なにをするにもお金が必要な社会になってしまうと、土地を「カタ」にして借金をする農民も現れる。彼らへの金貸しでもうけた人は村の内外の土地を「質流れ」によって得て、地主になっていったんだ。

 土地を失い村を出ざるをえなくなった百姓は、別の村や町で日雇いや年季奉公をさがすようになると、しだいに村の「一体感」は崩れ、内輪もめ(注:村方騒動)も生まれるようになった。
 年貢の増税に対して、一致団結して村人が立ち上がることも増えていく(注:惣百姓一揆による強訴・打ちこわし、より広い範囲の国訴)。

 三都(大坂、京都、江戸)の有力商人は和紙や織物の問屋制家内工業を進め、それに従った手工業者は賃労働者(注:給料を頼りに働く人たち)になっていった。


これまでの社会の秩序が崩れていますね。


―綿織物(注:大坂、尾張)、絹織物(注:桐生、足利)の伝統工業がさかんになるのも、この時代のことだ。
 有力農民(注:豪農)が貧農を働かせたり、原材料や道具を借りて「給料」をもらう貧農が現れたりするようになる。江戸の北部の北関東の農村は、江戸の商人たちの「ビジネス」に飲み込まれていくこととなったんだ。
 

 それに加え米価が高騰、大規模な打ちこわし(注:天明の打ちこわし)。
 村の中に貧富の差ができたことや、村から都市に貧しい農民の一部が流れ込んだことも原因だ(注:潰れ百姓)。
 住所不定(注:無宿者や浪人)の人たちを取り締まるため、幕府は役人を巡回させることで治安を守ろうとしているよ(注:関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく))。
 荒れ果てた農村を立て直す活動を始める人(注:二宮尊徳)も現れている。


こんな混乱では、政権も打撃を受けますね。

―商業を重視した政治家(注:田沼意次)は、権力を集めすぎて、商人との癒着も指摘されるようになり、批判も高まっていった。
 この政治家の息子(注:田沼意知(たぬまおきとも))を江戸城内で暗殺した幕府の家来(注:旗本の佐野善左衛門(さのぜんざえもん))は、「よくやった!」と当時の人々にたたえられたほど(注:世直し大明神)。


あまり理解されなかったんですね。火山も噴火しましたし。

―ちょっと先進的すぎたのかもしれないね。彼の業績には「見直し」もすすんでいるよ。


 批判の高まるなか彼が追放されると、新たな政治家が登板(注:松平定信)。農村の復興による幕府の財政再建(注:旧里帰農令など),治安回復,政権批判の取締り(注:寛政異学の禁(朱子学以外は勉強してはならないというお触れ))、ロシアの南下対策といった政策を実施していった(注:寛政の改革)。

 「改革」っていうのは、運営がマズいときに行うもの。
 このスキをみて、天皇を中心とする朝廷側は「リベンジ」を目論み、古来の儀式を復活させたり、御所(ごしょ)を拡張したりするなどして幕府への対抗意識を強めている。


幕府と朝廷のバランスが崩れ始めていたんですね。

―この頃、天皇(注:光格天皇)が自分の父親に太上天皇の称号を贈ろうとしたとき、それに「イチャモン」をつけて阻止している(注:尊号一件(そんごういっけん))。
 改革をおこなった政権(注:松平定信)は、「幕府の権力は、天皇から任されているものなんだ」(注:大政委任論)っていうアイディアを打ち出し、なんとかうまくやっていこうと試みてもいる。

 「日本の君主は「天皇」やろ」という主張も、神社の関係者から出るようにもなっている(注:竹内式部(たけのうちしきぶ))。公家たちにその説を広めたことで、京都から追放されているけど(注:宝暦事件)、こうした尊皇論(天皇を日本の君主とみることによって、幕府の体制を補強しようという考え方)はその後も起きている(注:山県大弐(やまがただいに)の明和事件)。
 また、仏教や儒教以前の思想に帰ろうという主張をする学者も出ているね(注:平田篤胤(ひらたあつたね)の復古神道)。
 ただ、まだこの時期の尊王論は「幕府を倒そう」という過激な考えには至っていない。

 こうしたゴタゴタもあって、改革の立役者(注:松平定信)は、当時の第11代将軍(注:徳川家斉(いえなり))と対立し、失脚。
 その後は、国防費のアップもあって、幕府の財政は傾くようになる。
 

国内も大変そうですが、ロシアの南下も、相変わらず問題となっていたんですね。

―ロシアだけじゃない。

 現在の和歌山県串本町に,アメリカ合衆国の商船レディ・ワシントン号とグレイス号が来航。紀伊藩の役人が対応する前に,すでに姿を消してしまっていたから、大変なことに…。

 さらに,福岡県,山口県,島根県に正体不明の外国船(イギリスの商船アルゴノート号)が現れたことを受け,幕府は異国船取扱令(いこくせんとりあつかいれい)を発令し,警戒を強めた。


どうしてイギリスやアメリカの船が日本近海に?

―じつは、当時のイギリスとアメリカ合衆国もまた、北太平洋沿岸のラッコの毛皮を中国の清朝に輸出するために抗争をしていたんだ(注:後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013)。

 そもそも太平洋岸一帯を勢力圏としていたのはスペインだったよね。でも、この頃にはイギリスの探検家(注:クック)が太平洋を探検したことを皮切りに、アメリカやイギリス船の航行が活発化していったんだ。

 このことを警戒した学者は『三国通覧図説』『海国兵談』を記し、「日本橋からヨーロッパまで、一本の海のルートでつながっているんだ!」と、「海の守り」を強化するように幕府に訴えたけど、発禁処分となっている。
 当時の情勢を考えると、実に的を射た意見だったわけだ。


ロシアも負けていられませんね。

―そう。
 ロシアからは使節(注:ラクスマン)が北海道の根室(ねむろ)に来航した。

 しかし,幕府はロシアとの通商を拒否し、長崎への入港を許可した。
 これ以降,沿岸防備策を進めていくことになる。

 幕府は探検家(注:最上徳内(もがみとくない)、近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)らに択捉島に上陸させ,「大日本恵登呂府」(だいにほんえとろふ)の標柱を建てさせた。さらに、北海道東部(注:東蝦夷地)を直轄地として、入植を開始。さらに蝦夷奉行(のち箱館奉行)を置いた。


幕府はどうしてロシア人と「やりとり」ができたんですか?

―実はロシアは、日本人の漂流民にロシア語を学ばせ、通訳として連れてきていたんだ(注:大黒屋光太夫)。



 幕府側も、ロシア語の専門家の育成に力を注ぐようになっていく。

 そんな中、ロシアからの貿易の要求は続いていった。
 この時代の終わりにはロシアの使節(注:レザノフ)が長崎に来航し、日本に通商を要求

国立公文書館デジタルアーカイブより(クルーゼンシュテルン提督が率いるロシア船の図。)、(聖ペテルスブルグの外港から、大西洋を横断し、マゼラン海峡、ハワイ、カムチャッカを経て長崎に来航したレザーノフ一行を乗せたロシア船の航路。)


 幕府が通商を拒否したことから、ロシア海軍は北海道の北にある樺太島を襲撃。さらに、択捉島(えとろふとう),礼文島(れぶんとう),利尻島(りしりとう)を襲撃している。


やばいですね。

―北方の緊張はこれまでになく高まった。こうしたロシア船の出現も,北太平洋方面の毛皮を中国市場へと売り込もうとする欧米諸国の競争が背景にあったんだ。

 相次ぐ外国船の接近は,江戸幕府の対応を急ピッチに加速させることとなった。
 改革をおこなっていた政治家(注:松平定信)は、自分で神奈川(注:相模)や伊豆を視察して、「どうやったら江戸を守ることができるか」考えた。
 また北の守りを強化するために、青森県に警備のための役所(注:北国郡代(奉行)(ほっこくぐんだい))を建てている。防衛費がかさむようになると、幕府だけでなく藩の財政も厳しくなっていくことになるよ。藩の中には、独自の改革をおこなうところも出てきて、その過程で「藩は一つという意識」も高まっていった(注:熊本の細川重賢(ほそかわしげかた)、松江の松平治郷(まつだいらはるさと)、米沢の上杉治憲(うえすぎはるのり)、秋田の佐竹義和(さたけよしまさ))。

 また欧米の船の接近が多くなるほど、幕府に「鎖国」という自己意識を形成させていくこととなった。
 蘭学者(注:志筑忠雄((しづきただお)が、かつて日本に滞在したオランダ人医師(注:ケンペル)の『日本誌』を和訳して「鎖国論」と題したのも、この頃のこと。江戸幕府ははじめから「日本は鎖国している」という外交方針をとっていたわけではないんだよ。


「鎖国」っていう言葉は、「後付け」の言葉っていうことですか。

―そう。だって、海外に対して「4つの窓口」は開いていたわけだからね。

 ところが、この時期になるとヨーロッパ諸国の争いが、その「4つの窓口」にも持ち込まれる事態に発展してしまう。


どんな事態ですか?

―この時代のヨーロッパはまさに「激変期」を迎えていた。
 イギリスで産業革命が起き、経済力で他国を圧倒。
 フランスでも、「イギリスに追い越すために、政治・経済や社会の仕組みを変えるべきだ!」という急進的な運動が起こっていた。


フランス革命ですね。

―そう。
 フランスでは、王様・貴族・教会・商工業者・村など、さまざまな「グループ」があって、それを王様が支配する形をとっていた。
 各グループは別々の「論理」で動いていて、全体としての一体感はない。王様は各グループのバランスを取りつつ、軍事力と権威によってそれを束ねていたわけだ(注:社団国家)。

 しかし「これからの時代は、自由に「個人」が活躍できる時代にするべきだ!」というグループが、従来の社会のしくみを根本からひっくり返そうとする革命を起こす。
 そのベースにあったのは、まとまりのない「各グループ」が伝統に従い王様の「言いなり」になる(ふりをしている)状態よりも、「個人」が一致団結して「」を盛り上げていったほうがパワーが発揮されるはずだ! という考えだ。

おー。

―でも、「変えよう!」といっても、人によっていろんな「立場」や「やりかた」があるから難しい。
 結局、王族・貴族・商工業者・ふつうの人々など、さまざまな人の支持に応えた「カリスマ的人物」(注:ナポレオン)が「皇帝」に即位することによって、イギリスと対決する姿勢が出来上がった。


それってイギリスだけでなく、ヨーロッパのほかの国々にとっても脅威ですよね。

―そうだね。フランスはイギリスに追いつくため、スペインやドイツ、イタリアなど、「ヨーロッパ征服」を実行に移したからね。

 すでにフランスに占領されていたオランダも、フランスの言うことを聞かざるをえなくなっていた。


っていうことは、イギリスにとってオランダは「敵」とみなされることになったわけですね。

―緊張の高まる中、イギリス軍艦フェートン号が長崎に進入。
 港の中にいたオランダ船をつかまえようとしてしまうんだ。

 しかし,すでに長崎港にオランダ船はいなかったため,食料と薪(たきぎ)が与えられると港から出ていった。


日本人からすると「?」じゃないですか?

―オランダを通してヨーロッパ情勢はつたわっていたわけだけど、ヨーロッパの戦争が,直接日本に影響したこの事件は,幕府に衝撃を与えることになる。
 福島の藩(注:白河・会津)に、江戸湾の防備を命じているよ。

 フランスの皇帝と対立していたロシアも、引き続き北海道への進出を目指し、この時代の末にはロシア軍艦が国後島(くなしりとう)までやって来た。幕府側はその艦長(注:ゴローウニン)を逮捕し、函館と松前に監禁しているよ。


一触即発の事態ですね…。

―ロシア側も、幕府の御用商人(注:高田屋嘉兵衛)を人質にとっていたので、結局人質を交換することで、事なきを得た。


もはや日本は蚊帳の外ではいられなくなったわけですね。

―この頃日本近海にはアメリカ合衆国の船舶も,姿を見せるようになる。


当時のアメリカはどんな感じなんですか?

―この時代の前半にイギリスからの独立を勝ち取ったアメリカは、まだ完全に「独り立ち」とはいえないものの、伝統にこだわらない独自の国づくりを進め,工業化を進めようとしている段階だ。

 この時代の終わり頃にはイギリス生まれの技術(注:蒸気機関)を船に応用し、現在のニューヨークでは蒸気船も発明されている。
 やがてこの蒸気船に乗り、のちのち日本との貿易を要求しにやって来ることになるね(注:黒船)。


そもそもなぜアメリカは太平洋へ?

―この時代の後半になると、毛皮をとることができる海獣や陸上の哺乳類の生息数が乱獲により減少。
 捕鯨がブームになっていったんだ。

 クジラの中でも上質な油(鯨油(げいゆ))をとることのできるマッコウクジラがターゲットになった。灯りのための燃料や,機械にさす潤滑油として欧米でヒット商品となっていたんだ。

 すでにイギリスの捕鯨船は,アメリカの独立戦争開始後には南太平洋で捕鯨をしており,独立戦争後にはアメリカ東海岸を拠点とするアメリカ合衆国の捕鯨船も活発化。この時代の中頃には、南アメリカ大陸南端のホーン岬経由で太平洋に至っていた。

 さらに北進,西進し,突き当たったのが日本近海の通称“ジャパン=グラウンド”。クジラの格好の漁場として注目されたんだ(注:後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.196。)


こんな激動の事態の中、日本の人たちはどんな生活を送っていたんでしょうか?

―日本では、高い識字率と印刷術を背景に,文学や絵画が民衆の人気を博しているよ。


絵画?

―この時代の初めに、画家(注:鈴木春信(すずきはるのぶ)により浮世絵(はじめ錦絵と呼ばれた)が作られ始め、後続の画家たち(喜多川歌麿(きたがわうたまる(ろ))、東洲斎写楽(とうし(じ)ゅうさいしゃらく))によって美人画・役者画が描かれた。

 版画による大量生産によって安価となり,庶民でも手が届くようになった。当時の歌舞伎人気と相まって、大人気となったんだ(注:江戸三座)。

 また、風景画を通して地方の魅力を全国に伝える画家も登場(注:葛飾北斎(かつしかほくさい)、歌川広重 (うたがわひろしげ))。
 伊勢参宮(注:お蔭参り)や富士山参詣を目的とした旅が人びとの間で流行した。


旅行ができるってことは、それだけ生活に余裕があったってことですよね。

― 村や町では講(こう)という「サークル」があって、みんなでお金を積み立てて順繰りに有名なお寺や神社にお参りに行っていたんだ。

 こうした、この時期の絵画の題材や構図は,のちにフランスで活躍した新しい画風を開拓した画家たち(注:ゴッホやモネ)らの作風にも多大な影響を与えている。


文学も盛んだったんですね。

―この時期の後半には、出版物が貸本屋によって広く流通した。「レンタルビジネス」だね。


 旅に出られない庶民は、旅を題材にした作品(注:十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の滑稽本『東海道中膝栗毛』)を読み,想像をふくらませていたんだ。
 また世の中をピリっと風刺した小説(注:黄表紙)や、女遊びをする遊郭を舞台としたお話(注:洒落本)も人気だった(注:恋川春町(こいかわはるまち)『金々先生栄華夢』(きんきんせんせいえいがのゆめ)、山東京伝(さんとうきょうでん)『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』)。


けっこう自由に小説が書けたんですね。

―前の時代には、すでにイギリスや中国で同じような風刺小説(注:『ガリバー旅行記』や『儒林外史』(じゅりんがいし))が人気を博していた。

 でも、やりすぎれば規制の対象にはなってしまう。
 実際に手鎖の刑に処されたクリエイターさんもいる。表現の自由はまだ完全にはないんだ。
 しょうがないから歴史とか伝説を扱った無難な読み物(注:読本)にプラットフォームを移す人も多かった。こちらのジャンルでは大坂の作家(注:上田秋成『雨月物語』)が有名だね。
 川柳や狂歌が流行ったのもこの時代だ。今で言うところの世相を風刺する芸人のような感じだ(注:柄井川柳(からいせんりゅう)、大田南畝(おおたなんぽ)、石川雅望(いしかわまさもち))。


人々はどうやって文字を習っていたんですか?

―村にまで貨幣経済が浸透して、商売のためには文字が書けないといけなくなると、庶民のあいだでは神社や僧侶、村の役人によって運営される寺子屋(手習所)に、貧富の差なく通わせることが普通になっていたんだ。


こうやって日本語で書かれた読み物によって日本各地のことについて知識が広まると、一体感も広まりそうですね。


―情報が共有されれば、「イノベーション」も起こりやすいよね。

 とくに医学などの「実学」(実用的な学問)が重んじられ,いままでは「タブー」とされていた人体解剖の研究書(注:前野良沢(まえのりょうたく)、杉田玄白(すぎたげんぱく)による『解体新書』)も、オランダの研究書をもとに世に出された。
 さらに西洋の内科研究書を訳す医学者(注:宇田川玄随(うだがわげんずい)の『西説内科撰要(せいせつないかせんよう)』)も出ている。

この時代に医学書を訳してしまうなんてすごいですね。

―漢文学に詳しい、博学な人だったといわれているよ。
 中国の伝統文化は、やはりこの時代でも「教養」の一つだったから、中国の素朴な山水画(注:南画や文人画)の画家ももてはやされている(注:与謝蕪村(よさぶそん)、池大雅(いけのたいが)。その弟子の松村月渓(まつむらげっけい、またの名を呉春(ごしゅん)))。中国生まれのリアルな写生画をきわめる人も出ているよ(注:円山応挙(まるやまおうきょ))。


絵の分野ではヨーロッパの影響は受けなかったんですか?

―ヨーロッパの影響を受け、銅版画(どうばんが)を始めた人も出ているよ(注:平賀源内、司馬江漢(しばこうかん)、小田野直武(おだのなおたけ))。
 浮世絵に取り入れられた遠近法や陰によって遠近を表現しようとするテクニックも、よくみると西洋絵画の影響だよね。



ほかにヨーロッパの影響を受けたものはありますか?

―ほかに幕府で暦の作成に携わる研究員(注:天文方の高橋至時(たかはしよしとき))は、西暦(注:グレゴリオ暦)にもとづく新しい暦を導入しているし、オランダ通訳者(注:オランダ通詞(つうじ)の志筑忠雄(しづきただお))は、万有引力の法則や地動説(注:地球は太陽の周りを回転しているという説)を日本に紹介しているよ。

なんでも「やってみよう」という雰囲気があったんですかね。もっと遅れているイメージがありました。

―事実に基づいて世の中をよくしようという人が活躍できる時代だったんだね。
 電気を発生させる装置(注:エレキテル)を発明した発明家(注:平賀源内)も出ているよ。

 また,沿岸防備の必要性から正確な地図測量が求められ,日本各地を歩いて測量した人物(注:伊能忠敬(いのうただたか))によって、正確な地図(注:「大日本沿海輿地全図」(だいにほんえんかいよちぜんず;伊能図(いのうず))が完成されている。正確な地図は国防にかかわる機密事項とされた。


西洋の学問をすすんで導入しようとしていたんですね。

―「使えるものは使おう」という精神だね。
 特に、医学、天文学、地理学が中心で、江戸幕府の支配を揺るがすような思想・哲学などの導入は見送られた。

 西洋の学問習得には、唯一「お付き合い」のあったオランダ語の習得が肝(きも)になる。各地にはオランダの学問の学べる塾(注:『蘭学階梯』を記した大槻玄沢(おおつきげんたく)の芝蘭堂(しらんどう))が建てられ、オランダ・フランス語辞書を改訳したオランダ・日本語辞書(注:稲村三伯(いなむらさんぱく)の『ハルマ和解(わげ)』)もつくられた。


 幕府はこの時代の中頃に直轄の学校(注:昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ))を設置していたけれど、この時代の終わり頃には、洋書の翻訳と洋学の研究をおこなう組織(注:蛮書和解御用(ばんしょわげごよう))も設置され、オランダの学問に詳しい研究者(注:大槻玄沢)が配属されている。これはのちに東京大学へと発展することになる。


今回の3冊セレクト


この記事が参加している募集

推薦図書

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊