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世界史のまとめ × SDGs 第14回 開発の拡大と研究開発の発展(800年~1200年)

SDGsとは―

世界のあらゆる人々のかかえる問題を解決するために、国連で採択された目標」のことです。
 言い換えれば「2018年になっても、人類が解決することができていない問題」を、2030年までにどの程度まで解決するべきか定めた目標です。
 17の目標の詳細はこちら
 SDGsの前身であるMDGs(ミレニアム開発目標)が、「発展途上国」の課題解決に重点を置いていたのに対し、SDGsでは「先進国を含めた世界中の国々」をターゲットに据えています。
 一見「発展途上国」の問題にみえても、世界のあらゆる問題は複雑に絡み合っているからです。
 しかも、「経済」の発展ばかりを重視しても、「環境」や「社会」にとって良い結果をもたらすとはいえません。
 「世界史のまとめ×SDGs」では、われわれ人間がこれまでにこの課題にどう直面し、どのように対処してきたのか、SDGsの目標と関連づけながら振り返っていこうと思います。

* * *

Q. 人間は自然をどのように開発していったのだろうか?

2.4 2030年までに、持続可能な食糧生産システムを確保し、生産性および生産の向上につながるレジリエントな農業を実践することにより、生態系の保全、気候変動や極端な気象現象、干ばつ、洪水その他の災害への適応能力向上、および土地と土壌の質の漸進的改良を促す。

歴史:前の時代から、広い地域をまたぐ“まとまり”が各地で生まれていたわけだけど、この時代にはその“まとまり”の中でも各地でいろんな“個性”が生まれていく時代だ。

 たとえば、ヨーロッパではキリスト教の考え方が正義とされたわけだけど、各地の支配者によって細かい部分には差が生まれている。
 西アジアから北アフリカにかけてのイスラーム教、インドのヒンドゥー教、東アジアの仏教や儒教なども同様だ。

どうして広い範囲をまたぐ“まとまり”が生まれていったんですか?

地理:この時期になると、場所によって差はあるけれども、地球の気候が比較的暖かくなっていったと考えられている。ただし、この時代が果たして今よりも暖かかったのか寒かったのかについては、議論が続いている。

広い範囲を一人の支配者がコントロールするのは、難しいですよね。

歴史:そうだね。逆にいえば、狭い範囲だけでも十分強い国がつくれるようになっていたってことでもあるんだよ。
 この時代は世界的に気候が暖かかったといわれていて、人々の交流も盛んになった。人と人の出会いが増えれば増えるほど、知識や情報もさまざまな人の共同作業によって発達するよね。技術が発達して、各地で開発がすすんだ時代でもあるんだよ。

なるほど。遊牧民の活動もさぞかし積極的だったんでしょうね。

歴史:その通り。この時代には「トルコ系の言葉」を話す遊牧民がユーラシア大陸の広い範囲に移動して、定住民の世界で国をつくっているよ。遊牧民と定住民のコラボレーション国家だ。

この時代、気候が温暖であったとすると、人間の活動もそれにともなって活発になるんでしょうか?

地理:2つのことに注意すべきだろう。
 まず、地球のすべての場所が同時に温暖になったわけではない。温暖になる時期についてはタイムラグがある。
 それに、温暖になったとしても、その状態が安定して続いたとも限らない。ヨーロッパの古い気候に関するある研究者は、「この時代はむしろ気候の変動の激しかった時期だったんじゃないか」とみている。

歴史:ともかく、この時代には今までは開発の進んでいなかった地域や、住むことができなかった地域での人間の活動が広がったことは確かだ。

 例えば、アメリカでは、ヨーロッパのアイスランドという島からはヴァイキングというグループの一派が、船に乗って北アメリカにたどり着いているよ。

アイスランドって、かなり北のほうにないですか? さすがに寒いですよね。

地理:ヨーロッパって、ユーラシア大陸の西のすみっこに位置するよね。
 ちょうどその西側の海に、暖かい水が赤道のほうから北に向かって流れているんだ(注:北大西洋海流)。
 海の影響って、けっこう大きい。
 その上を1年を通して西から東に風(注:偏西風)が吹くので、ヨーロッパでは北極に近いところでも、かなり温かい気候になるんだよ。
 雨も適度に降るし、年間を通しての気温差も小さいから過ごしやすいんだ。夏でもいちばん暑い月でも平均気温は22℃を超えないし、冬でも温かい(注:西岸海洋性気候、Cfbという記号で示す)。
 夏にめちゃめちゃ暑くて、冬は超寒い日本(注:温暖湿潤気候、Cfaという記号で示す)とは大違いだ。

逆に言えば、今まではヨーロッパから北アメリカへは人の移動はなかったんですね。

歴史:おそらくね。北アメリカにはヴァイキングの生活した跡が残っている。
 この時期にはグリーンランドの沿岸にも、ヴァイキングの集落ができているよ。

地理:グリーンランドは雪や氷におおわれ、一番暖かい月でも平均気温が0℃を上回らないほどさむーいエリア(注:氷雪気候、EFという記号で示す)なんだけど、当時はそれぐらい気候が暖かったようだ。
 冬に太陽が地平線上にあらわれない現象(注:極夜(きょくや))が、夏には一日中太陽が沈まない現象(注:白夜(びゃくや))がみられるのも、北極に近いこの地域だ(同じように南極でもみられる)。
 強い風が吹くと地吹雪(注:ブリザード)になるから大変だ。

歴史:一方、北アメリカの乾燥地帯では都市が大規模になって、巨大な建造物もつくられている。東のほうの大きな川の流域でもお墓のサイズが巨大化しているから、支配者のパワーが強くなった証拠とみられている(この時期にトウモロコシ栽培が本格化したようだ)。

北アメリカの南の方のマヤ文明は、伝統的な都市が見捨てられて、中心が移動していましたね。

歴史:その通り。マヤ文明の中心は従来よりちょっと北に移動している。外から別の民族の侵入があったのかもしれないともいわれているけど、記録が少ないのでなんともいえない。
 メキシコの高原地帯ではいくつもの国が建ちならび、“戦国時代”のようになっているよ。この中から次の時代のアステカという大きな国が生まれることになるんだ。

南アメリカはどうですか?

歴史:いままでの歴史:の中では最も広い範囲を支配する国が出現している。どれもアンデス山脈のあたりの国で、標高の違いを利用して“海の幸”“山の幸”などバラエティ豊かな特産物をコントロールしていたようだ。
 高い技術でアクセサリーや建物がつくられていたけど、鉄や車はつくられていないよ。

地理:服はアルパカのような山で飼われる動物の毛からつくられているね。山の天気は昼と夜の気温差が激しいから、天候の急変にも対応できるようにポンチョという服を身にまとっているよ。

対応できる?

地理:穴のあいているマントだから、ひょいっとかぶればすぐに装着できるんだ。

歴史:この時期のオセアニア(太平洋エリア)では、大きな建物をつくっていくつもの島々を支配するリーダーも現れている。

 とくに火山島では強力な支配者も現れている。

どうしてですか?

地理:そもそも小さな島では土地や資源に限界がある。
 でも火山によって形成された島なら、火山灰には植物の栄養が含まれているから、工夫すれば食料の大量栽培も可能だ。

 人間は気候によって完全に決定される存在ではなく(注:環境決定論)、「みずから気候を逆手にとって対応できる存在」でもあるからね(注:環境可能論)。

 でも、規模はユーラシア大陸の農業とは全然違う。
 それに匹敵するようなパワーを持つ支配者はそうそう出てこない。

 場所によっては足りない物資を、一定の決まりにしたがって島を超えて交換するところもあったよ。

ところで、ポリネシア人たちの拡大は続いているんですか?

歴史:この時期にはなんと北はハワイ、東はイースター島にまで到達したと考えられている。
 アウトリガーカヌーをもっと大きくした船によって、計画的に植民がおこなわれたようだ。

地理:この時期は地球の気候が温暖化した時期にあたる。
 その影響もあったのだろう。
 ちなみにあの有名なモアイ像がイースター島で作られ始めるのもこの時代だよ。

歴史:日本が平安時代(貴族の時代)から鎌倉時代(武士の時代)に変わろうというときに、太平洋ではこんなことが起きていたんだね。

オーストラリアはどうなっていますか?

歴史:オーストラリアは、まだ外部との接触がない。
 先住民のアボリジニーは、狩りや採集による生活を続けている。
 自然の中で自然とともに暮らしてきた文化は、現在になって再評価されるようにもなっている。

ユーラシア大陸の遊牧民にとって、この時代はどんな時代だったんでしょうか?

地理:ユーラシア大陸の内陸部では、逆にマイナスの影響が出ている。
 日照りが起きて牧草が不足したようだ。
 実際にこの時期のモンゴル高原は勢力争いが激しくなっているね。

温暖化によってヨーロッパや北のほうがで経済が発展したのとは大違いですね。

地理:そうだね。場所によってどのように影響が現れるかは異なるから、一概にいえないところには注意したほうがいい。


モンゴル高原で勢力を握ったのはどんな人達ですか?

歴史:この時代の草原地帯の主役は「トルコ系の言葉」を話す遊牧民たちだ。
 もともとモンゴルのあたりで活動していたんだけれども、しだいに西へ西へと移動して、各地で定住民エリアを支配する国をつくっている。

地理:定住民を支配しても、ライフスタイルほとんど変わらない。
 羊の毛を圧縮してつくった生地(注:フェルト)から組み立て式のテント(注:ゲル)をつくり、移動生活をしているよ。

歴史:彼ら「トルコ系の言葉」を話す遊牧民は、西のほうでは広範囲で“正義”とされていたイスラーム教を柔軟に受け入れ、もともと活躍していた「イラン系の言葉」を話す人々とも張り合っている。
 また、高い軍事的な才能を生かして、各地の王様の下に「雇われ兵士」として仕えた。スキをねらって王様を倒し、国を乗っ取った者さえいるんだ。

 インドの北のほうの高原地帯では、チベット人という民族が広い国を作り、「トルコ系の言葉」を話す遊牧民とともに中国の皇帝の国に対抗しているよ。

中国のパワーは弱まっていたんですか?

歴史:この時代には、黄河流域を中心に広いエリアを支配していた大きな国(注:唐(とう))の支配が弱まる。
 各地で開発が進み、唐のいうことなんて聞かなくてもやっていける有力者が現れるようになったからだ。

中国の分裂は、周りの民族にとってはチャンスですね。

歴史:そうだね。
 東アジアでは、中国の皇帝が陸でも海でも「警察官」みたいな役割を果たしていたからね。
 中国の皇帝のパワーがなくなると、かえって東アジアは混乱してしまう。

結局どうなるんですか?

歴史:唐という国が滅ぶと、各地の有力者が自分たちの国を建てて栄えるよ。
 黄河流域では唐を受け継いで「皇帝」を名乗る国が現れるけど、支配層には遊牧民出身者も参加していたんだ。

 また、南の方では北の皇帝のいうことをきかない国が多数建てられて、なかには「皇帝」を名乗る国もあったよ。

 結局、北の軍人が「皇帝」として混乱をおさめ、宋という国を建てた。宋は南の方も含めて統一したけど、東アジア各地の民族たちは完全に宋をナメきっている。

そりゃそうですよね。こんな有様じゃ…

歴史:宋は、かつて広い範囲を支配していた「過去の栄光」にすがろうとするけど、現実はめちゃめちゃ弱いし領土も狭い。
 しかも、北からは遊牧民が貿易や土地を求めて頻繁に挑発してくる。
 遊牧民の支配者たちも「自分こそが中国の皇帝だ」と主張するものだから、事態は面倒だ。

南の方をコントロール下に置いたとしても、他にまだ「皇帝」を名乗る国があるんじゃ、
「統一」もくそもないじゃないですか。

歴史:そうなんだよ。

 でも中国の唯一の強みは「経済力」だ。
 長江流域ではたくさんお米がとれるし、巨大な港町がいくつもあって貿易がさかんだ。
 特に福建(ふっけん)という地域の泉州という港町は空前の発展を遂げている。

「港町が発展する」なんて、今までの時代の中国のイメージと違いますね。

歴史:だよね。貿易というと、ラクダに荷物を積んでシルクロードを行くイメージがあるよね。

 中国の皇帝は「欲しいものならあげるから、お願いだから手は出さないでくれ」と、周りの民族にお願いをした。

かなり下手(したて)に出ていますね。

歴史:でしょ。
 ベトナム、朝鮮、日本などの支配者も、この時代には中国とは今までよりも“距離”をとって活動ができるようになっているよ。

この時期、日本では「国風文化」が栄えますよね。

歴史:そうそう。「ひらがな」が漢字からつくられるのもこの時期だ。


 気候も温暖になっていることが、当時の「花見」の記述からおおよそではあるけれども推測できる。

 また、この時期には西日本の天皇を中心とする日本の勢力が、東北地方を北上していった。
 東北地方には弥生文化が広がらず、独自の文化を持つ人たちの生活が続いていた。

 各地に荘園(しょうえん)という私有地がつくられて、開発が進展。
 しだいに、西日本の天皇のいうことを聞かない大土地所有者も現れてくる。
 東北地方に役人として派遣されていた貴族も、しだいに「独立」した国をつくろうとしていたくらいだ。

それくらい、北のほうの人々の活動も活発になっていたんですね。

歴史:そのようだ。
 この時期には気候が高くなり、北海道の北にある海(注:オホーツク海)を中心に、クジラやアザラシの漁などで生活する人の文化が営まれていて、東北地方との交流もあったようだ(注:オホーツク文化)。

* * *

同じ頃、ユーラシア大陸の反対側、ヨーロッパはどんな感じですか?

歴史:この時期のヨーロッパを一言で表すと「拡大」だ。


温暖化(注:中世温暖期)も関係しているんですよね。

地理:そうだね。大麦やブドウの栽培地域は北に広がり、経済が発展。人口が増えて 森に覆われていたヨーロッパでは、あちこちで森林伐採がすすみ、畑が広げられ人口も増えた。

ドイツからは計画的な植民が進められ、道沿いに新たな村落が建設されていった(ドイツ東方植民)。

暖かいだけで農業の生産はアップするんですかね。

地理:もちろん、農業技術の発展もあった。
 従来は畑を2つの部分に分けて、作物を育てるところと土地を休ませるところとしていたんだけど、この時代のフランスの北部では土地を3パートに分けてローテーションする方法が編み出された(注:夏作物と冬作物と休ませるところの3つに分ける三圃制(さんぽせい))。

 ヨーロッパでは畑を耕す動力として家畜の力が用いられた。三圃制によって家畜も効率よく飼いながら農業することが可能になっていくよ。
 こういう技術が発展したのは、当時の気候が暖かくなっていたこと(注:中世温暖期)も関係している。

そうなると、今までヨーロッパで活躍していた民族とは違う、新しい人たちも登場しそうですね。

歴史:そうだね。今まではローマ人とかゲルマン人だったよね。
 この時代には東のほうから、現在のロシア人のルーツであるスラヴ人とか、スウェーデンなどの北欧の人たちのルーツであるノルマン人といった人たちがヨーロッパに入ってくるよ。

ノルマン人ってどんな人ですか?

地理:北ヨーロッパの寒い地方で生活していた人たちだ。ルーツはゲルマン人に近い。
 山からゆっくりと落ちてくる氷の塊によって削り取られることによってできた谷(注:フィヨルド)に小さな港町をつくり、夏の間は農業を営み、季節によっては船に乗って遠くまで移動した。
 この時代の北ヨーロッパには、西アジアのイスラーム教徒の使っていた銀も見つかっているし、グリーンランドを経由し、なんと北アメリカにまでたどり着いていたことがわかっている。
 別名はヴァイキングだ。日本でいう「食べ放題」(バイキング)とは関係ない。
 彼らはイギリスやフランスの川の「ラッパ型」の河口(注:エスチュアリー(三角))をさかのぼり、貿易が成立しない場合には略奪行為も働いて恐れられたけど、しだいにキリスト教に改宗していく。今のスウェーデン、ノルウェー、デンマークはどれもヴァイキングをルーツとする人たちの国だけど、どの国旗にも十字架のデザインがあるよね。

歴史:もちろん「これがヨーロッパ人の基準だ!」という縛りはないわけだけど、この時代にはこれら「新入り民族」たちは、こぞってキリスト教を社会の“正義”として受け入れ、文字としてローマ字のアルファベットを使い出す。
 キリスト教をゆるーい「つながり」というか「共通項」として、それぞれの「民族」の違いを超えてヨーロッパという「まとまり」がだんだんと広がり、人間の世界を超える「絶対的な価値観」が共有されていった時代といえるね。

支配者はどんな人たちだったんですか?

歴史:はじめはゲルマン人という民族の一派であるフランク人の王様が、今のフランスとドイツとイタリアを足したエリアをひろーく支配する国を支配していたよ。
 強さの秘密は、ローマを本部とするキリスト教を保護したことにあった。

ローマを本部とするキリスト教はどうしてフランク人の王様に保護してもらったのですか?

歴史:このころになるとキリスト教はいくつもの教会に分かれていて、そのうち一番発言権の強い教会のひとつはコンスタンティノープルというヨーロッパの東のほうの大都市にあったんだ。
 ここは由緒ある町で、これまた由緒正しいローマ帝国(東西に分かれたうちの東側)の皇帝が直接支配していたから、実力も十分にあった。

 それに対してローマは当時はもはや辺鄙(へんぴ)な“ど田舎”の町に成り下がっていた。でもローマの教会にも歴史とプライドがあるし、コンスタンティノープルの教会とは教義面でもモメていた。
 だからローマの教会の親分は、フランク王国に泣きついたんだ。
 でも、そのフランク王国はカリスマ的な王様の死後、分裂する。それが現在のフランスとイタリアとドイツのもとだ。

 跡継ぎ国家では血筋が重んじられたけど、乳児死亡率の高い当時、スムーズに跡継ぎを残すことは難しく、国によっては有力な家柄が王様を担当するようになっていった。

王様はどうやって国内を支配したんですか?

歴史:王様は家来たちに住民と土地を与え、外から敵がやって来たときに自分に忠誠を誓わせようとした。
 でも実際には言うことを聞かない家来も多く、決して王様の力は強いとはいえないよ。とくにドイツの王様は国内の有力者をまとめるのにもひと苦労で、「自分が偉い」ことをアピールするために、ローマの教会に「キリスト教徒の世界のリーダー」であることを認めてもらおうとした。

ドイツ人なのに、キリスト教徒の世界のリーダーなんですか?

歴史:まあ、そんなことしたらフランスとかイギリスとか、周りの国の王様は良くは思わないよね。だからローマのキリスト教会が「イスラーム教徒と戦うから、兵隊募集!」と声を上げると、各国の王様はわれ先にと戦場に向かったよ。
 手柄を立てて、ローマ教会にほめてほしかったわけだね。

 混乱ぎみの西ヨーロッパに比べ、ヨーロッパの東のほうでは商業も盛んだった。東のほうからは遊牧民などがしょっちゅう侵入してきて、各地で国を建てているよ。
 ブルガリアとかセルビアとかハンガリーとか、今につながる国のルーツになっている。
 また、北ヨーロッパから貿易ルートを求めてノルマン人も南に下がってきている。
 当時の貿易の中心がアジアのほうにあった証拠だね。

 彼らはローマの教会ではなくて、コンスタンティノープルに本拠地のあるキリスト教徒の教会のいうことをきいている。そのほうが貿易に有利だからだ。
 今でもヨーロッパの文化が西と東で違うのは、こういう事情からなんだよ。

ブルガリア、セルビア、ハンガリー…どれも馴染(なじ)みがありません。
歴史
:それもそのはず。
 日本人はどちらかというと、明治時代以降、西側のヨーロッパの影響を強く受けてきたから、あまりブルガリア、セルビアなどの東側のヨーロッパとのお付き合いがないからなんだよね。

 代わりにイギリスには親近感があるでしょ。当時のイギリスは、わりかし王様のパワーはほかのヨーロッパの国々に比べると強い。「島国」ってまわりから孤立しているイメージがあるかもしれないけど、古来さまざまな民族が上陸を繰り返して来たいきさつがある。
 この頃には、フランスから軍隊を進めて征服した王様が、王国をつくっている。その後もフランスの有力者が王様になって、イギリスとフランスにまたがる巨大な国を建設するなど、当時はまだイギリスとフランスの線引きはハッキリしているわけではないよ。

地理:アジアでの「商業ブーム」の影響、それに農業生産量アップの影響を受け、西ヨーロッパでも都市がたくさんできはじめる。

「都市」って何ですか? 今までもあったんじゃないですか?

地理:たしかに都市は古くからあったわけだけど、ほとんどが「政治の中心」や「教会の中心」「軍隊の基地」として立てられたものだった。
 でもこの時期になると「商業の取引」専用の都市もできはじめるんだ。

今でもその名残があるところはありますか?

地理:ヨーロッパでは日本よりも、「伝統的な景観を残そう」っていう動きが根強いから、いろんなところが残されている。
 たとえば、ドイツのネルトリンゲンというところはヨーロッパの南北を結ぶ商業の中心地。

 真ん中にキリスト教の教会が建てられて、そのまわりに今でも赤レンガの中世の町並みが大事に残されているよ(注:囲郭都市。今残されている壁や濠(ほり)はのちのち改築されたもの。漫画のモデルにもなっている)。

教会?

地理:当時の商人たちは、自分たちの稼いだお金を街の教会に「寄付」したんだ。
 それで石職人に点高くそびえる教会をつくってもらったんだ。
 「中世ヨーロッパの高層ビル」だね。
 経済発展のシンボルともいえる。

地理:ちなみに、ネルトリンゲンが街が丸くなっているのは、ちょうどそこに隕石衝突によってできたクレーターがあったからだとされている。

 こういうタイプの都市を「交易都市」といって、ヨーロッパの多くの都市がこのタイプにルーツをもっている。

南北を結ぶルートってことは道沿いに都市がつくられたってことですか?

地理:たしかに陸上の道も大切なんだけど、ヨーロッパで重宝されたのは「川の道」だ。
 ヨーロッパは中心部分にアルプス山脈があって、そこから南北にながれる穏やかな川がいくつもある。それを輸送に利用したんだ。
 動物に運ばせるよりは、水の「浮力を利用」したほうがたくさんの荷物が運べるからね。

歴史:人類の歴史は、「村落」中心の生活から「都市」中心の生活への変化の歴史ともいえるね(注:都市化)。

 農業や漁業の生産力がアップすれば、それを売ろうっていう話になって、違う特産物を交換できる場所に「都市」が現れるようになる。
 「特産物の違い」は、「地形の違い」とか「気候の違い」から生まれるよね。

 「山の幸、海の幸」。暑いところではバナナ、寒いところではリンゴみたいな。
 
地理:そう。
 ユーラシア大陸ってヨコに長いから、南北方向で気候が変化することが多いよね。
 雨の量も海沿いで多くて、内陸にいくと少なくなる。

 ユーラシア大陸の「物の動き」をざっくりと大きな目で見てみると、「必需品」は南北方向で取引されることが多い。
 で、「ぜいたく品」は東西方向で取引されることが多いよ。

歴史:たしかに、東アジアの茶碗(注:陶磁器)、東南アジアの特産物である香辛料は、東から西に動きますね。
 で、西アジアのアラビア半島の特産物である香料(注:乳香)は、西から東へ動きます。
 
 で、軍隊に必要な馬は、北の乾燥エリアから南に運ばれる。
 飲み物として必要なお茶は、南の定住農耕エリアから北に運ばれる(注:茶葉貿易)。


チベット人はヤクのバターを混ぜて「バター茶」が大好き

中国の茶をチベット方面のウマと交換する貿易ルートは茶馬古道といわれた参考)。

ヨーロッパの話に戻りましょう。
スペインのほうはどうですか? イスラーム教徒が上陸しているんでしたよね。

歴史:そうだったね。
 この地方の王様たちは「キリスト教徒の土地を取り返すんだ!」という使命感を抱いて、イスラーム教徒退治に乗り出している。
 ちょっとずつ取り返していくんだけど、この時期にはイスラーム教徒の国のほうが面積が広いね。


Q. 人間は発明した技術をどのように応用させていったのだろうか?

SDGs 目標8.2 高付加価値セクターや労働集約型セクターに重点を置くことなどにより、多様化、技術向上およびイノベーションを通じた高いレベルの経済生産性を達成する。

歴史:さっき日本の話になったよね。

 この時期の西日本では「武士」の出自を持ちながら、京都で「貴族」としてもふるまった人物が現れ、中国との貿易で巨万の富を上げている。

 現在の神戸港の近くに海外貿易の大型船が入ることのできる港湾インフラ(注:大輪田の泊)も建設している。

大型の船?

歴史:ジャンク船という巨大な船だ。


 外洋を操舵できるように、この時期に発明されたものは何でしょう?

地図?

歴史:正解はコンパス(羅針盤)だ。
 こうして人間は、星や太陽、海流や景色などを頼りにせずとも、方角がわかるようになったんだ。
 実はこの時期の中国ではほかにもさまざまな技術が開発されている。
 例えば火薬。
 材料の硫黄はレアな鉱物の一つ。この時期の日本は硫黄の輸出をさかんにおこなっている。

 木版の印刷もこの時期の発明だ。
 版木(はんぎ)を1枚つくれば、摩耗するまでいくらでも印刷できるようになったため、必死に書き写す必要がなくなった。
 これにより「本」の印刷が盛んになり、「巻物」に変わって「本」が主流になっていく。

 このように情報伝達手段が増えたことで、中国国内の商業はいっそう盛んになり、地味だけど味わい深い陶磁器(注:白磁)や茶のようなヒット商品がさかんに取引された。

地味なのにどうして人気になったんでしょうか?

歴史:中国のエリートの間には、ド派手なものよりも、地味なもののほうが「奥深い」「洗練されている」っていう価値観があったんだ。
 当時の中国のエリートたちは、今までは「国を安定させるための思想」だった儒教をしだいに「人間力を深めるためのスピチチュアルな思想」へとアレンジしていった。
 仏教にもその影響があり、「心を見つめる」ために質素な場で座禅を組む禅宗(ぜんしゅう)というグループがたいへん流行した。
 禅宗のお坊さんは中国と日本の間をさかんに行き来し、両国の指導者にも徴用されているね。

お茶を伝えたのは禅宗のお坊さんでしたね。

地理:そうそう。
 そのお茶を、石炭を蒸して作ったコークスの高い火力で焼き上げたお茶碗に入れて飲むようになった。


この時代の中国は、世界もうらやむ「イノベーション」の時代だったんですね。

歴史:さて、日本では一方、おりからの自然災害や日照りもあって、次第に政権の勢力は弱まっていった。
 「武士」を中心とする政治の中心は東日本の鎌倉に移ることになっていった。
 人々の不安な気持ちの受け皿となったのが、中国から伝わり日本風にアレンジされた「庶民向けの新しい仏教」(注:鎌倉仏教)だ。
 お寺のお香は東南アジアから輸入されたものをつかっているね。

東アジアや東南アジアが、そんなに密接にかかわりあっていたなんて―

歴史:歴史を共有している感じがするでしょ。

 東南アジアにも目を向けてみよう。

 大きな川のある場所では、有力者が中国の進出をブロックする動きも起きている。特に、中国が支配のために軍隊を派遣していたベトナム北部では、土地の有力者が中国を追い出すことに成功。
 西アジアでイスラーム教徒によって広い国が生まれると、ひっきりなしにビジネスマンが船で訪れるようになっている。東南アジアに行けば特産品のスパイスが、中国製のシルクや食器といったヒット商品が手に入ったからだ。

南の島のほうにある港町も栄えていますか?

歴史:現在のインドネシアには巨大な仏教モニュメントが建設された(注:ボロブドゥール)。おそらく東南アジア一帯の貿易を一挙ににぎった王様が、自分のパワーを誇って尊敬を集めるために仏教の「ふしぎな力」を利用したのだろう。

 これだけ巨大なものがつくれた背景には、この時期に農業が非常にさかんになったことがある。
 現在のインドネシアのあたりには大きな火山がたくさんあって雨も多いので、米づくりに適していた。
 内陸で広い田んぼを支配下においておけば、港町のホテルに船乗りやビジネスマンがたくさん滞在しても、十分な量のお米をレストランに提供できるわけだ。

港町だけではなく、お米の産地も支配下に置くことで、支配者はさらにリッチになっていったんですね。

歴史:そうだよ。通行料や入港料をとり、貿易をコントロールして栄えたわけだね。
 安全に貿易してもらうためには「海賊」退治が大切だ。重要な海上ルートをめぐって、各地の支配者はしのぎを削ったんだ。

 マラッカ海峡周辺ではいくつもの港町が力をあわせて同盟し、“親分”である中国の皇帝の「お墨付き」を得るために使いを送ることもあった(注:三仏斉)。

当時の東南アジアは貿易の「先進地帯」だったんですね!

歴史:そうだよ。
 ユーラシア大陸の東にある中国と、西のほうの世界を結ぶ役割を果たしたんだね。
  “お隣さん”の南アジアからも、東南アジアの王様もコントロールを及ぼそうと軍隊を送っている。

 それに対抗した東南アジアの強国がカンボジアの王国だ。この国の王様は西はベトナム、東はタイのほうに進出し、大きな川の流れをコントロールして巨大なため池を建設し、大量の米を生産することのできる大都市をつくった。そのど真ん中に建設した巨大なお寺がアンコールワットだ。
 西のほうではビルマでも王様がお米の生産と貿易をコントロールし、仏教を保護することでパワーと尊敬を集めたよ。

南インドは東南アジアの”お隣さん”だから貿易が盛んなんですね。

歴史:そうだ。広い範囲を統一する国はあまりなく、各地で港町や畑を支配した国々が発展している。

「バラバラ」って、必ずしも「めちゃくちゃ」っていう意味ではないんですね。

歴史:そうだよ。「バラバラ」でもやっていけるほど、開発が進んでいるということでもあるからね。それぞれの地域の個性も磨かれていくよ。この時代にはヒンドゥー教の聖地巡礼がブームとなって、インド各地で人の移動も盛んになる。

北のほうはどんな感じになっていますか?

歴史:仏教やヒンドゥー教を保護する支配者が領土をめぐって競っているよ。
 そんな中、西のほうからはイスラーム教を旗印にインドの人々を支配しようとした軍人が進出してきたから大騒ぎだ(注:ガズナ朝ゴール朝)。今でもインドにイスラーム教徒が暮らしているのは、これがルーツなんだよ。


Q. 「研究者」や「教育機関」は人類の歴史にどんな貢献を果たしてきたのか?

SDGs 目標9.5  2030年までにイノベーションを促進させることや100万人当たりの研究開発従事者数を大幅に増加させ、また官民研究開発の支出を拡大させるなど、開発途上国をはじめとするすべての国々の産業セクターにおける科学研究を促進し、技術能力を向上させる。

西アジアはどんな状況になっていますか?

歴史:西アジアでは「イスラーム教徒」という共通点の下、各地で支配者が個別に活躍するようになっている。

イスラーム教徒の「まとめ役」はいなかったんですか?

歴史:開祖の「代理人」であるカリフという「まとめ役」がいたんだけど、みんな言うことを聞いている「ふり」をするようになったんだ。
 とくに草原地帯からは「トルコ系の言葉」を話す遊牧民が移動してきて、「イスラーム教を保護する」ということで、あちこちに国を建てるようになったんだ。でも彼らは定住民を支配することには慣れていなかったから、書類仕事は「イラン系の人々」に任せた。

イスラーム教という「共通点」に合わせて、いろんなバックグラウンドをもつ人たちが協力をしていたわけですね。

歴史:そういうこと。
 別々の場所でみんながてんでバラバラのことをやっているよりも、「共通点」をもとにまとまっているから、いろんな分野でコラボレーションが進んでいく。だから、学問も芸術も発展していくんだ。
 西アジアには昔のギリシャ人やローマ人の研究所がたくさん残されていたから、彼らのハイレベルな研究を下敷きにしたので、ゼロから研究する手間も省けたわけだ。

なるほど。ギリシャやローマというと“お隣さん”のヨーロッパが受け継いでいるイメージがありますが…。

歴史:じつは当時のヨーロッパの人たちは、キリスト教の考え方に縛られていて、ギリシャやローマの時代の自由なものの考え方をおおっぴらに研究することが難しかったんだ。
 そんな中、ヨーロッパの人たちは人口拡大に対応して、イスラーム教徒の暮らす地方に「十字軍」と呼ばれる大遠征を始めていたんだけど、そこでヨーロッパ人が出会ったのは、びっくりするほどハイレベルなイスラーム教徒たちの研究成果だった。

 イスラーム教徒たちの著作のレビューの★の多さを思い知ったヨーロッパの学者たちも、イスラーム教徒の本をせっせと翻訳し始めていく。
 これがのちのヨーロッパの科学の発展につながっていくんだよ。

ヨーロッパの科学の発展はイスラーム教徒のおかげだったんですね!

歴史:東アフリカでは、イスラーム教徒が貿易をしに南へ下がってきている。インド洋の沿 岸には貿易商人の集まる大都市として発展しているよ。

アフリカの中央部から東や南に移動していたバントゥー系の人たちはどんな感じですか?

歴史:よく覚えているね。日本人からみると「黒人だ。」って単純な判断になっちゃうけど、実はいろんな民族に分かれて、アフリカの東や南に広がっているよ。
 牛などをサバンナの草原地帯で放牧して、もともといた狩りや採集をして暮らしていた人々を追いやりながら、南へ南へ移動している。

 彼らは「眠り病」という怖い病気を広めるハエが分布しない安全な所を探して移動していった結果、アフリカの南東の高原地帯は住むのに都合がよいということで、大きな町ができていったよ。金や象牙がとれるから、これを川の下流にある港町に輸出してリッチになる王様も現れたんだ。

西のアフリカはどんな感じですか? まだサハラ砂漠を超えたゴールド(金)と塩の貿易はやっていますか?

歴史:よく覚えているね。


 ラクダをつかった塩金貿易は、サハラ砂漠を流れる“一本川”(注:ニジェール川)流域の王様がコントロール下に置いていたんだけど、この時期にサハラ砂漠の北にいた遊牧民(注:ベルベル人)の一派(注:ムラービト朝)が攻めてきて、貿易ルートを支配下に置いたんだ。これ以降は、サハラ砂漠の南のほうにまでイスラーム教が広がっていくよ。

エジプトはどうですか?

歴史:イスラーム教の多数派にとってのリーダー的存在を「カリフ」といったよね。開祖の「代理人」という意味で、イラクにお住まいだった。

 でもこの時期にはカリフがイスラーム教徒からもナメられるようになっていて、エジプトでは「われこそがカリフだ」と、カリフを名乗る支配者が現れるようになっていた(注:ファーティマ朝)。
 それだけエジプトには国力があったわけだ。

どうしてエジプトには国力があったんでしょうか?

歴史:まず、位置がいいよね。
 地中海(ヨーロッパ方面)とインド洋(アジア方面)を結ぶ中間地点にある。このころから輸出用サトウキビの栽培も始まったことも後押しになっているよ。


 エジプトには世界最古といわれる研究機関(大学)が置かれ、イスラームの信仰されている世界から多くの人が集まった(注:アズハル学院)。

 当時のイスラーム世界では、研究者が国を超えて学問の修行を積む旅に出ることは普通のことだったんだよ。
 いい先生がいるってなれば、遠く離れた場所であっても駆けつけていったわけだ。




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