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真空地帯のイメージ “今”と“過去”をつなぐ世界史のまとめ⑤ 前1200年〜前800年

“過去”と比べて“今” の世界ですっかり存在感の薄れてしまった人々がいる。それは騎馬遊牧民だ。馬にまたがり、草原を疾駆する。簡単なようで難しい技術である。騎馬技術を編み出した遊牧民が、すでに北緯30度付近で発達していた文明と双璧をなしていく。その黎明期にあたるのが、今回の前1200〜前800年の時代である。

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その場所はユーラシア大陸の乾燥草原地帯(乾燥草原のことをステップという。一年中乾季で、晴れの日が続く)。ほとんど雨の降らない過酷な土地で、馬をたよりに生きる道をえらんだ人々が現れた。定住して農業を営む人からみれば、馬と “一体化” して突っ込んでくる遊牧民は「人間最強集団」にほかならない。とはいえ過酷な気候で暮らす遊牧民にとって、農耕民のつくる穀物はやっぱり魅力。両者の異なる個性がぶつかり合い、新しいものが生まれるのが、この時代のユーラシア大陸の特色だ。

ちなみにアメリカ大陸でも農業エリアが広がって、世界各地でいろんなライフスタイルの人たちの住み分けができつつある。ユーラシア大陸の北の方の寒冷エリアの人たちは,狩猟・採集をしながらの移動生活をしている。ライフスタイルを多様化させていった人間は、各地で自然の条件に応じて生活をしているだけでなく、さまざまな地域でとれた物を「交易」(トレード)するようになっていく。物の意図的な「交易」は、あらゆる生き物の中でも人間にしかできない営みだ。食べ物や物が足りなければ、外から持ってくればいい。人間はそう考える。力ずくの場合は「略奪」というけれど、長期的にみれば平和的に「交易」をしたほうが、お互いの利益になる。


そうこうしているうちに、しだいに、「交易を専門的におこなう人々」が現れる。すでに定住農耕民たちが国をつくっていた、メソポタミア、エジプト、インダス、中国の文明には、交易専門グループが存在していた。そもそもメソポタミアもエジプトもインダスも乾燥地域であったから、木材がない。木材がなければ、料理ができない。薪(まき)が必要だからだ。それに薪がなければ、金属をつくることもできない。たとえば青銅器、そしてこの時代には鉄器も都市で開発されるになっていく。鉄製の斧が出回るようになると、さらに木が切られ、さらに多くの薪が取引されるようになる。そうして、都市の専門職人集団の作った斧や刀が、鉄の原料である鉄鉱石と交換されるようになる。それぞれの場所にはそれぞれの場所でしか取れないものがあるわけで、人間はそれぞれの場所における「スペシャリスト」になることで、広範囲にわたる「役割分担」を可能にしていったのだ。このへんから、その土地に住んでいる人間が使うことのできる以上の物を、ついつい自然から取り出してしまう悪いクセがはじまっていく。

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特定の「文明」のエリア内にいる人は、なにも同一のライフスタイルを営んでいるわけじゃない。中にはいろんな生業を営む人がいた。そのうちの一つが「交易」を営む商人だ。歴史学者の上田信さんは、専門的な交易集団が出現している人間たちの群れを「文明」と呼んではどうかと提案している。商人は、いくつかの「文明」を拠点にし、ときにはそれらを股にかけて活動した。商人としてうまくやっていくには、食料を調達する能力、軍事力、情報収集能力など、さまざまな力が求められる。誰でも自由になれたわけではない。支配者とのコネを築き、地の利を生かすことが肝心だ。特定地域の民族が担うことが多い。現在の世界にも、アルメニア人やユダヤ人、華僑など、商業に長けた民族集団が存在していることからもイメージがつくだろう。農耕民にとっても遊牧民にとっても、そうした商業民族とのコネはぜひともつくっておきたいもの。しかしながら、ユーラシア大陸を陸路で東西に横断しようとすると、かならず通過せざるをえないのが内陸の「乾燥エリア」だ。これが農耕民の文明にとっては大きな悩みのタネとなる。軍事的に最強であった騎馬遊牧民が北方から迫ってくるリスクがあるのだ。

さからうか、タッグを組むか。商業民族たちは考えたあげく、これにさからうよりは、協力したほうが「吉」と考えた。そうして乾燥エリアの交易ルート上には、オアシスという湧き水地帯に、小規模ながら農業も営める「オアシス都市」という都市が生まれていく。商業民族は騎馬遊牧民を「警備員」としつつ、同時に彼らとも交易をする。そうして東西交易ルートを安全・安心に支配しようとしていった(「シルクロードは漢代の中国人(張騫)によって開かれた」とよく言われるけれど、実際にはそれ以前から交易ルートはすでに存在していたのだ)。

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遊牧民も農耕民と同様に、専門的な交易集団」と関係を築き、物をゲットするために活用しようとしていった。ユーラシア大陸の東西交易ひとつとってみても、騎馬遊牧民の存在を抜きにして考えることなどできないことがわかるだろう。

“今”に生きるわれわれは、彼ら騎馬遊牧民が、世界史の中で重要な役割を担ってきたかを忘れてしまっている。中国を何度も襲い、巨大なモンゴル帝国を築き上げた残虐な人々だというマイナスイメージを持ちがちだ。はたまた、草原地帯でのどかで細々とテントを張って移動生活する自由気ままな人たちという牧歌的なイメージがあるかもしれない。

しかし、世界史における騎馬遊牧民の存在感は非常に大きい。とくにユーラシア大陸の歴史は、騎馬遊牧民を抜きにして考えることはできない。ちょうど今年、森安孝夫さんが『シルクロード世界史』(講談社選書メチエ)という一般書を書かれたので、一読をおすすめしたい。

また中国の歴史を遊牧民側の視点をふんだんに盛り込んだ岩波新書のシリーズ中国史もおすすめだ。

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この時期に、現在のウクライナという国があるところに建てられた騎馬遊牧民の国に、スキタイがある。以前はスキタイが騎馬遊牧文化のルーツであって、それがモンゴル高原の匈奴(きょうど)に影響を与えたのだとされていたけれど、実際には匈奴の文明がスキタイにまで影響を及ぼしていたのではないかという説も有力視されている。


「世界最古」「人類最初」はどこだったか?問題というのは、いつでも“今”の視点は入り込むから、なんともややこしい。現代の日本において「世界史」として流通している「お話」の中には、ヨーロッパがイケイケだった時代、当時(=“今”)の視点から“過去” を語った名残であるものが実に多い。

E. H. カーのいったように、「歴史とは現在と過去との対話」である。しかし歴史というものは、気づけばいつでも「現在」による「過去」に対する「独り言」におちいる宿命を持っている。

話を戻そう。ギリシア人の歴史家であるヘロドトスという人の記録によれば、スキタイの国は複数あって、遊牧だけでなく、農耕をベースにしていた国もあったそうだ。とはいえ、「遊牧民の国」とはいっても、その支配下には農耕民が含まれているのはよくあること。支配に必要であればなんでも吸収してとりこんでしまう、そんな柔軟性を持っているのも「遊牧民の国」の特徴だ。

でも「国民は常に馬に乗って移動する人たちなんでしょ?どうやって国民を把握するんだよ」と思うかもしれない。でもそれは「遊」牧民という名前に引きずられているだけ。実際には彼らはずーっと動き回っているわけではなくて、季節に応じて特定のパターンに従って移動している場合がほとんどだ。夏と冬で馬に食べさせる草地のあるキャンプ地を移動させる。過酷な環境には違いない。だからこそ人と馬の群れを率いるリーダーには勇敢さが求められる。草を食べさせすぎては、持続可能な遊牧生活は送れなくなってしまう。のほほんそうに見える遊牧は、じつのところ家畜の頭数と草地のキャパシティの間の思慮深いバランスによって成り立ってきたのだ。遊牧生活のいちばんのリスクは寒冷化だ。草地が枯れてしばえばどうしようもない。生活の糧を「ひとつだけ」に絞ることは危険である。だから可能であれば、リスク回避のために農耕もあわせて営むこともあった。「遊牧民」だからといって、かならず遊牧専業というわけではないことも知っておこう。


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この時期に生まれた遊牧民の国は、短期間でバラバラに瓦解するものが多かった。農耕民のエリアに侵入すれば戦争になるし、それを避けようとして農耕民との協力関係を築こうとしてもうまくゆかない。農耕民の支配者にとって遊牧民は、コントロール不能な「野蛮人」そのもの。めんどうなやつらだ。しかし当時の世界は、依然として現在の世界とは比べ物にならないほどの「野蛮人」に満ちていた。

「野蛮人」といえば、同じく当時の世界の主流であった狩猟採集民も同じである。むしろ定住して農耕や牧畜を担当する多数の人々を、特定の場所に囲い込み、その上であぐらをかいて富を搾り取る一部の特権階級が、なんらかの「統合のシンボル」をかかげていばり散らす「農耕民の国」エリアのほうが少数派であったのだ。

「ごく大雑把にいえば、古代国家はすべて農耕国家であり、非生産者(官吏、職人、兵士、聖職者、貴族階級)を食べさせていけるだけの、収奪可能な農業 - 遊牧生産物の余剰が必要になる。これは、古代世界の輸送力を考えると、可能な限り多くの耕作可能地を集め、可能な限り多くの人間をそこで働かせ、それを可能な限り小さな半径のうちに集中させることを意味していた。」(ジェームズ・C・スコット(立木勝・訳)『反穀物の人類史—国家誕生のディープヒストリー』みすず書房、116頁)

大多数の人間にとって、そんな環境が居心地のよいところであるはずがない。疫病も流行るし、労働条件も過酷である。たしかに欲望をそそるような品々であふれていることは確かだ。「交易専門集団」が集団の狩猟採集民や遊牧民、それに遠い地にある別の「農耕民の国」から、みんなが欲しがるような珍しいものを運んで来る。でも、ほとんどが特権階級のものになってしまう。支配もきつい。
だからこそ、そこから逃げる人たちも大勢いた。「逃げる」。逃げ、避け、交わす。これに勝る対抗手段はない。もし無理なら、完全に国の経済に取り込まれないように、うまくやる。人間は実に長い間、「曖昧な領域」を大切にしながら、それぞれの生活を営んできたのである


世界史というと、「◯◯王国が建国された」とか「◯◯王朝が滅亡した」というように、定住農耕民の国ばかりが注目されがちだ。でもそれだけで世界史が成り立っていると考えるのは、それこそ、騎馬遊牧民も狩猟採集民も、表舞台からいなくなってしまった現代世界の都市民の目線そのものだ。騎馬遊牧民も狩猟採集民もはじめからいなかったかのような、まるで更地のような“今”の世界から “過去” を眺めるとき、歴史地図の空白エリアは「ああ、そこには国がなかったのね」と単純変換しがちだ (下図は『最新世界史図説タペストリー 十七訂版』帝国書院、4頁)。


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でも、そんな修正をほどこすのは一旦やめてみたい。

地図上の「真空地帯」にこそ、どのような営みがあったのかイメージしてみる


そして自問する。“今” の「世界」のイメージの中に、狩猟採集民や遊牧民の営みは含まれているだろうか、と。

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騎馬遊牧民の存在感が薄れていったのは、16世紀以降、じわじわと進んでいった火砲の改良によって、騎馬遊牧民の戦法が、火砲を駆使する農耕民の軍隊と比べて次第に劣勢になってしまったからだ。

遊牧民の立場は次第に低下し、肩身が狭くなっていった。たとえばオスマン帝国という国では遊牧民を定住化させようとする政策が強まり、遊牧民は辺境に追いやられていった。このときに「とりのこされた人々」としては、トゥルクマーン人クルド人があげられる。17〜18世紀にシリアのラッカに定住させられた彼らが、シリア内戦においても苦境に立たされたことは記憶に新しい。このように “今” における「とりのこされた人々」の問題にも、つい数百年前にルーツを持っているという事実がある。

なおユーラシア大陸の遊牧民の多くは、ソ連や中国という社会主義国家の政策によって「遊牧はやめて農業をやるか工場ではたらきなさい」とされ、定住化がすすんでいった。これについては、おってまた紹介しますね。





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