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"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第20話 欧米の国民統合と武家政権の崩壊(1848年~1870年)

【1】アメリカ合衆国はクジラ捕りの最盛期

前回みたとおり、太平洋ではクジラ捕りがブームだったんですよね。
―そう、最盛期を迎えている。

 でも、この時期の初めにアメリカで大変な発見が起きた。

何ですか?

―アメリカは、南にあるメキシコ(すでにスペインから独立していた)と戦争をして領土を獲得(注:米墨戦争)。
 そのうちのカリフォルニアというところで金(ゴールド)が大量に発見されたんだ。

なんと!

―クジラの漁師の一部は「そっちに行ったほうがもうかる」ということで、カリフォルニアに殺到。
 1年後にはカリフォルニアは「金目当て」の人たちであふれかえった(注:ゴールドラッシュ)。

 で、このときにカリフォルニアへ金を採掘しに行った日本人もいたんだよ。高知県出身の漁師だ(注:ジョン万次郎)。

どうしてアメリカに?

―太平洋で船が難破したもののアメリカの捕鯨船に救われ、ハワイに寄港。そこで仲間と別れ、一人でアメリカへ。
 捕鯨の基地があったアメリカ東海岸の町で船長の養子となって暮らし、現地の学校にも通った。

 その後、日本への帰国資金をあつめるためにカリフォルニアの金の採掘に向かったというわけだ。
 資金を集めた彼はハワイで友人と再会し、中国行きの貿易船に乗って西に進む途中、載せていた小船に乗りかえて沖縄に上陸。
 沖縄を支配していた鹿児島の藩(注:薩摩藩)に捕まえられて取り調べを受けたけれど、彼の知識と語学力がモノをいい、無事ふるさとに帰ることができたんだよ。

波瀾万丈ですね…

―ね。
 そしたら帰国の翌年。
 長崎のオランダ商館長から「アメリカの軍艦が来るらしい」との情報が入った。この予測に基づき警戒していたところ、本当にアメリカ合衆国の海軍がやって来た。
 どこを通ってきたかというと、アフリカ大陸の南端をまわり、インド洋を通るルート。沖縄の琉球王国に立ち寄った後、神奈川県沖に姿をあらわした。船は大砲を積んだ蒸気船だ。
 司令官は大統領からの手紙を持っていて「また来年くるからよろしく」といって立ち去った。

幕府は大慌てですよね。

―そうだね。幕府の組織のトップ(注:阿部正弘)はむずかしい決断をせまられるも、「開国やむなし」と判断。
 翌年には「アメリカと日本が関係をもつ」ことを定めた条約(注:日米和親条約)が結ばれ、沖縄の琉球王国も同じように条約を結んだ(注:琉米和親条約)。

 そこへ乗っかるかたちでロシアも日本と外交関係を結ぶ条約(注:日露和親条約)を結ぶことに成功した。

どうしてロシアが?

―ロシアが目指していたのは、当時さかんだった毛皮交易の拠点を、冬でも凍らない港とともに確保することだった。当時のロシアは北アメリカ大陸の一部(注:アラスカ)も持っていたんだよ。

その後はどうなったんですか?

―衝撃をうけた幕府は、最新技術を開発していた地方の藩の協力も得ながら、「海の守り」をかためるための兵器開発を急いだ。

中で熱を反射させ高熱を出し、遠い距離まで届く大砲の材料となる硬い鉄をつくるための装置(注:反射炉)。静岡県の伊豆にあるものは世界文化遺産に登録された。オランダの書物が参考にされた。

参考にされたオランダの研究書(鉄熕鋳鑑図)の訳書(早稲田大学古典籍総合データベースより)

いままでの研究の蓄積が生かされたわけですね。

―一方、アメリカの要求はその後もつづいた。
 「貿易をしたい」というのだ。
 急死した先任に代わった幕府組織のトップ(注:堀田正睦(ほったまさよし))は、アメリカの外交官(注:ハリス)と前向きに交渉をすすめていったのだけど、これに天皇(注:孝明天皇)は難色を示す。

なんだか将軍の存在感がありませんね。

―将軍(注:徳川家定(いえさだ))は体調がわるくて、それどころじゃなかったんだ。しかも跡継ぎがいない。
 そこで親戚をあたろうということになったんだけど、親戚の中にも「開国」派と「鎖国」派がいたので、「跡継ぎ争い」が「開国か鎖国かをめぐる争い」になっちゃったんだ。

外も中もたいへんですね。結局どうなったんですか?

―アメリカ人外交官は「いま結んでおかないと大変なことになる。隣を見てごらん。中国ではヤバいことになっている」と幕府を急かした。

 中国では、自由な貿易を要求するイギリスとフランスが強引に戦争(注:アロー戦争)を仕掛けていたんだ。

 イギリスとフランスが攻め込む前に、アメリカとの貿易をお手やわらかに始めといたほうがいいよというわけだ。
 そんな中、将軍跡継ぎ問題に絡み幕府のトップは交替。
 跡継ぎは結局、たったの13歳であった人物(注:徳川慶福(よしとみ))が選ばれた。
 幕府に批判的なもう一人の候補(注:一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ))よりも、幕府にとっては都合がよいわけだ。

 で、新たにトップとなった人物(注:大老の井伊直弼(いいなおすけ))がアメリカとの貿易をはじめる条約(注:日米修好通商条約)を結ぶことを決断した。彼は条約締結の反対派を次々に攻撃し(注:安政の大獄)して恨みを買い、最後は自身が暗殺された(注:桜田門外の変)。
 もうめちゃくちゃだ。

でも、貿易は始まったんですよね。

―そう。こうして日本は、イギリスなどの西ヨーロッパ諸国主導で進められていた「自由にビジネスすることができるエリア」(注:世界市場)のひとつに組み込まれ、国とのお付き合いの上では「欧米式のルール」(注:万国公法)に従わざるをえなくなってしまった。
 同様の内容の条約は、ほかにもイギリス、フランス、オランダ、ロシアと結ばれた(注:安政の五カ国条約)。

 貿易がはじまったのは、北海道の函館、神奈川の横浜、そして長崎だ。ただし外国人が滞在するエリアは「居留地(きょりゅうち)」というところに限定されていた。

開港当時の「横浜」は、上図中の肌色の部分だけにすぎなかった。横浜市港湾局ウェブサイトより)



 日本からの輸出品は、田舎でつくられたシルクの糸、お茶が主力だ。

これなら日本はもうけることができそうですね!

―いやいや、いろんな問題が起きるよ。
 貿易には外国から持ち込まれた銀が使われたんだけど、日本のほうが「少ない銀で、たくさんの金と交換できた」ことが発覚すると、「銀を持ち込んで、じゃんじゃん金と交換しよう」とするマネーゲームがはじまった。
 これによって日本から金が大量に流出。
 幕府は「金の価値を落とそう」と質の悪い金貨(注:万延小判)を発行したけど、金貨の価値が下がったために物価が高騰。輸出向けにされる商品が増えると、品不足でさらに物価が上がった。

そもそも不平等な条件をなんとかしたいですね。

―幕府は使節(注:新見正興(しんみまさおき))をアメリカに送ったけど効果はなかった(このとき自前の蒸気船を操縦したのは勝海舟(かつかいしゅう))。

 ところが!
 そんなアメリカ国内で大きな大きな揉め事が起きた。

 当時のアメリカ南部は、イギリスにとって織物の材料である綿花の一大産地。しかし、イギリスとの経済的結びつきを絶ちたかった北部は、イギリスとの貿易に制限をかけることを主張(注:保護貿易)。
 両者がするどく対立する状況となっていた。

 そんな中おこなわれた大統領選挙で、北部の支持する候補が勝利。彼(注:リンカーン)は、国外の支持をとりつけようと「南部の綿花畑で働かせていた奴隷の解放」を宣言した。
 戦争は長引き、後にも先にもアメリカ合衆国史上最多の犠牲者を出すことになったんだ。

これじゃあ、日本に進出する余裕はなさそうですね。

―そうなんだ。
 代わって存在感を増したのは、イギリスとフランスだ。

 当時の幕府のトップ(注:安藤信正)は、「幕府を延命させるために、京都の公家の力を借りるしかない」と、「幕府と公家の協力」(注:公武合体)を主張した。
 このトップは暗殺されてしまったのだけど(注:坂下門外の変)、それ以降も鹿児島の藩(注:薩摩藩)を中心に「幕府と公家の協力」によって「日本の危機」をのりこえようという動きは続いたよ(注:文久の改革)。この動きには、福島の会津藩も協力している。


 でも、その動きに真っ向から反対したのが山口の長州藩だ。


 長州藩も当初は「幕府と公家の協力」を推進していたんだけど、その後、若手の意見の主張した「外国勢力を武力で追い払うべき」(注:尊王攘夷(そんのうじょうい))という方針が強くなっていった。
 長州藩は、京都の公家にもこの考えを広めていき、幕府もしだいに「外国勢力を武力で追い払うべき」との考えに反対することができなくなってしまったんだ。

じゃあ、本当に武力で戦ったんですか。

―そのとおり…。
 ことわりきれなくなった幕府は「外国船をやっつけろ」と通達を出し、これを受け、長州藩は、本州と九州の海峡を通過しようとした外国船(アメリカ、フランス、オランダ)を砲撃するという行動に出てしまった(注:長州藩外国船砲撃事件)。
 

 長州藩の動きに対し、鹿児島の薩摩藩と福島の会津藩は、やっぱり「幕府と公家の協力」を進めるべきだと考え、京都から長州藩や「外国をやっつける派」の公家(注:三条実美(さんじょうさねとみ)ら)を追い出してしまう(注:八月十八日の政変)。
 その後の京都では不穏な動きが続き、「外国をやっつける派」20数名が旅館で「反幕府派取締りグループ」(注:新選組)に殺傷される事件も起きた(注:池田屋事件)。

長州藩も黙っていられないですね。

―そうだね。でも反撃は失敗(注:蛤御門の変(はまぐりごもんのへん))。
 さらに幕府は、天皇の命令ということで長州藩に対する総攻撃を開始(注:第一次長州征討)。
 そこへ追い打ちをかけるように、アメリカ、オランダ、フランス、イギリスが、長州藩に船を攻撃されたリベンジを決行した。4つの国は山口に上陸し、砲台を占領しているよ(注:四国艦隊下関砲撃事件)。
 「外国をやっつけろ派」は、貿易をするのに百害あって一利なしだからね。この攻撃を主導したのは、イギリスの外交官(注:オールコック)だ。
 同じころ鹿児島の薩摩藩もイギリスの攻撃を受け、「外国をやっつけるのは不可能」という結論にいたっていく。

まあ、無理ですよね。

―「どうだ、わかったか」ということで、4か国の艦隊は、「いいかげん天皇は、貿易を認める条約を認めたらどうだ」と、軍艦を兵庫の沖合にまで送って脅したんだ。
 これにはさすがにビビった天皇(注:孝明天皇)は、条約締結にゆるしを与えることをようやく認めたよ。

ようやく認めてしまったんですか。

―あらたに日本への関税率も一気に下げられ、いちだんと日本にとって厳しい条件が課されることになった。
 そんな中、これまで「幕府と公家の協力」で乗り切ろう!と頑張っていた鹿児島の薩摩藩は、しだいに幕府を見限り、「幕府を倒して、天皇をトップとする国をつくろう」(注:倒幕)という意見に傾いていくようになる。
 長州藩でも、幕府に降参するのに反対した若手(注:高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允))が、西洋の武器を導入した軍隊(注:奇兵隊)を率いて藩のリーダーシップを握ることに成功している。

 これに目をつけたのはイギリスだ。

 イギリスの外交官(注:オールコック、アーネスト・サトウ)は「幕府はやがて倒れる」と予想し、薩摩藩や長州藩など「反幕府勢力」に近づいていくようになった。
 反対にフランスが支援したのは幕府だ。

なんだかイギリスとフランスの争いみたいですね。

―アメリカが内戦で大変な間に、目まぐるしく情勢が変わっているよね。
 ちなみにアメリカの内戦向けに大量の武器を販売していた商人(注:グラヴァー)は、戦後に「売れ残り」の武器を、薩摩藩の仲介で長州藩に売り込んでいる。これは、幕府がもう一度長州の征伐(注:第二次長州征討)を指示したことに対抗したものだ。

 一方、新しい将軍(注:徳川慶喜(よしのぶ))が即位していた幕府を支援したフランスの外交官(注:ロッシュ)は、西洋式の軍隊の整備をサポート。
 船や鋼鉄の工場も建設している。

 当時のフランスは現在のベトナムやカンボジアの植民地化(注:フランス領インドシナ)を進めていたんだけど、結局日本支配はなかなか思うようにいかずに終わった。フランス本国による指示というよりは、この外交官の独断という面が大きかったんだ。
 彼のはからいもあって、日本はパリで開かれていた「ハイテク産業の国際展示会」(注:パリ万国博覧会)に参加することができた。当時のフランスは、かつてヨーロッパ征服をこころみた軍人皇帝の甥(注:ナポレオン3世)が、国民投票によってふたたび皇帝に即位。
 イギリスに追いつくために、フランスの威信をかけてこのような企画を実現したのだ。

会場の全景国立国会図書館ウェブサイトより)


 日本からは幕府(注:将軍の弟が参加)と薩摩藩・佐賀藩が出品している。

当時のフランスは紫色のエリアを植民地化しつつあった世界の歴史まっぷより)


結局、将軍はどう決断したんでしょう?

―将軍は、高知の「開国」派のグループの意見(注:後藤象二郎山内豊信にアドバイス。坂本龍馬の原案とされるが異論あり)を聞き、「現在の幕府」に代わる「新しい形の政府」をつくらざるをえないと認識した。


どんな意見ですか?

―将軍が政治権力をいったん天皇にお返し(注:大政奉還)し、その後、将軍を議長とし、メンバーを全国の藩のトップとする議会を設置するという案(注:公議政体論)だ。
 ちょうどイギリスの議会制度のようなプランだね。

 まとまらなければ、スキをつかれて外国勢力にやられてしまうおそれもあったわけだし、幕府が瓦解した後も、将軍が「延命」することも可能というナイスアイディアだ。

 で、将軍はこの案を受け入れ、その後も自分が主導権を握れることを期待しつつ、京都で政権の返上を申し出た(注:大政奉還)。


でも、実際には「延命」できてませんよね?

―そう。すかさずそこに薩摩藩・長州藩と反幕府派の公家(注:岩倉具視(いわくらともみ))から「ちょっと待った」が入ったんだよね。

 彼らは天皇が出したという「幕府を倒せという指示」(注:討幕の密勅)を旗印に、「天皇中心の政治の復活宣言」(注:王政復古の大号令)を発表。
 「あたらしい政府」が建てられ、幕府も正式に廃止されてしまった。


江戸幕府の滅亡ですか。

―しかし、幕府側はいちはやく抵抗を諦めたおかげで、江戸は平和的に明け渡された。
 各地で幕府派が抵抗し、幕府側との間で内戦(注:戊辰戦争(ぼしんせんそう))になったけど、それもぼちぼち鎮圧されていく。
 この時期に世界で起こった政変とくらべてみると、比較的平和な形でスムーズに政権が変わったといえるね。

)戊辰戦争の犠牲者は約8600人。それに対し、フランスでの内戦(注:パリ・コミューン)の鎮圧では3万人の死者、アメリカの内戦(注:南北戦争)は60万人の犠牲が出ている。
 「日本」として早いところまとまらなければヤバいという「危機意識」が共有されていたことが大きい。


それだけ「争っている場合ではない」という危機意識があったってことですね。

―そうだね。
 その後、天皇が神々に誓う形で「あたらしい政府」の基本方針(注:五箇条の御誓文)が発表される。

 これは国内向けには「これからは外国との付き合いをしていきますよ」っていう意思表示であり、国外向けには「これで日本はちゃんと独立しましたよ」っていうアピールでもあるね。

 ただ、まだまだ数多くの藩に分かれている状況はつづいているから、この状況をどうするかが次の課題になっていくわけだ。

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