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"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第21話 その3(1870年~1920年)

今回も1870年~1920年の日本を、世界の歴史との関係を意識しながら見ていきます。以下の4期に分けてお送りしています。

その1 1870~1880年
その2 1880~1895年
その3 1895~1910年(今回)
その4 1910~1920年

 ヨーロッパ式の憲法、議会が整備され、さらに中国(清)との戦争に勝利した日本。次はその議会を舞台に、政府派と反対勢力とが議論を交わしつつ国外への領土獲得に向かう日本の様子を見ていきましょう。

日清戦争に勝った日本は、その後どうなりましたか?

―条約(注:下関条約)によって中国から莫大な賠償金を得た。
 イギリスは、困った中国にお金を貸し付けることに成功。
 さらに日本は賠償金をさらなる軍備拡大につぎ込み、軍艦を購入していくことに。その軍艦の製造国はイギリス。
 さらに日本によって開港された港町の多くは、イギリスの勢力圏である長江の沿岸の都市。
 「日本の勝利」によってかなりの「もうけ」を得たのは、イギリスだったんだ。(⇒平成30年度 新センター試験 試行調査第5問

敗れた中国(清)はどうなってしまったんでしょう?

―「眠っているライオン」と恐れられていた中国が日本に負けたことで、ヨーロッパ諸国が中国に殺到。

 その下準備として、戦争で日本が獲得した北京近くの半島を「中国に返せ!」と、ドイツ・ロシア・フランスが共同で日本政府に圧力をかけた(注:三国干渉)。

どうしてですか?

―まず、当時海軍をパワーアップさせイギリスに追いつこうとしていたドイツは、東アジアに拠点を置くチャンスをねらっていたこと。

 また、ロシアは凍ることのない港を獲得するために、東アジアでの勢力拡大をねらっていたこと。

 そのロシアとドイツが対立してしまうと、自分の国にとっても「利益はない」と考えたフランスが間に入ったこと。

 こうした要因が重なったんだ。
 これだけの国ににらまれてはなすすべもなく、日本は中国(清)にお金を要求した上で、領土を返上することになったんだ。


台湾では?

―日本の領土になることに対し、対抗して独立宣言を出した住民たちもいた(注:台湾民主国)。
 台湾では、「もともといた住民」と「中国からやってきた人々」が暮らしていた。

 これに対し日本は軍隊を出動して鎮圧し、植民地支配がはじまっていった。
 日本にとっての「はじめての植民地」だ。
 台湾はクスノキからとれる樟脳(しょうのう)という防虫剤の産地で、プランテーションがおこなわれ、麻薬(アヘン)も栽培された。

戦争中は政府も正当も「一致団結」していたんでしたよね? 戦後はどうなったんですか?

―これまで政府に敵対的だった指導者たち(注:板垣退助大隈重信)が内閣のメンバーにとりいれられるなど、政府と政党の争いがいったん緩和していたよね。
 でも戦後の建て直しのために増税が必要だという話になると、その法案は否決され、衆議院が解散された。そして、これら政府に敵対的な指導者たち(注:板垣大隈は手を携えて新しい政党(注:憲政党)を立ち上げたんだ。


これじゃあ予算が立ちませんね。

―そう。そこであきらめた政府側のドン(注:伊藤博文下図))は、「じゃあお前たちでやりなさい」と、この新党が中心となった政権が誕生した(注:憲政党)。

 日本初の、政党が主導となった内閣だ。


 でも、もともと意見の違うグループが合わさってできた政党だから、けっきょくまとまらない。スキャンダルもあってこの政党は解散し、内閣も短命に終わってしまう。

あら…


―これを引き継いだ政府側の内閣(注:第2次山県有朋内閣下図))は、上流階級(注:華族たちの所属する貴族院)の支持を受けつつ、政党側にも納得してもらった上で土地税を上げることに成功し、その後は「政党の影響を政治の舞台からシャットアウト」するための制度をつぎつぎにつくっていった。


 たとえば、政党のメンバーが官僚になることを制限し(注:文官任用令の改正)、軍事予算が通りやすくなるように軍部大臣を現役のトップクラス幹部(注:大将・中将)に限定する制度(注:軍部大臣現役武官制)、労働者や農民の運動をとりしまる法律(注:治安警察法)を制定していった。

でも、政党の力を無視することって、現実的じゃなくないですか?

―そうだね。
 マイナスの政策ばかりすると批判が出るから、選挙に行ける人を倍増させたり、無記名で投票できる制度をつくったりもしている。

 だけど、ちょっとやりすぎだ。

 政党側のほうも「上流階級にベッタリな現・内閣と一緒に行動することは、これ以上できない」と考え、別の道を模索していたところ、あの初代総理大臣を務めた有力政治家(注:伊藤博文)がついに政党側に「歩み寄り」を見せてくれたのだ。
 彼がトップとなってできた新党(注:立憲政友会)には、この有力政治家の息のかかった官僚(注:伊藤派官僚)や、もともと政府に抵抗していた人たち(注:旧・憲政党)までの幅広いメンバーが集まった。
 こうして「政府に反対していた勢力」(注:板垣退助)は、この大物政治家(注:伊藤博文)に取り込まれてしまう形となったのだ。


その後、その新党は軌道に乗ったんですか?

上流階級(注:元・薩摩藩や長州藩の出身者が多かった)や官僚のグループと、この新党(注:立憲政友会)のグループが、交互に政権交替をおこなう流れができあがったんたよ。
 前者が後ろ盾にしていた大物政治家(注:山県有朋(やまがたありとも))が、この新党に対して妥協し、バランスをとったことも功を奏したんだ。

 実際に国をうごかしていた官僚たちも、はじめは元・薩摩藩や長州藩の出身者が多かったわけだけど、この時期になるとしだいに帝国大学の卒業生、つまり「学歴エリート」(注:とくにのちの東大法学部)が多くを占めるようになっていった。

 つまり、国民なら誰でも力があれば、国の官僚になるチャンスが開かれていたということだ。これは当時の日本人にとって「勉強する」上での大きなモチベーションとなった。


どうして妥協にうごいたんでしょうか?

―両者の間に国内で仲間割れをしている場合ではないという、現実主義的な認識があったのだろう。

 朝鮮は、日清戦争の後に中国の勢力エリアから「はずす」ことに成功していたけど、こんどは北からロシアが朝鮮への勢力をのばそうとしている状態。
 そんな中、日本がドイツ・フランス・ロシアから領土の返還を迫られた際、朝鮮ではロシア派の政権が誕生してしまう。これはまずいと考えた日本の外交官(注:三浦梧楼)は王様の父親と協力して、ロシアに近づいた王様の妃を暗殺した。

めちゃくちゃですね…。

―でもさらにその後クーデタが起き、王様は結局ロシアの外交事務所に逃げてしまう(注:露館播遷(ろかんはせん))。日本の進出ははばまれた。


こんどは日本とロシアの関係が悪化するわけですか。

―また、中国にはヨーロッパ勢力がビジネスチャンスを求めて殺到。各地に、ロシア、フランス、ドイツ、イギリスが勢力圏という名の「半植民地」を設定してしまっている状況だ。
 しかもロシアによる大陸横断鉄道も海戦間近だし、アメリカ合衆国もスペインとの戦争(注:米西戦争)によってグアムを獲得し、さらにはフィリピンのスペインに対する反乱に介入して結局フィリピンの植民地化も進めようとしている。

イギリスは動かないんですか?

―当時のイギリスは南アフリカのダイヤモンドをめぐって、先に移住していたオランダ系の国々との戦争が泥沼化。スーダンでも反乱鎮圧が泥沼化していて、東アジアに振り向ける余裕がなかったんだ。


 「中国の勢力圏の取り合い(注:中国分割)」に乗り遅れたアメリカは、外交を担当する国務長官(注:ジョン・ヘイ)が「中国はみんなのものだ!」「ビジネスチャンスをよこせ!」とヨーロッパ諸国に訴えかける事態となった。

 この時期には、フィリピンへのアメリカの進出も進んでいた。フィリピンを支配していたスペインを、アメリカが戦争で倒していたのだ(注:米西戦争)。
 日本は公式には「中立」の立場だったけど、フィリピンの独立運動を助けようという人たち(注:宮崎滔天(みやざきとうてん))や、フィリピンを押さえておきたい政府の「本音」もあって、「裏のルート」でのサポートが模索されたけど、未然に失敗している。
 のちに日本政府は、アメリカによるフィリピンの支配を認めることになる。


ここまでヨーロッパ諸国と日本に進出されたら中国政府もさすがにヤバいと思うのでは?

―そうだね。改革のモデルとなったのは、短期間で欧米的な国づくりをなしとげた日本だ。
 中国になくて、日本にあるもの。それは憲法だ。
 憲法がないから、いつまでたっても中国は「皇帝の国」。
 「国民の国」じゃないから、国民の「やる気」も出ないわけだ。

国民が「とにかく支配されている」って感覚になっちゃうんですね。

―そう。
 国に参加する「回路」を確保したほうが、「国としてのまとまり」が強くなるという考えだ。

 そこで改革派(注:公羊学(くようがく)派)が一瞬政権をとったのだけど(注:変法自強運動)、せっかくの成果は当時の政治の”黒幕”であった皇帝のお母さん(注:西太后)らにつぶされてしまう(注:戊戌(ぼじゅつ)の政変)。実はこの直前、日本の有力政治家(注:伊藤博文)が中国をおとずれ、皇帝に接触をはかっていたことも明らかになっている


 その直後、中国では外国人反対をさけぶ宗教グループ(注:義和団)が暴徒化し、北京に迫った。
 北京にいた皇帝も、外国勢力と戦わないとは言えず、むしろこれをチャンスとみてヨーロッパ諸国に宣戦布告したんだ。


まあ、勝ち目はないですよね。

―その通り。
 北京には欧米諸国や日本の外交官や滞在者がいたから、これを守るために軍隊が送られ、あっという間に中国は降伏。戦後に莫大な賠償金をかかえこむことになった(注:北京議定書)。
 さらに、このときロシアは中国の東北部にある満州地方を占領したため、イギリスや日本との対立が一気に高まることになった。


なぜイギリスですか?

―イギリスはユーラシア大陸の南側の輪郭線をなぞるように、「海の物流」をおさえることで世界のビジネスを一挙に握ろうと考えていたんだ。
 そのためには、ユーラシア大陸の大部分を占めるロシアが南に移動してくることはなんとしてでも避けたい。
 日本としては、ロシアに満州をとってもらって、その代わりに「韓国(注:朝鮮から「」に改称していた)」の支配を認めてもらおうという意見もあった(注:満韓交換)けど、けっきょく採用されたのはイギリスと同盟して共同でロシアに対抗しようというプランだ。
 後者が実現し、日本とイギリスは同盟国となったわけ(注:日英同盟協約)。 

(注)結びつくイギリスと日本
いち早く近代化を推進していた日本はイギリスにとって格好のパートナーとして目をつけられることになります。例えば,日本は日清戦争(1894~95)の賠償金をポンドで受け取っていますが,これはそのままイングランド銀行の日本銀行の講座に外国為替基金として預託されたのです。この基金を金準備に,1897年に日本銀行は従来の銀本位制から金本位制に転換することができたわけです(注:秋田茂「アジア国際秩序とイギリス帝国,ヘゲモニー」水島司編『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008年,p.107)▼これにより日本はイギリスのポンドを中心とする国際的な決済の仕組みの一員に加わり,イギリスにとっても金準備を維持するためには好都合でした。ポンドは金との兌換(だかん)が保証された通貨だったので,イギリスがしっかりと金を準備しておかなければ,ポンドの国際的な信用が下がってしまうからです。▼イギリスは金融面で日本との関係を緊密にする一方で,1902年には日本の軍事力によってロシア帝国の南下をおさえようと日英同盟を締結しています(1905,1911に改定・更新)。日露戦争の戦費調達にあたって,イギリスにおけるユダヤ系のマーチャント=バンカー等から多額の外債を発行し,イギリス製の軍艦や装甲巡洋艦を購入することができたのも,日本とイギリスの緊密な連携関係が背景にあったのです。

すごいですね! トントン拍子。

―ようやくイギリスと「肩を並べる」ことができるになったわけだね。
 
 政府はどちらかというとロシアとの直接対決には消極的で、外交交渉で解決することを目指していた。
 
 それに対して、一部のメディアや野党グループ(注:国民同盟会対外硬同志会(のち対露同志会))は「政府は弱腰だ」と批判。
 しかし、外交交渉が行き詰まるにつれて、多くのメディアによって「ロシアと戦争するべきだ」(注:対露強硬論)というキャンペーンが展開されるようになっていった(⇒片山慶隆「日本のマス・メディアによる対露開戦論の形成」『一橋法学』, 7(1): 59-88

国民の側が「戦争をするべきだ!」っていうムードだったなんて、あまりイメージがわきませんね。

―はじめから「ロシア=敵」というムードだったわけではなく、「韓国の独立を助けるため」とか「文明化した日本はアメリカやイギリス側に立つべきだ」などさまざまなイメージが重なり合って開戦論に向かっていったようだ。
 
 対する政府はねばりづよく外交交渉を続けたのだけど、韓国を日本の勢力下に置くという妥協点に、ついには至らず、戦争がはじまった(注:日露戦争)。


相手はヨーロッパの国ですよ?

―そう、イギリスやフランスに遅れをとっている国とはいえ、ヨーロッパの国だ。
 ただ、憲法はまだない。
 皇帝による専制国家だ。
 政府はアメリカやイギリスに日本銀行の副総裁(注:高橋是清(これきよ))を派遣。政府は外国に多額の借金をすることで戦争費用を調達したのだ。


 さらにハーバード大学時代のコネを持つ政治家(注:金子堅太郎)をアメリカの大統領と内々で接触させた。また、ロシア内部で反政府運動を起こさせようとした外交官もいたんだよ。


結果はどうなりましたか?

―ロシア国内でおきた戦争に反対する人々のデモがエスカレートし、皇帝(注:ニコライ2世)は国民の権利を認め、議会をひらかざるをえなくなったよ。
 日本にとっても長期戦には限界があり、途中でアメリカの大統領が仲介する形で日本とロシアを仲介した。
 同じく中国を「ビジネスチャンス」ととらえていたアメリカは、ロシアが満州を独占するよりは、日本とバランスをとったほうが都合がいいと考えたわけだ。実際に戦後のアメリカは中国に多額のお金を貸しているし(注:ドル外交)、日本の得た鉄道の共同経営や中立化をねらう意見もあった(注:鉄道企業家のハリマン国務長官のノックス)。


 話し合いの結果むすばれた条約(注:ポーツマス条約)で、日本の韓国に対する指導・保護・監督(原文ではguidance, protection and control)権がみとめられ、ほかにも遼東半島の軍事拠点(注:旅順、大連)や、周辺の鉄道、樺太島の南部などが日本の手にわたった。

 でも、死傷者20万人という甚大な被害を出したにもかかわらず賠償金はなく、各地で反対運動が勃発しているよ(注:日比谷焼き討ち事件)。


「痛み」をともなう勝利だったわけですね。


―そう。ただ、アジアの国である日本がヨーロッパの大国であるロシアに勝ったことは、「国のしくみ」さえ変えれば「アジア人でも、ヨーロッパ人に立ち向かうことできるんだ」という希望を、ヨーロッパの植民地支配にくるしむ世界各地の人々の刺激となったんだ。

 逆に欧米諸国は、「ナメていたと思ったら、なかなかやるな。だが、このまま黄色人種(注:モンゴロイド)をほうっておくとまずいことになりそうだ」(注:黄禍論)を主張し、日本を警戒するようになっていく。



 アメリカやカナダでは、アメリカの文化と相反して日曜日も休まずガンガン働く日本人の移民を排除しようという運動が、学校や職場でおきるようになっていったんだよ(注:サンフランシスコの日本人学童隔離問題)。貧しい農村を中心に、ハワイ(広島、山口、熊本、福岡、沖縄出身者が多い。この時期にアメリカの後押しによって、ハワイ王国が滅亡している)やアメリカ本土に移住する人がいたんだ。
 その後、日本政府はアメリカとの取り決めで、移民を自主規制することとなった(注:日米紳士協定)。

移民を排斥するアメリカって、現代のアメリカに似ていますね。

―この自主規制と同じ年には、ブラジルへの初めての移民(注:笠戸丸)が日本を出発。これがのちの日系ブラジル人のルーツだ。


日本人ってけっこう外国に移住していたんですね。

―ほかにもこの時期には、オーストラリア北部の真珠がとれる海域に日本人が採用され、和歌山県、愛媛県、広島県、沖縄県から漁夫が出稼ぎに向かっている(注:拠点は,ケープヨーク半島とニューギニア島の間にあるトレス海峡に浮かぶ木曜島と、オーストラリア北東岸のブルームだ)。


ところで、「黄色い人種」って何ですか?

―人種を3つに分類するときに、日本人は黄色人種にふくまれるとされたんだ。
 そんなスパっと分けられるはずはないんだけどね。
 当時の世界では「人種によって、優劣の差がある」という説が「科学の顔」をしてまことしやかに唱えられていたんだ。

 特にロシアの支配下にあったフィンランドでは独立運動が、ロシアの侵略と戦っていたオスマン帝国では「あたらしい国づくり」を目指す運動(注:青年トルコ革命)が活発化し、各地でヨーロッパに立ち向かう民族運動(注:ロシアとイギリスに立ち向かうイラン立憲革命、イギリスに立ち向かうインド国民会議派カルカッタ大会、オランダに立ち向かうインドネシアのサレカット・イスラム)が起こっているよ。

 たとえばフランスの植民地化にあったベトナムからは、「日本への留学生を増やす」運動が盛り上がった(注:東遊運動(ドンズーうんどう))。のちにフランスと日本が取り決めによって運動を弾圧したあとも、指導者(注:ファン・ボイ・チャウ)を守った静岡県のお医者さん(注:浅羽佐喜太郎)は、現在でも日本とベトナムの友好の絆のシンボルとなっている。

お隣の中国は?

―「いつまでも女真人の皇帝と支配者たち(注:清(しん))に政治を任せていられない」と、反乱を計画する運動も起きているね。
 多くの反政府グループをまとめた漢人リーダー(注:孫文(そんぶん))は、日本人(注:内田良平、頭山満)の援助もあって東京で組織をたちあげている。このリーダーに革命のための資金を提供していた日本人実業家(注:梅谷庄吉(うめやしょうきち))もいる。「日本と中国」が手を携えて欧米の支配から独立しよう(注:アジア主義)という考え方があったんだ。


でも一方で、韓国の植民地化は進みますね。

―そう。日露戦争の結果、日本は韓国併合の方針をさだめ、はげしい反対運動(注:義兵運動)を鎮圧した上で朝鮮総督府を置いている。
 日本のこのような動きは、ヨーロッパ諸国もみとめるところで、イギリスと日本は同盟を更新している。

 日露戦争で争ったロシアも、韓国への進出はあきらめて日本と満州やモンゴル南部(注:内モンゴル)の権利を分け合い(注:日露協約)、その後は地中海方面への進出を目指すようになるんだ。

 このロシアの動きが、のちの第一次世界大戦を生むこととなる。

このとき国内の政治はどうなっていたんでしょうか。

―戦争でさんざんお金をつかったわけだけど、「今後のことを考えると、さらに陸軍も海軍もパワーアップさせるべきだ」という方針が出された(注:帝国国防方針)。


 出したのは、貴族院などの有力政治家・高級官僚・陸軍に強い影響力をもっていた超大物政治家(注:山県有朋(やまがたありとも))だ。
 彼は”表舞台”には登場せず、ライバルの初代総理大臣(注:伊藤博文)とともに、たがいの息のかかった人物を交互に首相に推薦することで、政治を安定させようとしていた。

でもそんなことしたら、当然反発も起きませんか? 増税ですよね?

―「説明」しても無駄なら、内側から納得させたほうがいい。
 そこで持ち出したのが「道徳」だ。

 家族みんなで協力し、切り詰めてまじめに働くことが正しい考えなんだよ(注:戊申詔書(ぼしんしょうしょ))と、天皇からの命令を出し、「ふるさと」の力をつけて「国のために」がんばろうというキャンペーンが企画されたんだ(注:地方改良運動)。


 せっかく日本がヨーロッパに戦争で勝ったのだから、農村もいよいよ近代化に向かって頑張るべきだ。お金がないならないなりに、国民みんなで農業・工業をさかんにして盛り上げていかなければということだ。


で、実際に産業はさかんになったんですか。

―鉄鋼とか船、車などの分野で急速に発展していくよ。とくに船づくりは世界水準に追いつくようになっている。
 当時の産業の基本は「鉄鋼」だ。
 北九州の国営の製鉄所(注:八幡製鉄所)だけでなく、民間の製鉄所(注意:日本製鋼所)も設立されているし、機械づくりも発達した(注:旋盤(せんばん)をつくった池貝鉄工所)。


 また、その鉄を使って、全国的な鉄道ネットワークが国主導で整備されていった。
 鉄道は戦争がはじまったときには人や物資を運ぶ上できわめて重要だ。今まで民間企業が敷いていた路線を含め、全国の主要な線路のほとんどが国営の鉄道になっているよ。


アパレル関係はどうでしょうか。

―従来のような綿を原料とする糸づくりだけでなく、布づくりの分野も発展しているよ。
 自動で布を織る機械(注:自動力織機)が導入されるや、「家での内職」から「工場ではたらくスタイル」への転換がみられている。


 これを発明したのは、現在世界的な自動車メーカーになったトヨタの創業者(注:豊田佐吉)だ。つくられた綿織物は、国外の植民地である韓国や台湾などに輸出されているよ。

 日露戦争後に一度大きな不況があったんだけど、その後は巨大な企業グループ(注:財閥)にさまざまな業種のビジネスが独占されていくようになっていくよ(注:独占資本)。
 とくにトップの2つのグループ(注:三菱合資会社三井合名会社)は政治家とも強い結びつきを持っていた。


企業が大きくなると問題も生まれますよね。

―そうだね。
 職場環境のわるいところではストライキも起き、各地で労働組合もつくられるようになっていった。公害に対する反対運動も起きているよ(注:田中正造、足尾銅山鉱毒事件)。



 欧米にひろまっていた社会主義の考え方は次第に日本にも広まり、社会主義をもとにした研究会や政党(注:社会主義研究会社会民主党)も生まれたけど、政府はこの動きをただちに鎮圧した(注:治安警察法)。

 さらに、天皇暗殺計画(無実だった人もかなりあったと考えられている)によって多くの社会主義者が処刑されると(注:大逆事件)、いったん運動は沈静化することになった(注:「冬の時代」)。


急激な社会の変化に、追いついていない感じですね。

―「国の近代化」が至上命題だった時代だからね。
 だけど、その影では、大都市にスラム(注:貧民窟)が発生し、農村で貧しい小作人が増えるなど、多くの社会問題が起きていたんだ。

 都市部では人口の増加に衛生のためのインフラ整備が間に合わず、感染症(注:結核やコレラ)が流行することもしばしばだった。


病気の治療には特効薬はなかったんですか?

―この時期に、これまで人類を苦しめ続けてきた感染症(注:ペスト)の正体が、日本人研究者(注:北里柴三郎(きたさとしばさぶろう))によって発見されたんだ。
 これはすごい功績だ。
 彼に限らず欧米流の「理系」の学問の発達はめざましい。


日本の存在感が増していった時代といえそうですね。

―そうだね。
 日本の文化も知名度がアップしているよ。

 大きく影響を受けたのはアートの世界。フランスでは絵画や音楽の世界に、東洋のオリエンタルな要素を取り入れる傾向が増え、従来の常識にとらわれない「あたらしいアート」(注:印象派)が次々に生み出されていったんだ。




)当時のフランスの美術界は,芸術アカデミーにいる大御所が指導権を握っていました。また,美術の主流は社会をありのままに描こうとうする写実主義で,心の内にあらわれる心象風景は軽視される風潮にありました。
 これに対抗したのが,のちに「印象派」と呼ばれることになるグループです。
 〈マネ〉(1832~83),〈モネ〉(1840~1926),〈ルノワール〉(1841~1919) ,〈ドガ〉(1834~1917),〈セザンヌ〉(1839~1906)らが中心人物。
 1874年に最初の展覧会が開かれ,反対派は彼らを悪口として“印象派”とあだ名しました。彼らの画風には,日本絵画の影響も見られます。

 この頃活動していた作曲家の〈ドビュッシー〉(1862~1918)も,東洋の音階をとりいれるなどして,従来の西洋音楽にはなかった音楽を作り上げており,美術家とひとくくりにして印象派音楽と呼ばれるようになりました。ちなみに彼の交響詩「海」の表紙には,〈葛飾北斎〉の浮世絵が刷られています
 1889年にパリ万博に日本美術が大規模に展示されたこともあり,「浮世絵」の画法が一層注目されました。大胆なタッチで知られるオランダ出身の〈ゴッホ〉(1853~90)は,絵画の中に浮世絵の作品を登場させていることで知られます。


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