中部地方の石造物⑭:長谷寺宝篋印塔(真田一徳斎、昌幸の墓)

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名称:長谷寺宝篋印塔

伝承など:真田一徳斎(幸綱)、昌幸の墓

所在地:長野県上田市真田町 長谷寺


現在は上田市と合併した旧真田町は、戦国武将として著名な真田一族を輩出した地で、長谷寺はその菩提寺である。

本堂裏の墓地には、真田家の墓所があり、戦国時代の当主で武田信玄に仕えた真田一徳斎(幸綱)とその夫人、そして幸綱の子で知将として知られる真田昌幸の墓とされる宝篋印塔がある(現在宝篋印塔は玉垣で囲まれ、正面には格子状の門があるため、三基の全景は側面からしか撮影出来ない)。

中央塔が一徳斎の墓(二枚目)で、これは戦国期の複数の宝篋印塔のパーツを組み合わせた乱積みで、当時のままではない。

向かって右側の宝篋印塔(三枚目)が真田昌幸の墓で、こちらは戦国時代末期から江戸時代初期の造立と考えられる完形の宝篋印塔で、昌幸の没年とよく合致する。

昌幸は関ヶ原の戦いの後で次子の信繁(真田幸村)とともに高野山の九度山に流されてその地で没したが、郷里の菩提寺にも真田氏によって供養塔が造立されたのであろう。

なお、九度山にも昌幸の墓とされる宝篋印塔があるが、こちらも長谷寺の宝篋印塔の形式に似ており、やはり真田氏によって造立されたものと思われる。


また、上田城の北方にある大輪寺(長野県上田市中央北)は、真田昌幸夫人である寒松院開基の禅寺であり、境内の墓地には寒松院の墓とされる宝篋印塔がある。

寒松院は「山之手殿」と通称された女性で、その出自には諸説あるが真田信之・信繁兄弟の生母である。

墓塔の宝篋印塔は、塔身と基礎の間に別の宝篋印塔の基礎が混入されており、当時の形のままではなく、また塔身と基礎も元から一体のものであったかはよくわからない。

石塔の時代は寒松院の時代と合致する中世末期のものであるが、複数の宝篋印塔のパーツが乱積みされている石塔と見るべきであろう。

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