雑記:剣聖と関東管領

群馬県前橋市の上泉町は、「剣聖」と異名を取り新陰流の開祖として知られる上泉伊勢守信綱(秀綱)の出身地であり、伊勢守は上泉の豪族で当初は箕輪城の長野氏に属していた。

上泉自治会館が上泉城の本丸の跡地であるが土塁の一部以外はほとんど遺構はなく、近年駐車場の一角に建てられた上泉伊勢守の銅像があるくらいである。

銅像の後方には、上泉城の遺構ではないが江戸時代の寛政年間に造られた上泉郷蔵がある。

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上泉城の一角にある西林寺は伊勢守の菩提寺で、本堂裏の世代墓地の中には伊勢守の墓とされる自然石の石塔がある。

西林寺の過去帳によれば、伊勢守は天正五年に上泉で没したと言うが異説も多い(上泉氏の子孫が所有している文書によると天正十年没と言う)

そもそも伊勢守の事跡自体が伝説による所が多く、箕輪落城後に信玄に仕えるのを断って廻国修行をしたと伝わったり、新陰流の道統を継承した柳生家や、高弟の筆頭格であった丸目蔵人の家に伝わる印可や文書の類にも資料間の食い違いが見られるなど疑問点が多く、「剣聖」と呼ばれて後世神格化されてしまった人物ゆえか実像がわかりにくい。

なお、西林寺の伊勢守の墓は自然石であるため編年による年代比定が困難であり、実際に伊勢守の墓かどうかはわからず、一説には長子の上泉秀胤の墓とも言う。

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同じく群馬県の藤岡市には、箕輪城の長野氏の主筋である関東管領の山内上杉家の居城・平井城がある。

現在平井城の跡地は、土塁や堀などが復元・整備されている。

地元はこの平井城を関東管領の居城として売り出したいようであるが、この平井城、史跡公園にしては難点があって、おそらく史跡整備の際に土地を買い取るのに市が失敗したのであろうが、城の一角にある堀が整備されて橋が復元(?)されているエリア(下の写真四枚目)、と土塁のあるエリア(下の写真一枚目と三枚目)の間には牛舎と農家が挟まっていて、直接繋がっておらず、そのため一端道に出て大きく迂回しないと行けない(加えて、城のすぐ横が前述のように牛舎なのでやたら牛の臭いが鼻について、あまり長居したくなるような場所ではない点も残念である)。

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平井城に近い東平井の円満寺には、上杉家の墓所があり、山門の手前に石塔が建ち並んでいるが、これらは近年に復元されたものである。

向かって左端の五輪塔は、戦国時代の関東管領・上杉憲房(上杉謙信に名跡を譲る上杉憲政の父)の墓である。

ただし、この五輪塔も大半が復元で、当時のパーツは地輪だけである(地輪が出土し、水輪から上はその後で復元された)。

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