雑記:鎌倉の古寺・史跡、その二

鎌倉の古寺・史跡紹介の続き。

頼朝の墓から東へ行った突き当りが、鎌倉で悲運の最期を遂げた後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王をまつる鎌倉宮で、そこから向かって左側に進路を取って北に進むと、北条義時が建立した薬師堂が前身で、現在も多くの仏像を有する覚園寺であり(覚園寺は全域が撮影禁止のため写真はなし)、右側に進むと瑞泉寺に行き当たる。

瑞泉寺方面に向かってしばらく行った所には永福寺の跡があり、現在は庭園の跡地と碑が建つのみであるが、ここにはかつて奥州征伐の後で源頼朝が平泉の寺院を模して建立した壮麗な寺院があった。

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瑞泉寺は「花の寺」として知られ、四季を通じて様々な花が見られるが、室町時代には鎌倉公方足利家の菩提寺で、非公開であるが歴代鎌倉公方の墓所もある。

また、仏殿の裏には夢窓疎石の作とされる庭園もある(下の写真二枚目)。

瑞泉寺の入り口のあたりには、永安寺と言う寺院があったが、ここは永享の乱に際して四代鎌倉公方・足利持氏が自刃した場所で、その際に永安寺も炎上し、現在は民家の庭に石碑が建つだけである。

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頼朝の墓まで戻り、分かれ道を鎌倉宮方面ではなく、金沢街道方面に進んでしばらく行くと、杉本寺がある。

ここは行基作と伝承される平安時代の十一面観音像をまつる寺院で、頼朝が鎌倉入りする前からある鎌倉でも屈指の古寺で、鎌倉三十三観音の第一番札所になっている。

平安時代の仏像であるため、行基の作と言うのは伝承に過ぎないだろうが、本尊は拝観も可能である。

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杉本寺門前の犬懸橋を渡って南に行った所には、犬懸上杉家の屋敷跡がある。

山内上杉氏と並んで上杉氏の中心的家系であったが、上杉禅秀の乱によって没落し(禅秀は犬懸上杉家の当主)、以降関東管領は代々山内家が務めることとなった。


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杉本寺からさらに進むと北方に浄妙寺、南方に報国寺と言うどちらも足利氏ゆかりの寺院があるが、このうち報国寺は竹の庭のある寺院として知られ、足利尊氏の祖父・足利家時の菩提寺で、本堂に向かう途中には上杉禅秀の乱の戦死者の供養塔と言う無数の五輪塔がある(下の写真一枚目)。

また竹の庭の先にあるやぐらには、足利家時に墓とも、永享の乱に際してこの寺で自刃した足利持氏の嫡子・義久の墓とも言われる宝篋印塔(下の写真二枚目)があるが(石塔の年代としては義久の墓とする方が近い)、やぐらはかなり高い所にあるため遠目からしか見えない。

浄妙寺は家時の子で、尊氏の父である足利貞氏の菩提寺で、境内には足利貞氏の墓と伝承される宝篋印塔があるが、こちらはすでに「神奈川県内の石造物⑦」で紹介済みなので割愛する。

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足利氏の屋敷も鎌倉時代からこの界隈にあったようで、浄妙寺からさらに東に進むと、街道沿いに「足利公方邸旧跡」の石碑があり、鎌倉公方の屋敷があったのもこのあたりと言う。

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また頼朝の墓に戻り、今度は鶴岡八幡宮方面に進むと宝戒寺があるが、ここは北条氏の霊を慰めるために造立された寺院で、境内は鎌倉時代末期に北条得宗家(北条氏惣領の家系)の邸宅であった小町亭があった場所と言い、参道には石碑も建っている。

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宝戒寺から比企ヶ谷方面に南に進み、さらに東に入ると滑川にかかる東勝寺橋があるが、ここは青砥藤綱が川に落ちた十文の銭を探すために二十文の松明を買って川を照らさせたと言う『太平記』に登場する故事で有名な場所である(青砥藤綱については伝説上の人物で、非実在説もある)。

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東勝寺橋を渡ってしばらく進んだ先にあるのが東勝寺の跡で、ここは北条得宗家の菩提寺で、新田義貞が鎌倉を攻め落とした際には、最後の得宗家当主・北条高時以下、一門数百人が自刃した場所である。

石碑の奥にはやぐらがあり、中には北条氏の供養塔と言う乱積みの石塔があり、「高時腹切りやぐら」と通称されている。

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