北関東の石造物㊺:下小野子宝篋印塔群

画像1
画像2
画像3
画像4

名称:下小野子宝篋印塔

伝承など:なし

所在地:群馬県渋川市小野子


現在は渋川市の一部となった旧小野上村の小野子地区に、独特の形状をした宝篋印塔ばかりが並ぶ墓地がある。

宝篋印塔は四基あり、いずれも須弥壇式宝篋印塔と呼ばれる群馬県と埼玉県の一部にしか見られない特殊形式である。

この下小野子の宝篋印塔群は、最も古い銘文(康永二年銘)を持つ須弥壇式宝篋印塔である渋川市金蔵寺塔(「北関東の石造物②」参照)のすぐ後に造立されたもので、銘文によれば制作した石工は金蔵寺塔と同じ藤原光吉と言う人物である。

銘文中には願主として「楽阿」「現阿」の二名の名があるが、在地の武士であろうか。

宝篋印塔は向かって左側の二基が貞和三年、右側の二基が貞和四年の銘文を持ち、ほぼ同時期に造立されたものである。

しかし宝篋印塔の形式は微妙に異なっており、左から二番目の塔の中台が金蔵寺と同じ形式であるのに対し、同じ年に造立された左端の塔は、中台に笠と同じ隅飾りがついており、右側の二基は中台が簡素化されていて隅飾りも勾欄もない。

藤原光吉は渋川市周辺に短期間で異なる形式の宝篋印塔を次々と造立したが、この下小野子の貞和四年の塔が上野における最後の作品で、以降造立された須弥壇式宝篋印塔は左端の形式であり、残りの二形式はここで断絶している。

あまり知られていないが、宝篋印塔における地方の特色を考える上で、非常に興味深い石塔である。

なお、この四基は当時のままの形状ではなく、一度崩れたものを直す際に組み替えが起こってしまったようで、いづれも塔身が軸部の上に重ねられており、右側は本来の塔身の場所には別の五輪塔の水輪が挟み込まれている(復元案については磯部淳一『東国の中世石塔』参照)。


#渋川市 #下小野子 #宝篋印塔 #須弥壇式宝篋印塔 #南北朝時代 #藤原光吉 #石塔 #歴史 #日本史

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?