【エッセイ】 年頭にぼんやりと…
災害、事故。年初からいい話題のない2024年となっている。
「おめでとう」「今年はいい年に」と、帰省してきた親族とご馳走を囲んで年越しをした数時間後に、大地震が起こり、暮らしを失い、財産を失い… 元日が命日となった方もたくさんいらっしゃる。まさに「天と地の差」を元日から投げかけられた残酷に胸が詰まる。
答えのない話をする。
改札を出て、百貨店に向かって地下コンコースを歩いて行く。いつも人が多く、かき分けて、かき分けて進まなければならない場所。そこに、壁際に座り込んでホームレスの方がいらっしゃる。日や時間によって、または季節によって人数が違うし、いつも同じ方ではないように思うが、そこにいらっしゃる。
百貨店。舶来品も高級品もある。私も少しクオリティの高いものをと思って行く途中なので、なにか…考えさせられることが多い。
「人権」なんて、そんな大仰なことはいわない。「権利」など振りかざすつもりも毛頭ないが、「生きる尊厳」とか「人としての尊厳」ってなんだろうと頭をよぎる。
毎日なにを食べているのだろうとか、お風呂はとか考えると、「尊厳」ということが頭から離れなくなる。
「人の生命は地球よりも重い」と福田赳夫氏はいったが、本当にそうか。
いろいろな方がいる。いろいろな事情がある。
知的なことが得意だとか、そうでないとか。体力に自信があるとか、ないとか。身体、健康、メンタル、人柄、出生、経済、出会い、人間関係…
人生。日常気づいていないし、自分の努力の結果として今があるように思っている向きが多いが、私は様々な偶然の末に今の自分がいると思う。私は運動能力に劣っているが、それは私の努力が拙くてそうなったわけでない。誰も病気になりたくて病気になるわけでなく、不摂生でも健康な人はいくらでもいる。あの時、あの人に会っていたから、いなかったならと、枚挙にいとまはない。
「生活力がない」などと彼らに冷たい視線を投げつける人もいる。しかし、真っ当な生活ができないのは、彼らが「怠け者」だからとはいえないと感じる。
ここは駅のコンコースである。辻々に旅行のチラシがラックに置いてある。そのチラシを取って、自分の場所に座り込んで眺めている人がいる。どんな気持ちで眺めているのだろう。
大宮駅の雑踏で、ホームレスの女性と目が合ったことがある。
身なり汚いが、年齢は私より若い気がした。40代かと思った。破れた履物を履いて、両手にさまざまなものが入ったレジ袋を持っている。
目と目が合った。2、3秒だと思うが、こんな時間は長く感じる。
優しい瞳だった。なにか分からないが、伝わってくるものがあった。寂し気でもなく、悲しげでもなく、それは優しい瞳だった。
人混みのなか通り過ぎて、通り過ぎてしばらく気になった。気になって立ち止まり、気になって振り返りした。
1,000円でも差し上げようかと頭をよぎった。前述のようなことは考えても、恵もうなど考えたことはなかったが、優しく、その奥になにか深い慈しみみたいなものが伝わってくる瞳が気になった。でも、ここでお金を差し上げることはなにも解決にならない。ならないだけでなく、お金を差し上げることはなんか違うような、わけが分からないけれど、違うような気がした。
でも気になって、新幹線に乗ってから食べようとしていたパンがあったのに気づいて、「おばさん、これ食べて!」ならいいような気がして、そこから引き返した。
100mほど引き返したが、彼女は見当たらなかった。
日曜日の朝。ビジネスネタを取り上げるバラエティー番組がある。その番組では、年初に注目のさまざまな分野の社長を集めて今年の抱負やトレンドを話し合うのが恒例で、今日もそれだった。
各分野、各企業が集めたデータを組み合わせてAIに処理させれば、緻密な作業が得意とか、時間管理に長けているとか、さまざまな指標で有能な人材を効率的に選別して採用、配置できるという話もあり、盛り上がっていた。企業業績とか、成長とか、そんなことには必要なことなのだろうが、聞いていて釈然としなかった。
企業の「社会貢献」とか「CSR」とかいわれるが、「弱者」とどのように向き合っていくか、自らの成長のために秀でた人を獲得できればそれでいいのか。彼ら企業家に「弱者」は見えているか、見えていてもそれを理解しているのか。いうまでもないが、「弱者」とは、被災して暮らしをなくした高齢者なども含めてである。
私になにか答えらしいものがあるわけではない。ぼんやりとした寂しさだけが胸にある。
(2024年 1月13日)
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