信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

「戦争の回避」を目的に、戦時資料を収集、発信する長野県の有志です。政治的思想的団体とは…

信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

「戦争の回避」を目的に、戦時資料を収集、発信する長野県の有志です。政治的思想的団体とは無縁。戦時下の長野県を中心に庶民生活に関連する「モノ」を代表が収集し、将来を歩む為の判断材料として発信していきます。連絡はXのDMで。https://twitter.com/himakane1

マガジン

  • <戦時下の一品>ー逸品?珍品?皆さんでご判断を

    収蔵品の中から、特別に紹介したい収蔵品を「戦時下の一品」として紹介していきます。過去のnoteに取り上げたものでも、あらためて「一品」に絞って紹介させていただいたり、分からないことが多いけどお見せしたいーといったものも取り上げていきます。戦時の雰囲気を何か感じていただければ幸いです。

  • 信州戦争資料センター 中の人の思うこと、やってきたこと

    信州戦争資料センターは戦時体制下にあった日本の姿を、所蔵資料で公開し、見ていただいた方に後はおまかせするのが基本ですが、世の中の動きに黙っていられないときもあります。そんな、通常の枠にはまらない中の人の言葉や来し方のnoteをまとめました。できるだけ柔らかく伝えたいと思っています。

  • 戦時体制下の教育

    徴兵制を敷き、帝国主義陣営として外征の連続となる明治からの日本では、教育も天皇を軸とした「神の国」と教えられ、わけのわからない「教育勅語」を覚えさせられ、有無を言わさず軍事教練と、精神面から肉体面から「戦争」前提だった、それが戦時体制下の「教育の柱」でした。

  • 信州戦争資料センター展示会集成

    信州戦争資料センターは、およそ5,000点の戦時下実物収蔵品を生かすため、毎年テーマを定めて、それに沿った資料を選りすぐって展示しています。近年は長野県内だけでなく、遠くは北海道や四国からもおいでいただけるようになりました。そんな展示会のスタートからの記録です。ぜひ、お運びください。

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信州戦争資料センターの生い立ち

 「信州戦争資料センター」と名乗ってはいますが、残念ながら展示施設はありませんし、事務所があるわけでもなく、ただ「戦争を回避し続ける」という一点で集まった長野県…

長野県出身の軍人 一木清直大佐…盧溝橋事件とガダルカナルの落差はなぜか

 1942(昭和17)年8月、米軍の上陸したガダルカナル島へ反撃のため上陸した一木支隊の戦い。待ち受ける米軍に突撃して壊滅したその戦いに違和感を感じたのは、1937(昭和…

<戦時下の一品> 川原式防空カバー

 防空演習が1928(昭和3)年の大阪を皮切りに各地で行われるようになりますが、いすれも夜間に外に光を漏らさず、敵機から空襲の目標を隠す「灯火管制」が特に重視されま…

<戦時下の一品> 第二国民兵の遺書

 大日本帝国憲法では、兵役の義務が臣民に定められていて、男子は17歳になると自動的に第二国民兵となり、徴兵検査で体格などが適格ではないとされて「丙種」となると、第…

軍隊関連なら何だっていい! 強そうだから宣伝になるんだ!ーといった感じの緩い売り込み品を集めました

 戦時下、国の力の象徴である軍隊を商品や店の宣伝に取り入れるのは、以前も紹介させていただきましたが、今回はその中でも、変わり種を集めてみました。やはり長野県内や…

<戦時下の一品> 陶器製ベーゴマ

 日中戦争が始まってしばらくすると、金属は戦略物資であるとして民間に流れる量が抑えられ、1939(昭和14)年ごろには特に陶器製の代用品がたくさん登場してきます。そん…

戦時下の警察ー「関特演」などを意識して防諜は強化、仕事は簡略化、一般民への対応は丁寧に?

 警察関係の戦時下の資料は、警察組織という性格もあり、なかなか入手できません。一方、わずかながらでも入手した資料で、戦時下警察の雰囲気をお伝えします。基本的には…

派生させにくかった「翼賛」。商品も、とりあえず付けとけって感じが強く…

 日中戦争が泥沼化して終わりが見えなくなった中で、当初は軍部を抑える狙いのあった大政翼賛会が、結局軍の求めることを上意下達で国民にやらせる組織となり、発足時には…

<戦時下の一品> 携帯国旗

 こちら、旗の横幅28センチ、プラスチックらしい持ち手の長さ33センチの日本国旗です。長野市でつかっていた方のもので、戦時下ではいつ何時必要になるか、分からない…

憲法記念日に、あらためて「大日本帝国憲法」を読んでみた

 大日本帝国憲法は、天皇が臣民に与えた形をとる「欽定憲法」です。ですから、最高権力者である天皇が、こんな風に国を運営せよと指示した文書ともいえるわけです。下写真…

<戦時下の一品> 防空姿の土人形

 こちら、置物や子どもの遊びに使われたであろう、土人形です。普通はかわいい兵隊さんや騎馬上の乃木将軍とかがテーマになっているのですが、これはかなり特殊。防空頭巾…

太平洋戦争末期、いよいよ空襲が本格化するというところで建物の強制疎開が行われましたー防空法に基づいて

 密集した市街地に空地を設けたり、広い道路で防火帯をつくったりするのは、火災に対する基本であり、空襲の被害を最小限にするため、「逃げるな!火を消せ!」で悪名名高…

<戦時下の一品> 戦勝ゲーム

 箱には戦勝ゲームとありますが、日の丸マークの駒を軸に動かしながら、一番奥の蒋介石を手前中央に持ってきて追放するというパズルです。今ならロイヤルアウトゲームとか…

敗戦翌年の長野市の様子を伝える、隣組回覧常会資料を見るー戦後処理や伝染病と格闘しつつ、食糧確保に尽力

 今の日本を作ったのは、敗戦まで生き残り、復員し、戦災や戦時の無理を乗り越えて復興にあたってくださった皆さんのおかげだと思って居ます。敗戦翌年の1946(昭和21)年…

<戦時下の一品> 報国ランプ

 収蔵品の中から、特別に紹介したい収蔵品を「戦時下の一品」として紹介していきます。場合によっては、過去に取り上げたものでも、あらためてその品に絞って紹介させてい…

空襲対策に毒ガス防御が重視されましたが、結局使う場面はありませんでしたー懸賞では話題を呼びましたが。

 第一次世界大戦では、毒ガスが兵器として戦場で初めて大規模に使われました。しかし、終戦後、その凄惨な戦いからドイツの毒ガス兵器使用が禁止されたのを機に、化学兵器…

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信州戦争資料センターの生い立ち

 「信州戦争資料センター」と名乗ってはいますが、残念ながら展示施設はありませんし、事務所があるわけでもなく、ただ「戦争を回避し続ける」という一点で集まった長野県の有志数人がいるだけです。ただ、名称だけは分かりやすく、将来、何かの奇跡で「施設」「団体」ができる時に使えたらいいなと、2015年の初めての展示会に合わせて付けました。気の合った有志で「今年は何をしようか」と相談しながら手弁当の活動を続けています。  あれは、代表がたまたま戦時下を知る方と雑談しつつ、戦争体験を聞ける

長野県出身の軍人 一木清直大佐…盧溝橋事件とガダルカナルの落差はなぜか

 1942(昭和17)年8月、米軍の上陸したガダルカナル島へ反撃のため上陸した一木支隊の戦い。待ち受ける米軍に突撃して壊滅したその戦いに違和感を感じたのは、1937(昭和12)年7月の、盧溝橋事件における一木清直少佐=長野県高森町出身=の対応を知ったときでした。以下、当時の新聞や元防衛大学校准教授・関口高史さんの著書「誰が一木支隊を全滅させたのか」より、一木清直大佐の事をご紹介します。  一木少佐は1936(昭和11)年5月、支那駐屯軍歩兵第一連隊第三大隊長に任命されて、北

<戦時下の一品> 川原式防空カバー

 防空演習が1928(昭和3)年の大阪を皮切りに各地で行われるようになりますが、いすれも夜間に外に光を漏らさず、敵機から空襲の目標を隠す「灯火管制」が特に重視されました。これを将来の科学力の前には無意味で暗闇で住民が混乱するだけと喝破した信濃毎日新聞主筆桐生悠々が軍部の圧力で退社させられるほど、灯火管制は重要事項とされていました。  そこで電灯に付けるさまざまな灯火管制用の「傘」が作られ販売されましたが、それらが主に紙製で電球の熱を避けて大きめに作られていたのに対し、今回入

<戦時下の一品> 第二国民兵の遺書

 大日本帝国憲法では、兵役の義務が臣民に定められていて、男子は17歳になると自動的に第二国民兵となり、徴兵検査で体格などが適格ではないとされて「丙種」となると、第二国民兵に所属することになりました。  では、第二国民兵とは。松本連隊区司令部が徴兵検査にあたって対象者に渡した説明文が分かりやすいので、そちらをごらんいただきます。  甲種、乙種だと現役兵やその補充兵になりますが、丙種はいずれにも服することができないとしつつ「丙種合格者は第二国民兵役に服するので平時には軍務に服す

軍隊関連なら何だっていい! 強そうだから宣伝になるんだ!ーといった感じの緩い売り込み品を集めました

 戦時下、国の力の象徴である軍隊を商品や店の宣伝に取り入れるのは、以前も紹介させていただきましたが、今回はその中でも、変わり種を集めてみました。やはり長野県内や近辺のものがたくさんあります。            ◇  まずこちらの引き札。中央に凱旋してきた陸軍、周囲を関連する絵で埋めてある、長野県鬼無里村(現・長野市)の恵比寿屋のもの。呉服太物、米穀、清酒、菓子、雑貨など、村一番のデパートです。  兵器や絵柄、軍服などと、田舎の商店の売り込みの多彩さから、満州事変直後くら

<戦時下の一品> 陶器製ベーゴマ

 日中戦争が始まってしばらくすると、金属は戦略物資であるとして民間に流れる量が抑えられ、1939(昭和14)年ごろには特に陶器製の代用品がたくさん登場してきます。そんな中、もちろんこどものおもちゃだって、例外ではありませんでした。ゼンマイ仕掛けの金属製の戦車のおもちゃは手でひっぱって紙をはじく木製の戦車に変わったりしています。  そして、金属の塊である鋳物のベーゴマなんかは、真っ先に規制の槍玉になったでしょう。でも、かわいそうな子どもたちのため、大人も頑張りました! そんな努

戦時下の警察ー「関特演」などを意識して防諜は強化、仕事は簡略化、一般民への対応は丁寧に?

 警察関係の戦時下の資料は、警察組織という性格もあり、なかなか入手できません。一方、わずかながらでも入手した資料で、戦時下警察の雰囲気をお伝えします。基本的には防諜の強化、少ない人数で軍需や配給等の業務に対応するための仕事の簡素化、そしてなぜか、というか当然というか、一般庶民への対応を丁寧にーと。そんな側面をどうぞ。             ◇  まず、特高秘収第二九二五号とされた「防諜並びに流言取締りの強化に関する件」。1941(昭和16)年7月27日に長野警察署長が各署員

派生させにくかった「翼賛」。商品も、とりあえず付けとけって感じが強く…

 日中戦争が泥沼化して終わりが見えなくなった中で、当初は軍部を抑える狙いのあった大政翼賛会が、結局軍の求めることを上意下達で国民にやらせる組織となり、発足時には規約もなかったという事実。そして政治組織でもないということで、大政翼賛会とは何か、とてもあいまいなものとなってしまいました。でも、とりあえず新しい言葉だし、宣伝には使ってみるかという類の品は、ぼちぼちと出てきました。  下写真は、ずばり「大政翼賛」便箋ですが、中身は普通です。  こちら、1941(昭和16)年3-4月

<戦時下の一品> 携帯国旗

 こちら、旗の横幅28センチ、プラスチックらしい持ち手の長さ33センチの日本国旗です。長野市でつかっていた方のもので、戦時下ではいつ何時必要になるか、分からないので折りたたみ傘並みの必需品、だったようです。  そこで! 国旗も折りたたんで携帯式にすればと発案した方がいたのですね。袋には「新案携帯国旗」とあり、「旗行列に 歓送迎に 慰問袋に」と確かに使えそうなところを列記してあります。  さて、取り出しますと、中身はさらに小さい13・5センチほどの長さ。  布を広げて、持

憲法記念日に、あらためて「大日本帝国憲法」を読んでみた

 大日本帝国憲法は、天皇が臣民に与えた形をとる「欽定憲法」です。ですから、最高権力者である天皇が、こんな風に国を運営せよと指示した文書ともいえるわけです。下写真は、金権腐敗が横行していた戦前の選挙について、正しく行うよう訴えた1935年発行の冊子の表紙で、1889(明治22)年の憲法発布式の様子です。  では、その憲法の中身を見てみます。こちらは秋田魁新報第二号付録で1889(明治22)年2月16日刊行の大日本帝国憲法です。発布が11日ですから、当時の印刷通信事情を考えると

<戦時下の一品> 防空姿の土人形

 こちら、置物や子どもの遊びに使われたであろう、土人形です。普通はかわいい兵隊さんや騎馬上の乃木将軍とかがテーマになっているのですが、これはかなり特殊。防空頭巾、手には水がいっぱいのバケツ、動きやすいもんぺという、防空姿の土人形です。  防空演習は、1928(昭和3)年に大阪市で初めて行われて以来、国内の緊張感を高め戦時体制の組織つくりにも役立てる狙いで各地で開かれます。当初は限られた人が参加し、多くは見物人という形でしたが、組織が整ってくると共に、大勢の人が当事者として参

太平洋戦争末期、いよいよ空襲が本格化するというところで建物の強制疎開が行われましたー防空法に基づいて

 密集した市街地に空地を設けたり、広い道路で防火帯をつくったりするのは、火災に対する基本であり、空襲の被害を最小限にするため、「逃げるな!火を消せ!」で悪名名高い防空法によって、有無を言わさず進められます。こちら、1944(昭和19)年5月、東京都防衛局建物疎開課が作成した蒲田区全図の取り壊し建物の予定個所などを示した建物疎開地区図です。  蒲田区の指定は1944年3月から5月に行われています。こうした強制疎開の指定は東京以外にもあちこちで行われています。下写真は、岩手県が

<戦時下の一品> 戦勝ゲーム

 箱には戦勝ゲームとありますが、日の丸マークの駒を軸に動かしながら、一番奥の蒋介石を手前中央に持ってきて追放するというパズルです。今ならロイヤルアウトゲームとか、当時なら箱入り娘とか言われたパズルの戦時版です。  普通は木製の台座に木製の駒を使うのですが、戦勝ゲームは紙箱に竹で枠を入れ、駒も竹製となっています。縦の長さが11センチ、横幅9センチと小さめ。竹と底紙の相性が悪く、駒を滑らせにくいのが難点、というか、面白みを半減させる感じです。なお、英仏ロの3か国が入っているのに

敗戦翌年の長野市の様子を伝える、隣組回覧常会資料を見るー戦後処理や伝染病と格闘しつつ、食糧確保に尽力

 今の日本を作ったのは、敗戦まで生き残り、復員し、戦災や戦時の無理を乗り越えて復興にあたってくださった皆さんのおかげだと思って居ます。敗戦翌年の1946(昭和21)年4月から年末までの長野市の常会に配られた資料から、その雰囲気を見ていきたいと思います。  最初に出てくるのが種痘の連絡。この後も、頻繁に赤痢などの伝染病対策が出ています。食糧が乏しい中、衛生管理も行き届かないので、抵抗力がないとたちまち広がったようです。 そして「兵器武器類の提出」。復員軍人が持ち帰っていない

<戦時下の一品> 報国ランプ

 収蔵品の中から、特別に紹介したい収蔵品を「戦時下の一品」として紹介していきます。場合によっては、過去に取り上げたものでも、あらためてその品に絞って紹介させていただくこともあるかもしれませんし、分からないことが多いけどお見せしたいーといったものも取り上げていきます。初回は「国策の花形ー報国ランプ」です。  本体は軽い樹脂のようなもので、外側は雑に茶色に塗ってあります。箱に〇停=停止価格の印があるので、1939(昭和14)年9月以前のものと分かります。防空を意識している点、電

空襲対策に毒ガス防御が重視されましたが、結局使う場面はありませんでしたー懸賞では話題を呼びましたが。

 第一次世界大戦では、毒ガスが兵器として戦場で初めて大規模に使われました。しかし、終戦後、その凄惨な戦いからドイツの毒ガス兵器使用が禁止されたのを機に、化学兵器も含めて使用を禁止する機運が高まり、1925(大正15)年6月の「ジュネーヴ議定書」で毒ガスと細菌などによる化学兵器の使用は禁止されました。ただ、研究は可能で、日本やアメリカは署名したものの、批准はしていませんでした。  そしてもし戦争となれば、そんな約束事がどこまで守られるか、各国とも信用できなかったのでしょう。大日