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血塗られた快楽主義者たち〜「みなに幸あれ」【映画感想】

下津優太監督の初長編映画「みなに幸あれ」が示唆に富む怪作だった。本作は「第1回日本ホラー大賞」の大賞を受賞した11分の短編映画を長編へとリメイクしたもの。「呪怨」の清水崇監督が総合プロデュースを務め、Jホラー文脈による強いバックアップと先鋭的なアイデアが交差した作品と言える。

《あらすじ》
看護学生の"孫"(古川琴音)が福岡の片田舎にある父方の祖父母の元へしばらく規制することになる。しかしどうも祖父母の様子がおかしく、また家の中に「何か」がいることも分かる。再会した幼馴染(松大航也)に相談しようとするが、次第に人間の存在自体を揺るがす根源的な恐怖が迫って来る…

本作は「誰かの不幸の上に、誰かの幸せは成り立っている」という思想に基づいた物語が展開されていく。やりすぎなくらいの恐怖描写をフックとして盛り込み、不快感を煽るオントレンドな因習村ホラーとしての形を取っているが、コンセプトと劇中の説明台詞を辿っていくと別の姿が浮かび上がっていく作品でもある。勝手ながら、あれこれと解釈を巡らせてみようと思う。



社会派ホラーとして

まず祖父母の家の「何か」とは、生贄である。家の一室で高齢男性の手足をくくって監禁し、目と口を塞いで人としての"幸せ"を強引に奪う。そうすることでこの家の幸せを確保する、という仕組みが本作の根幹にある。生贄は家に無関係の他者で、代替不可能な家の幸せのための代替可能な犠牲だ。

例えばこういった、一族が不特定多数の他者を踏みにじり幸せを享受している、という恐ろしいシチュエーション。これは地盤や派閥を受け継ぎながら弱者を見て見ぬフリをし、そして仲間内で甘い蜜を吸い続ける上流階層、あるいは現政権のメタファーとして受け取れるだろう。祖父母の幸せが両親の幸せになり、そして自らへも、と脈々と受け継がれるが喩えられている。

そして山奥に住んでいる叔母のパート。彼女は家を忌避し、「この世界はVR」「死ぬことで上位世界に行ける」というスピリチュアルな考えに身を置いている。現実のシステムの対岸にあるのは信仰、ないしは陰謀論である、という極端な思考のメタファーと言えるだろう。しかし叔母も結局はこのシステムから逃れられていないという事実を突きつけ、嫌悪感は増大する。


また、家父長制の保存のメタファーとして田舎のムードも機能している。祖父は看護学生の孫に「医者でも捕まえるか」と笑いかけ、幼馴染の父親も「コレはどうだ」と親指を立て、幼馴染との結婚を薦めてくる。この辺りはインターネット層が好物とするような"ヤな田舎"像であり、不快ネタとして扱いやすい事象だ。しかし本作ではその延長に更に恐怖要素を上乗せする。

それは「子を持つ」ことが絶対的な幸せと扱われる価値観の恐怖についてで、これは祖母と祖父による性愛的親密、そして祖母が子を身籠っている奇妙な状態によって仄めかされる。恐らく祖母は生物学的には妊娠能力のない年齢のはずだが、生贄のおかげで懐妊したということだろう。その状況に対して誰も妙には思わないし、その"幸せ"に向けて家族が一丸となっていく。

孫と幼馴染はこの仕組みから逃れるべく、心を通わせる場面もあった。自由な選択や、システムからの逃避としての関係性のメタファーと言える。しかし最終的には決められた運命に飲まれ、孫は幼馴染の首を絞め、生贄として捧げる。そしてその対比として、祖母の出産シーンも交互に描かれるのだ。

幸せの頂点としての家族の出産、そこに吸収されていく他者との信頼。笑いながら幼馴染の首を絞める孫の姿は、仕組みを受け入れた諦念としてこちらに映る。こういった描写からも、社会派ホラーとして秀逸な作品と言える。



より根源的なものとして

しかし、こうした社会的メッセージを受け取った上で、こうも解釈できてしまう。仕組みやシステムのメタファーでもあるが、同時に人間の精神構造そのものをただ映し出したもの。そう、この映画はもっと"根源的"なのだ。

精神分析家のフロイトは、人間の心的過程には快を追求し、不快を避けようとする傾向が備わるという「快楽原則」を提唱した。そもそも人は快の量を増やし、不快を減らそうとする存在なのだ。しかし、自分を縛る制約が芽生えるにつれ、自身を罰したり、厳しく統制するようになっていくものだとされている。「みなに幸あれ」で描かれる家族は、この快楽原則に忠実である。そしてそこに功利主義利己主義を関連づけている点が重要である。

功利主義とは最大多数の最大幸福を追求する快楽主義の1つ。猛スピードで走るトロッコのレールの分岐の先、5人と1人がそこにいる。レールの切り替えレバーを前にし、どちらに切り替えどちらを助けるか、というトロッコ問題でよく知られる考え方で、この選択において5人を助ける方を選ぶのが功利主義である。1人の生贄で家族の幸福を守る、というのはこれに近い。

同時にその幸福と快楽の対象が自分たちを含む家族である、という点では利己主義的でもある。自分たちさえ良ければそれで良いというこの家族の考え方にも即している。しかし、ラストで仄めかされるのは家族のみならず、この世界の全てがこうした仕組みの上で成り立っているということ。本作が描いているのは因習村ホラーなどではなく、世界規模の仕組みの解剖である。

利己主義の延長にある功利主義、功利主義のフリをした利己主義、それを下支えする快楽原則。「みなに幸あれ」が抱える精神構造はこのように社会やシステムなどない場所にも生まれ得る根源的なものでもある。それは中学生の"いじめ"の描写にもそれは示唆的だ。まだ未熟な社会の中でも、人は本能的に奪うものと奪われるもので分かれてしまうということなのだ。

希望も何もない、そういうもの、と受容するほかない結末に見えるが、それを分かった上で"何をすべきか”を思考する可能性をこの映画は信じているようにも思う。自分だけが眼差す幸せについて思いを巡らせたくなる作品だ。




細部の面白みとして

ちなみに劇中は突飛なシークエンスも多い。祖父母は最初から暗闇で立ちすくんだり奇声を発したりと様子がおかしいが、これは孫が生贄の仕組みを脅かす予兆だろう。また、孫の指を祖父母が自分の目に入れようとするシーンは特殊な形だが、「本当に孫を思っている」の歪んだ表出と言える。ただこういった妙なシーンや思わず笑ってしまう夢のシーンなどはデビッド・リンチ的な不条理な味付けとしてスパイスとみなせる。むしろ、説明的すぎるとも言えるメッセージ部分のバランスを取る意味では良い塩梅のように思う。

そしてBase Ball Bearの主題歌もこの映画のテーマを受け取ったもので秀逸だということも付け加えておきたい。小出祐介(Vo/Gt)はダブルミーニングの歌詞を得意としており、今回の「Endless Etude」も一聴すると何やら怪しげな駆け引きの歌に思えるが、映画を観終わるとその裏のある世界についての描写が印象づく。映画用のアレンジでサビだけが抜き出された点もその側面を強調している。「試される」といった過去曲でトライアルを重ねてきた、時代への怒りと別のテーマを並走させる作詞が本作で大きく活用されていた。

メインキャストの2人以外は九州の役者で揃え、あえて素人っぽさも残した方言によって舞台を強固なものにするなど、細部のこだわりも光る1作。私も父方の実家が片田舎であり、そのリアリティも存分に味わえた。そういえば、そこにもなぜか1部屋だけ開かずの部屋があったような気もするが、それは気にしないでおこうと思う。絶対にこの件は掘り下げないでください。




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