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七人の侍(黒澤明監督)【映画感想文】

「古典」を辞書で引いてみると、こういうことらしい。

こ‐てん【古典】
古い時代に書かれた書物。当代・現代からみて、古い時代に属する書物。「鴎外や漱石も若者にとっては古典なのである」
学問・芸術のある分野において、歴史的価値をもつとともに、後世の人の教養に資すると考えられるもの。多く、著述作品についていう。「国富論は経済学における古典である」
芸能の世界で、近代に興った流派に対し、古い伝統に根ざしたもの。「古典舞踊」
古くからの定め。古代の儀式や法式。

 コトバンク デジタル大辞泉より

黒澤明監督の作品はおそらくすべてが上記でいうところの2に該当すると思う。

その分野の人にとって、知っていることが前提である作品。
そこから「引用」されたり、それを「下敷き」にされたりする作品。
それ以後の人や作品に影響を与えた作品。
黒澤明監督の作品はそういう、いわゆる古典だという認識だ。

そういう意味からも、黒澤明監督の映画を見ておきたいと思っていたし、いつか見なければならないとなんとなく思っていた。

特に、「七人の侍」は最も頻繁に引用されたり、話にあがる気がするのにまだ私は見たことが無かった。

更に、私は北野武さんの映画が好きなのだが、そのたけしさんが本(「KITANO par  KITANO」 早川書房 著:ミシェル・テマン 訳:松本百合子)の中で好きな映画のひとつとして「七人の侍」を挙げていた。

ああやっぱり見てみたいな~、見ておかないとな~ということでようやく観た。

よくある「勧善懲悪の英雄劇」かと思っていたが、違った。

七人の侍と言えば、三船敏郎が甲冑を着て、雄々しく腕を挙げているというイメージだった。

そのビジュアルに加えて、断片的に耳にしていた内容から、屈強な侍が7人集まって悪者を成敗する、よくある「勧善懲悪の英雄劇」かと思っていた。

野武士が百姓の村を襲撃し、米などを強奪し、百姓が打ちひしがれ、嘆き悲しむシーンから映画ははじまる。

一見すると、「この百姓たちが善良なる弱者で、悪党の強盗たちを退治する物語なのかな~」と想像する。

しかし、そんな単純な映画ではないということが判る。

ステレオタイプな善悪観を破壊する。観念的問題の複雑性。

百姓たちはたしかに搾取される側だ。

だが、搾取される側が心優しき善良なる民であるというのはステレオタイプにすぎない。

百姓たちの小狡さ、陰湿さ、僻みっぽさ、卑屈さ、小心ぶりが至るところに露呈する。

百姓たちの本性、実体を目の当たりにした侍たちはショックを受ける。
ショックを受けている侍たちに菊千代が声を張り上げる。

菊千代「やい、おまえたち。いったい、百姓を何だと思ってたんだ?仏様とでも思ってたか、ああ?笑わしちゃいけねえや!百姓ぐらい悪ずれした生き物はねえんだぜ!米出せって言や、ねえ。麦出せって言や、ねえ。何もかもねえって言うんだ。ふん!ところがあるんだ。何だってあるんだ。床板ひっぺがして掘ってみな。そこになかったら納屋の隅だ。出てくる出てくる。瓶に入った米、塩、豆、酒。はは!はっははは!!山と山の間へ行ってみろ。そこにゃ隠し田だ。正直面して、ペコペコ頭下げて、うそをつく。何でもごまかす。どっかに戦でもありゃ、すぐ竹槍作って落ち武者狩りだい!よく聞きな!百姓ってのはなあ、けちんぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだ!ちくしょう!おかしくって涙が出らあ!だがな、こんなケダモノ作りやがったのは、一体誰だ?おめえたちだよ!侍だってんだよ!戦のためには、村焼く、田畑踏んつぶす!食い物は取り上げる!人夫にはこき使う!女あさる!手向かや殺す!一体百姓はどうすりゃいいんだ!百姓はどうすりゃいいんだよ!くそー。ちくしょう・・・ちくしょう・・・」

映画スクエアから引用

しまいには泣きじゃくりながら菊千代がこのように訴えると、志村喬演じる島田勘兵衛は悲し気な瞳でこう尋ねる。

勘兵衛「お前、百姓の出だな…?」

竹千代は武士を装っていたが、実は百姓の出身だったのだ。

命を賭して救おうとした百姓たちの本性。
その百姓出身であることを呪い、憎み、嫌悪し、武士として振る舞う竹千代の哀しみ。

正義とは何か、善とは何か、悪とは何か、、、そういう観念的な問いは、表面的に理解できるような単一的な像ではなく、その為に単純な答えも用意しがたいという現実問題の複雑性に気が付かされます。

社会構造的な問題ではないか?

百姓たちの心が卑しい!とか、野武士たちの心が悪徳だ!とかそういう精神性の問題ではない。

竹千代によると、百姓をこんなふうにしたのは武士じゃないか!ということです。武士がいたから、百姓は卑屈になり、陰湿になったのだと。

もっと言えば、そういう社会構造こそがこういう百姓と、武士を作ってしまったのだ、という構造的な問題として指摘しています。

野武士たち、百姓たち、侍たち。
そして米。

だれが悪くて、だれが善い、ということではなくて、各プレイヤーと米が関係することで、構造的に事象が発生しているということを描いているように感じました。

黒澤明監督の「羅生門」もその意味では似た問題を描いている気がします。
多襄丸、男(金沢)、女(真砂)、杣売り。

一つの出来事について、おのおのが自身の都合の良いように解釈してストーリーを話すわけですが、それぞれが自身の善を持っているわけで、各人に共通する善悪とはなんだろう?

という疑問が生じる点で、七人の侍と似ていると思いました。

真の勝利者は誰か?

また、最後の島田官兵衛(志村喬)のセリフも印象的です。

勘兵衛「今度もまた、負け戦だったな。勝ったのはあの百姓たちだ。わしたちではない」


「映画スクエア」から引用

このことは人生のあらゆる場面にも当てはまりそうな普遍性を感じます。
仕事や受験、就職活動。

私たちは各場面で各プレイヤーを演じる訳ですが、そのゲームの真の勝利者ははたして誰だったのか?

私たちは時に正義感にかられ、責任感にかられ、使命感にかられ、身を挺する訳ですが、そのゲームが終わった時、ほんとうにほほ笑むのは誰なのか・・・?

そうした視点を与えられてハッとさせられるような映画だと思います。
いやぁ、やっぱ観てよかった。

その他の見どころ・名セリフ

2、3点に焦点を当てて感想を述べましたが、もっともっと見どころや、含蓄のあるセリフが詰まっていると思います。

三船敏郎

三船敏郎が役に似合いすぎている。かっこよすぎる。竹千代の誰からも愛される人柄が魅力的。ところで、カタナがかなり長いのはなんでなんだろう?

侍たちは「腹いっぱい米を食える」という報酬のもとに雇われます。なのでご飯を食べるシーンがありますが、それがとっても美味しそう!白いご飯が食べたくなる!モノクロ映画だからこそ、米の白さが際立っているように思います。
日本人にとって米とは、給料であり、生きる源であるんだなぁと再認識させられました。
戦国時代も令和もお米が主食であるっていうのは驚きです。
いろんな食物に接してきた中で自然淘汰された結果、米が残っているのだと思いますが、それはもはや、神秘的とすら思えてきました。
勘兵衛も、下記のように述べて食べています。

勘兵衛「この飯、おろそかには食わんぞ」

https://www.eiga-square.jp/title/shichinin_no_samurai/character/1
「映画スクエア」より引用

BGM

うめき声みたいなBGMがあるのですが、めちゃくちゃ怖かったです。。

名セリフ

印象的だったセリフがたくさんありました。

勘兵衛「人を守ってこそ、自分も守れる。己のことばかり考えるやつは、己をも滅ぼすやつだ!」

https://www.eiga-square.jp/title/shichinin_no_samurai/character/1
映画スクエア

こちらも勘兵衛。仁義なき戦いで広能昌三も似た意味のことを坂井鉄也に言ってますね。

勘兵衛「守るのは攻めるより難しいでな。」

「七人の侍」(黒澤明監督)

あとは百姓の長老がこんなことを言ってました。心配すべきことと、心配する必要のないことを考えることに役立ちそうです。

儀作「野伏せり来るだぞ!首が飛ぶつうのに、ヒゲの心配してどうするだ!」

https://www.eiga-square.jp/title/shichinin_no_samurai/quotes/5
映画スクエア

おわりに

また何回か見返すと新しい発見がありそうなので、また折を見て見返してみたいなぁと思ったりします。他の黒澤明監督作品も勉強も兼ねて観てみたいと思います。

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