#2「どうして読むのがこんなに大変なんだ!」【カラマーゾフの兄弟との格闘日記②】
カラマーゾフの兄弟を「必死に」読んでいます。
読むのが大変すぎて涙目になっています。
読んでいると、
「あれ、本当にこれで道合ってる??」
みたいな感じで迷子になります。
まさか、Googleマップというデジタル地球儀を片手に掌握したこの21世紀で、迷子になれるなどとは思いもよりませんでした。
いま、どこを読んでいるのか?
誰が喋っているのか?主語はなんなのか?
あれ、この人誰だっけ?
そもそもこれは物語なのだろうか?もはや詩じゃないのか?
右なのか左なのか?前なのか後ろなのか?
上か下か?過去か未来か?
ここは何処で、私は誰?私たちは何処へゆくのか?
という感じで錯乱状態に度々陥ってきました。
やはり、「カラマーゾフの兄弟」を読破するには強い動機と決意、深い覚悟が必要だと思わされます。
私の場合は、覚悟を通りこして「ぜったいに読み切るんだ!」という一種の催眠状態に到達してから、入山しました。
「なんでそんなに読むが大変なのか?」について「格闘日記」としてレポート&シェアしたいと思います。
※ちなみに、「カラマーゾフの兄弟」読破への決意表明を書いた記事「#1」は下記でございます。
読むのが大変な理由①:ロシアに馴染みが無いので、人物や情景が浮かびづらい、把握しづらい為
私たちは、アメリカとかイギリスならなんとなく、映画とかスポーツ中継とか「世界丸見え!」とかで見聞きしていますよね。
しかし、ロシアにはあんまり馴染みがないのではないでしょうか?
私たちが小説を読む時って、登場人物や情景を、頭の中に映像化しながら読んでいるかと思います。
その時、どうやって映像を作るかというと、自身の経験から近しい人・もの・情景を引っ張り出してきて、それらを合成することで映像化していると思います。
例えば登場人物について。
日本育ちであれば、日本人の顔をいままでに1万通りくらい見てきていますよね。いわば、「日本人の顔」のデータをAIのように、ディープラーニングしてきています。
ですから、登場人物が日本人であれば、ディープラーニングしてきたデータから、なんとなくその顔を合成できるのだと思うのです。
しかし、「カラマーゾフの兄弟」はロシアの小説ですから、登場人物はロシア人ですし、街の情景はロシアのものとなります。
ロシア人の顔のデータ、情景のデータは少ないので、頭の中で映像を作り出すことがうまくできず、従って読解も難しくなります。
また、同様にロシア人名に慣れていないので、登場人物の人名が頭に入りません・・・。
鈴木さん、佐藤さん、ですと頭に入りやすいのですが・・・。
「アデライーダ・イワ˝ーノヴナ・ミウーソフ」
「グリゴーリイ・ワ˝シーリエヴィッチ・クトゥゾフ」
「ワ」に濁点が付くなんて、学校で習わなかったような気が・・・。
更に、ことを難しくしているのが、愛称が混同して使用されることです!
例えば、長男ドミートリイは「ミーチャ」と呼ばれ、更に砕けた言い方だと「ミーチカ」と呼ばれます。
「ドミートリイ」⇒「ミーチャ」⇒「ミーチカ」と三段活用します。
他にも、こんなことがありました。
「アグラフェーナ」という人名が出てきた時、誰のことか分からなかったのですが、読み進めると、グルーシェンカと同一人物であると判りました。
というよりも、初出の「グルーシェンカ」の方があだ名であり、正式名称は「アグラフェーナ・アレクサンドロヴナ・スヴェトロワ」でした。。
ただでさえロシア人名に慣れていない、更に登場人物が多い上にこうした呼称のバリエーションによって人物関係図の把握がなかなか困難になっています。
読むのが大変な理由②:ロシアに馴染みが無いので、お金の単位などの前提となる知識が不足している為
また、ロシアに馴染みが無い為に、お金の単位、金額感も分からない訳です。お金の単位は「ルーブリ」、「コペイカ」です。
「3,000ルーブリ」と言われても、どれくらいの金額感なのか見当がつきません。金額感が分からないと、「大金じゃないか!」とか、感情移入が難しい訳です。
それにしても、いまはGoogleがあるのですぐに調べられますが、インターネットが無かった時代ではどうやって読み解いていたのでしょうか??
そうした補助ツール無しでも読解してきた先人たちを尊敬せざるを得ません。
読むのが大変な理由③:テーマに馴染みがなかったりするから
「カラマーゾフの兄弟」の主要なテーマの一つに「神の存在、不在」があるかと思います。
それらの議論のベースにはキリスト教、ロシア正教があります。
なので、その辺りの前提知識が無いとこのテーマの理解が難しいです。
例えば、イワンが書いた教会問題に関する論文について議論するシーンがあります。
ここのシーンの解説だけでも、大学の先生に講義を一学期担当して頂かないと理解できないのではないか?と思わされるようなテーマの専門性の高さを感じます。
読むのが大変な理由④:登場人物が多いから
登場人物が多い上に、一人一人を主人公とみなして読むこともできてしまいそうなほど、各人物について細かく描写されています。
ところで、「ドラゴンボール」、「ワンピース」、「スラムダンク」、「キングダム」などの漫画も非常に多くのキャラクターが出てきますよね。しかも「カラマーゾフの兄弟」よりも余程、長編です。
しかし、私たちはほとんど混乱することなく、そのキャラクターたちを覚え、認識できますよね。むしろニッチなキャラクターへも愛着をもっていたりします。
この違いはやはり、視覚情報と言語情報の違いの大きさなのでしょうか?
人間はその進化の過程で、視覚で人物を識別する能力が発達してきたのかなぁと思ったりしました。余談です。
読むのが大変な理由⑤:セリフが長いから
セリフがとーーーっても長いのです。
例えば、220ページから229ページまで9ページ分が全部ミーチャのセリフです。
まだ話終わってなかったんかい!というかこれからが本題かい!
しかもシラフでこれかい!
ミーチャと飲みに行ったら確実に終電を逃しそうです。
ちなみにこのセリフは第三篇の第三と第四を跨いでいます。
これ、ドラマで言えば、第3話の喋っている途中でエンドロールが流れて、そのまま終わって、第4話は喋っている途中から始まる、みたいな感じです。破格だ。。
「この長い話を聞いてる側は、ずっとどんな顔をして聞いてるんだろう・・・?」
と思っていたら、
やはり突っ込まれていました。
アリョーシャ優しいからな。。全部聞いてあげるんだな。。。
読むのが大変な理由⑥:知らない言葉の連続!
「沙翁」って、なんのことか分かりますか?
「シェイクスピア」のことらしいです・・・。
「貪婪」「沈湎」「憤懣」「傲岸」「憐愍」「輪喚」・・・
全部知っていたらあなたはかなり言葉に精通されていると思われます!
劇中ではこんな固い言葉たちが、難しい顔をして、腕組みをして並んでいるのです。。
読むのが大変な理由⑦:古今東西の教養から引用している
さすがドストエフスキー、古今東西からあれこれ引っ張ってきます。
ドイツ語やフランス語がセリフに交じっていたり、詩や歴史、更にはキリスト教から引用してきたり・・・。
このことが、作品の世界を壮大で重層的なものにしていると思われますが、同時に超ハードな歯ごたえを実現しています。
読むのが大変な理由⑧:こんな記号、みた事ありません¡¡¡
「難しい言葉を使っている」、「古今東西の教養を要求される」、というハードモードに加えて、さらにこんな記号が・・・。
文末の記号は、「!」このびっくりマークを上下逆さまにした記号なんです¡¡
これも学校で習っていない気が・・・。
(環境依存文字なので、もしかしたらちゃんと表示されていないかもしれません。)
きっと意味は、想像するに、「声が裏返っているような驚き方」を表現しているんですかね?
高等テクニックすぎる。。。
読破する為に・・・様々な形態で出版されています
以上のような事情から「カラマーゾフの兄弟」はなかなか読み切るのが難しい小説かと思います。(もっと要因はあると思います。)
有難いことに、いままでにいろいろな形態で出版されているので、自身に最もフィットするものを選ぶ選択の余地があると言えます。
フィットするものを選べれば、比較的に読みやすくなるかもしれません。
・訳された(出版された)時代
・訳者
・出版社
・漫画などの新形態
などの点でバリエーションがあります。
例えば、私がはじめに手をつけた岩波文庫版の第一版が出版されたのは、1927年12月25日です。
また、「カラマーゾフの兄弟」がロシアで出版されたのが1880年のようです。
(Wikipwediaより)
つまり、岩波文庫版は、「だいたい130年前くらいにロシアで書かれた物語を、だいたい100年前に日本語に訳した」ものということになります。
それは、「原文が出版された時代に最も近い」からこそ、当時の感覚に近い、という見方が出来るかもしれません。
その一方で、反対の見方をすれば、
「いまとは一番かけ離れている」とも言えます。
社会情勢、物質的な環境、人々の価値観、生活感情、生活習慣、使っている言葉などなど・・・むしろ共通している部分を見つけ出すほうが難しいほどに、あらゆる面で大きな違いがあるので、岩波文庫版はその意味では読解の難易度が高いのかもしれません。(しかしだからこそドストエフスキーの書きたかったことに近いのかもしれません。)
反対にいちばん新しい版でいうと、亀山郁夫さんが訳された2006年に出版されたバージョンがあります。
こちらは、かなり現代語訳になっているように感じます。
更に、2018年には漫画版も出ています。
ただし、それぞれに良さがあるので、どれがいいというより、どれもが良いという気がします。
(※賛否両論あるようですが、私はあくまで中庸です。)
また、下記以外にも別の種類・形態があるかと思いますのであくまで一部とお考え下さい。
ご参考になりますと幸いです。
■岩波文庫版(訳:米川正夫 初版:1927/12/25)
■筑摩書房(訳:小沼文彦 出版:1958年 ⇒出版年情報はwikipediaより)
※格闘日記第一回にて頂戴しましたコメントにて、こちらの「小沼文彦さん訳」版のご紹介を頂き、掲載させて頂きました。ご教授頂き誠にありがとうございました!!
■新潮社版(訳:原卓也 初版:1978/7/20)
■集英社版 (訳:江川卓 出版:1979 ※出版年情報はwikipediaより)
※格闘日記第三回で頂戴しましたコメントにて、こちらの「江川卓さん訳」版について言及頂き、知ることができました。ご教授頂き誠にありがとうございました!!
■光文社古典新訳文庫(訳:亀山郁夫 初版:2006/9/7)
■講談社 まんが学術文庫 (作:岩下博美 初版:2018/6/10)
岩波文庫版を選んだ理由・・・「カッコいいから」です。
じゃあなんでわざわざ硬派な岩波文庫版を選んだか、についてですが、何を隠そう「カッコいいから」です。
もう少しちゃんと言うならば、本格的な感じがするからです。
更にもっともらしいことを付け加えるならば、先人たちが読んだのもたぶんこれだからです。
米山正夫訳の第1版が出たのは1927年です。
なので、黒澤明も三島由紀夫もこの米川正夫版を読んだに違いないと考えました。(完全に妄想です。確証はありません。)
妄想の根拠の第二は、序文に「カラマーゾフの兄弟」を引用している「仮面の告白」の初版が1950/6/27であることです。
(※更に第三の根拠を付け加えるならば、実際に「仮面の告白」で引用されている文章と岩波文庫版の文章は一致しているので、やはり三島が読んだのは米川正夫版と思われます。黒澤明監督が読まれたのは別の版かもしれませんが…)
「せっかくならば、同じ文章で読んでみたい・・・。」
と意気込んで岩波文庫版で読んできた訳ですが、やはり苦しく、光文社から出ている亀山郁夫版を併読することにしました。
亀山郁夫版で読み進めていき、気になる表現、ポイントについては岩波文庫版(米山正夫版)でもなぞってみる、という方法です。
両方の訳の違いが分かって面白いです。
「訳すのって、こんなに差が出る作業なんだなぁ」という新たな発見もありました。
おわりに
いま、光文社文庫版の全5巻のうち、第3巻が終わろうとするところまできました。
しかし、途中途中で大まかに読んできた感があり、読みが浅いと感じています。
なので、いったん読み返したり、岩波文庫版でもなぞって読み深めようと思っています。
まだまだ、「カラマーゾフの兄弟」との格闘は続きそうです・・・。
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