三島由紀夫とその美文の秘密
三島由紀夫の一体何に惹かれるのか―。
何よりもまずその文章の、他に類をみない美しさではないでしょうか。
三島由紀夫の文章には朗読したくなるような、飾って眺めたくなるような魅力があります。
あの文章の美しさは一体どんなものを土壌としているのか。
この本の中で、その秘密に迫ることができる大変貴重なコメントを残していました。
※ベスタ―・・・このインタビューの聞き手。英国生まれの翻訳家。「太陽と鉄」を翻訳した。
小説のマテリアルは言葉
「言葉がマテリアルである」というのは恐らく、言葉それ自体が原材料であり、本質だということだと思われます。音楽でも、全体を通して一つの楽曲として成立しているけれど、音の一つ一つそのものが心地よい訳で、それ自体が本質であるということだと解釈しました。
音楽に込めた主題や思想というものよりも一音一音が持つ美しさ、心地よさこそが本質であるのと同じことだという意味かと思います。
例えば洋楽を聴いた時。
英語なので何を言っているかは分からない。けどすごく心地良い。
それと似ているのではないでしょうか。
映画でも、似たようなことが言えるかもしれません。
映画のマテリアルは何よりも映像表現や映像美である。
だから、観終わった後に、映画の主題や筋が理解できなかったとしても、「あのシーンが忘れられない!」という映像があればそれでとりあえずは充分なのかもしれません。
いずれにせよ三島の文学観が垣間見えて興味深いです。
「小説は純粋な芸術ではない」・・・というのは私はまだ理解できなかったので、今後も研究してみます。
古典文学の三島の文章
続いて、三島の文章に話題が移る。
古典文学があの美しい文章の土壌となっていること、また、あえてああいうトラディショナルな言葉を選んでいるのだと判りました。言葉がマテリアルだという信条がそういうこだわりとなって表出しているのでしょう。
なるほど・・・たしかに三島の文章は四角いというか、構造的というか、漢文的な骨格をしている気がしますが、それは古典的な素養を根底に備えているからからもしれません。
言葉は、身体感覚とともに理解するものでないでしょうか?
だから、意味がわからなくても暗唱することで、暗唱したものが身体感覚として浸透していくのかもしれません。
小説は建築
次は、三島の小説観が語られる貴重なシーンです。
三島の小説が建設物だというのはすごくしっくりきます。
例えば、「金閣寺」を読んだとき、小説全体が金閣寺のようだと感じました。
材料となる柱の一本一本までがきちんと採寸されているように、一語一語、一文一文が計算されているし、「一層は寝殿作りで二層は武家作り、三層は、中国風の禅宗仏殿造り」という金閣寺の設計のように、各章が独立して意味を持ちながらも、全体として煌びやかで美しい一つの建築物のように仕上がっているからです。
三島は更に、
とも語っており、自身の仕事が建築的であることを強調していました。
文章の余白
文章を油絵に喩えて、その余白についても語っています。
おそらく、余白とは、行間のような意味合いだと思います。
三島は言葉を尽くして絵を描き切るような小説を書いている気がします。
一方で川端康成は余白の大きい、ぽつりぽつりと画材を垂らして描いた絵のような小説である気がします。
三島が、余白を作ることについて「怖くてできない」と言っているのも興味深いです。三島は几帳面だから、解釈を読者にゆだねるような表現をすることは嫌だったのでしょうか?
ドイツ語と三島の文章
更に、三島はドイツ語の影響も受けていると話します。
私はドイツ語の素養がないのはっきりとは分かりませんが、語られていることはイメージとしては理解できる気がします。
一方で英語は主語と述語が近いかと思います。漢文も同様だと思います。
そういう言語と比較すると、三島の文章は長くて、主語と述語が離れている気がするが、それがドイツ語的であると意味が少しだけ理解できる気がします。
それにしても、やはり外国語を学ぶ意味は単なる実用的な意味だけではないと思わされます。
別の言語を理解することで、相対的に日本語とはどんな言語であるのかが洞察できるはずだからです。
それは上述の漢文の素養を得ることと同じ問題だろうと思います。
法律と三島の文章
漢文、古典文学、ドイツ語に加えて、三島は法律学の影響も受けていると言います。
「白い巨塔」の裁判シーンを見ていて思ったことがあります。
それは、裁判で話される言葉はなんと細部まで緻密に論理的で、全体として理路整然としている、洗練された文章だろう!ということです。
法律は、現実世界で起きうる複雑な事象を言葉でのみ表現するという点において、錬磨され続けてきたことは必然かもしれません。
一つのものを表現するのは一つの言葉しかない
これはハッとさせられました・・・。
最近、辞書を引くようになって感じていることがあります。
それは、辞書を引いてみると、「いままで自身が使っていた言葉は、辞書の意味とちょっと違う意味で理解してしまっていたと判明する」といことが結構あることです。
同時に、自分の知らない言葉はまだまだたくさんあるということです。
的確に言葉を選ぶならば、一つのことを表せる言葉は一つしかない、、、このことを思い出して言葉を選んでみたいと思いました。
おわりに
三島の話す言葉はすべてが格言であるかのようでした。
言葉を使い、文章を作る人にとって・・・つまり誰にとっても三島の言葉は大変貴重なものだと思います。
今後も三島の研究を続けてみたいと思います。