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【完】カラマーゾフ万歳!【カラマーゾフの兄弟との格闘日記④】

8月頃から読み始めて4か月ほど、ついに「カラマーゾフの兄弟」を読み終えました。

読書体験記としては今回で締めくくろうと思います。
本記事では、
①読書体験としての感想
②全体を通した総論的な感想文
の2点について書こうと思います。

一方で、詳細な感想文はテーマ別に、別の記事で書いていこうと思っています。
ご存じの通り、あまりにも長くて・重たくて・厚い小説なので・・・感想文を一つの記事で、かつ、しっかりまとめようとしたら果てしない時間と労力がかかってしまうので、断片的に書こうと思っています。

と、言いつつ結局本記事も15,000字を超えるドストエーフスキイ的な分量になってしまいました。。(感想を残しておきたいという個人的な志向も半分くらいありまして・・・。)
適宜、目次を使って読み飛ばしてください!

下記は作品の内容に触れるので、ご注意ください。

幼少時に親の膝下で暮らすということ

なんといっても、最後のアリョーシャの言葉がやはり印象的です。

一たい楽しい日の思い出ほど、殊に子供の時分親の膝元で暮した日の思い出ほど、その後の一生涯にとって尊く力強い、健全有益なものはありません。

「カラマーゾフの兄弟」岩波文庫 第四巻 p403

幼少時に親元で過ごした時の記憶ほどその人の人間形成に影響を与えることはないのかもしれません。

カラマーゾフの兄弟たちは、親からの愛を受けずに育ちました。
そのことがいつまでも彼らを苦しめていたように思います。

まずはミーチャ
ミーチャが警察からの取り調べに疲れて机の上に横になった時にみた「餓鬼」の夢。
あれは幼少期のミーチャ自身だったのではないでしょうか。
また、ミーチャがまだ5歳くらいの時にヘルツェンシトゥーベ先生から貰った「一フントのくるみ」。
ミーチャは23年後になってもこのくるみのことを覚えていました。
フョードルから愛されなかった分、このくるみ・・・愛はミーチャにとって救いだったのでしょう。

次男、イワン
イワンも愛を受けずに育ちました。
アリョーシャがまるで母ソフィアのように「憑かれたように」発作が起きた時、フョードルは「アリョーシャの母のソフィアにソックリだ!」と、イワンの前で言います。イワンは、「いや、そのソフィアは俺の母さんでもあるんだけど。。」と言います。フョードルはあろうことか、自分の子供の母親が誰かすら忘れるほどだった・・・。イワンのフョードルへの諦め、恨みが静かに垣間見えたシーンだった気がします。

三男、アリョーシャ
アリョーシャも、自分の母を自分の父が侮辱するのを見て、発作を起こすくらいショックだったのかなぁと。。
ただし、アリョーシャにとってはゾシマ長老が父親代わりになっていたのではないでしょうか?
ゾシマも自分の亡き兄とアリョーシャを重ね合わせていました。

そして、カラマーゾフの「4人目の」兄弟、スメルヂャコフ
彼もグリゴーリイに育てられ、フョードルからの愛はほとんど受けませんでした。
彼は猫を殺したり、イリューシャに、ピン入りのパンを犬(ジューチカ/ペレズヴォン)に食べさせることを教唆するなど、歪んだ人格へと育ってしまいました。
何より、そのスメルヂャコフによってフョードルは殺害されてしまった・・・。

カラマーゾフの兄弟は全員、子供の頃に親からの愛を受けずに育ったことで、心に歪みや傷、空洞を持つこととなりました。

ところで、ドストエーフスキイは子供が好きだったんだろうなと作品を通して感じました。
それは、イワンやアリョーシャが子供が好きであるという描写ににじみ出ている気がしました。

イワンは料理屋「都」でアリョーシャと会話した時、大人は禁断の実を食べたから罪を背負うのは当然だが、子供たちまでその罪を背負うことはあってはならない、というようなことを話しています。また、イワンは子供への愛を語ります。

罪なき者が他人の代りに苦しむなんて法がないじゃないか、ことにその罪なきものが子供であってみれば、なおさらのことだ!こういえば驚くかもしれないがね、アリョーシャ、僕もやはりひどく子供が好きなんだよ。それに注意すべきことは、残酷で肉慾の熾んな、猛獣のようなカラマーゾフ的人間が、どうかすると非常に子供を好くものなんだよ。

「カラマーゾフの兄弟」岩波文庫 第二巻 p58

アリョーシャも子供が大好きで、河原でイリューシャや、コーリャ・クラソートキンと出会った時なども自ら話しかけていました。

彼は三つくらいの子供が一番好きだったが、十か十一くらいの小学生も大好きなのである。

「カラマーゾフの兄弟」岩波文庫 第一巻 p58

子供が大好きで愛していたからこそ、子供たちが悲惨な目に合うことへの憤り、哀しみを持っていたのかもしれません。

そして、周囲の大人たちが子供を愛してあげるべきだということを信じていたのかもしれないと思いました。

ある美しい記憶がその人にとっての生涯の救いとなる

アリョーシャの演説の続きです。

過去においてそういう追憶をたくさんあつめた者は、一生すくわれるのです。もしそういうものが一つでも私たちの心に残っておれば、その思い出はいつか私たちを救うでしょう。もしかしたら、私たちは悪人になるかも知れません。悪行を退けることが出来ないかもしれません。人間の涙を笑うようになるかもしれません。(中略)この一つの追憶が私たちを大なる悪から護ってくれるでしょう。

「カラマーゾフの兄弟」岩波文庫 第四巻 p403

人生は、とっても大変。
社会で生き抜くこともとっても大変。
時に、悪に手を染めてしまうかもしれません。
(そもそも、悪とは何か?という問題も本作品中で議論されていることだと思いますが、)
キレイごとだけでは生きていけないかもしれません。
キレイなアリョーシャが翻弄されていったように・・・。

実際、物語のエンディングは決してハッピーエンドとは言えないのではないでしょうか。各人物毎に見てみます。

ミーチャは、父を殺していないのに―――つまり冤罪で―――シベリヤへ流刑となりました。

イワンは、自分の中に生じた矛盾と葛藤から、悪魔の幻覚を見るようになり、つまり譫妄狂になり、そのまま回復しないままでした。
(絶筆となった第二部では回復したかもしれないが。)

カチェリーナは、最後にドミートリイと和解したかに見えました――が、偶然鉢合わせたグルーシェンカと険悪なムードになり後味の悪いまま別れました。

グルーシェンカも、自分を呪っていた過去の恋からついに解き放たれ、生まれ変わってミーチャと結ばれましたが、ミーチャの逮捕によって一瞬のうちにそれは幻となりました。
結局、最愛のミーチャを流刑により失いました。

フョードルは殺され、スメルヂャコフは自ら命を断ちました。

いかに人生が難しく、残酷で、怖いものか・・。

しかし、それでも美しい記憶を胸に抱いて、それを救いとすることができるのだ・・・とアリョーシが言ってくれました。読者の代わりに言ってくれました。

人は、美しい記憶を自分の救いにして生きていけるのだと・・・。

この物語を経てからの言葉だからこそ、価値があると感じました。
これが単純なハッピーエンドであれば、説得力に欠けたと思います。
しかし、あくまで現実の難しさ、残酷さ、怖さを前提としているからこそ、この言葉の重みが何倍にもなりました。

誰しも、美しい思い出は一つや二つはあるのではないでしょうか?
たとえどんなに小さいなことでも・・・。

小学校の頃、放課後に友達と缶蹴りをして遊んだことでもいいだろうし、夏休みに行った夏祭りの光景でもいいだろうし、先生に褒められたことでも―――なんだっていいのかもしれません。

小さなことでもいいから、自分の中にある美しい記憶を自分の救いにして生きていけばいいのかもしれないと思いました。

コインの裏表。二つの深淵を同時に見て、矛盾を抱え、自問自答し、自己の中の善悪に葛藤する人間たち

「カラマーゾフの兄弟」の登場人物はほとんどの人が自分の中にあるアンビバレントな感情に気づいているからこそ、自問自答し、葛藤しながら生きていると思います。

ミーチャはその最たる例で、
婚約者のカチェリーナを裏切っていいのか?
カチェリーナから届けるように依頼されて委託された3,000ルーブリを使ってしまおうか?
全て使ってしまったら卑劣漢ではなくて、最も愚劣な泥棒になってしまうのではないか?
などなど常に自分の中にある信念や、美学、哲学と照らし合わせながら矛盾に苦しみます。

これはミーチャが善く生きようとすればこそ生じている葛藤だと思います。
もしミーチャがただひたすらに悪をむさぼるだけの男なら、こんなに悩みまなかったでしょう。

早い話が、もしミーチャの心が悪100%だったら、即座にカチェリーナのお金に着服して、グルーシェンカと駆け落ちしたでしょう。

(いや、もしそんなミーチャだったら、カチェリーナも3,000ルーブリを与えて「試そう」とすらしなかったでしょうが。)

ミーチャはイッポリート検事の演説にある通り、両極端という矛盾を内包した「ロシヤ的」であるのだと思います。
すなわちコインのように表裏を共存させているのです。

ロシア人の心は極端な矛盾を両立させることが出来、二つの深淵を同時に見ることが出来るのです、———我々の上にある天井の深淵と、我々の下にある最も下劣な、悪臭を放つ堕落の深淵とを見ることが出来るのであります。

「カラマーゾフの兄弟」岩波文庫 第四巻 p268

ロシア人の特性として記述されていますが、このアンビバレントな感情を内包しているのは、我々も含めた、人類の普遍的な特徴ではないでしょうか。

イワンも、理屈・論理としては、
「不死は無い。善行もない。すべては許されている。」と考えていました。

ところが、実際に自分の思想がスメルヂャコフによって実行された時、イワンは激しく動揺しました。

何度も何度も、スメルヂャコフが殺したのではないと思い込もうとしました。しつこくしつこく、スメルヂャコフに詰問しました。

ついに、スメルヂャコフが自分が殺したことを白状するのを聞くと、発狂し、悪魔の幻覚をみるようになりました。つまり、譫妄狂になってしまいました。

そして激しい罪の意識と、今までの自分が築き上げた論理の矛盾を統合することができないまま、闇へ堕ちていきました。

悪魔はまさに、もう一人のイワンだったのではないでしょうか。

あれほど神の創った世界を否定してきたイワンでしたが、心の底にあった想いは裏腹だったのかもしれません。

人間は理論だけでは生きられないのではないでしょうか。
頭で思っていても、実行はできない。
理屈で分かっていても、感情がついていかない。
善を望む一方で悪を期待する。
人間はそのようなアンビバレントな生き物だと感じました。

誰も知らない過去の殺人について告白すべきか?

ゾシマ長老の死の直前に語られたその生涯の中に出てくる「謎の客」も自問自答し、葛藤する人物として印象的です。

謎の客について端的にまとめると以下のような状況にある男でした。

<ゾシマに接近してきた謎の客>
・謎の客は、昔、人を殺してしまった。
・しかし、別の人物が冤罪で逮捕されたので、自分は逮捕されなかった。そしてその誤って逮捕された人物はまもなく病死した。
・謎の客はいまさら罪を告白しても、証拠はないし、誰も救われない。誰も得をしない状況だった。更に、既に結婚もして子供もいたから、尚更告白するのは躊躇われた。
・しかし、自分の心の中で罪の意識が消えず、それどころかどんどん膨らんでいった・・・。
・そんなある日、ゾシマのことを知り、ゾシマに相談すると、ゾシマは皆の前で告白するように言った。
・謎の客は何回も躊躇し、葛藤した末に、自分の罪をみんなに告白した。

もし自分が同じ状況に陥ったら・・・どうするでしょうか?
(縁起でもないですが、一つの思考実験として・・・。)

罪を告白すれば自分の心は救われるかもしれない。
しかし告白すればすべてを失うだろう。妻も子供も一生涯この十字架を背負うことになる。
じゃあ、黙っていることも、一つの正義じゃないか・・・?

この謎の客は葛藤します。何回も告白しようとして躊躇します。
ある時など、ハンカチを忘れたとかなんとか言って戻ってきたり。。
(こういう、ハンカチを忘れたとかにかこつける、いかにもあり得そうな人間描写がドストエーフスキイのリアリズム的表現なのかもしれません。)

これも、いかにも人間らしい葛藤だと思いました。
人間以外の動物は、罪の意識なんて感じないはずですから・・・。
特に、過去の罪に悩むなんて、人間以外にはできそうもありません。

罪と罰

実際、フョードルが殺されたのは、誰に罪があるのか?
どこからどこまでが、誰の罪なのでしょうか?
平たく言えば、誰がいけなかったのか?
各人物毎に考えてみます。

ミーチャは、
実際は殺してはいません。
ただし、明確な殺意は持っていた。
そして殺す直前までの行為も実際に行った。
では、たまたま、殺さなかっただけで、実際に殺したのとどう違うのか?

イワンは、
スメルヂャコフにフョードル殺害を教唆していた。
スメルヂャコフはイワンの思想がなければ殺さなかったはずです。
とすれば、イワンは本当に無罪なのであろうか?
更に、イワンは下記のような明らかに殺人が起きうる状況があることを認識しながらも、モスクワへ出立しました。

<状況>
・グレゴーリイが寝込み、マルファも酒で寝込んでいる。
・ミーチャがフョードルに強い殺意を持っている。(実際、顔をかかとで蹴るなどしている。)
・ミーチャはドアを開ける為の秘密の合図を知っている。
・スメルヂャコフが癲癇の発作が起こりそう

など・・・。これだけの状況が揃っていることを認知しながらも、その場を離れたことは、スメルヂャコフが認識した通り、殺害のGOサインだったと言えるのではないか・・・。

グルーシェンカは、
殺しには直接関与していない。
だが、そもそもフョードルとミーチャを悪意を持って弄んだからこそ、今回の事件は起きたはずだ。
グルーシェンカの、憂さ晴らし的な悪意が今回の悲劇の種となったはず。

カチェリーナは、
3,000ルーブリを餌にして、ミーチャを試した。
また、ミーチャは自分のことを軽蔑しているなどと、勝手に思い込み逆恨みしていた。

結局のところ、カーチャは自分だけが可愛いのであり、自分の自尊心と名誉を守ろうとしていたずらに周囲を振り回していたとも言える。

フョードルは、
被害者ではある。
しかし、そもそも育児放棄をし、先妻アデライーダの遺産をきちんと相続しなかった(6,000ルーブリだけ渡して、手打ちにするよう酔っ払ったミーチャに書類を書かせた)ことや、そのお金でミーチャの意中の人を買収しようとしたことなどなど、彼の「貪婪淫蕩」さこそが周囲の殺意を生み出したはずだ。

スメルヂャコフは、
殺害した張本人であるから、悪いのは間違いない。
しかし、「神がなければ善行も無い」「すべては許されている」などとイワンから思想的な教育を受けたことが彼の犯行のバックボーンとなっている。

更に、不幸な出自であり、本来なら貴族であるのに下男として虐げられていた側面もある。

以上のように、今回の悲劇は、決して単純で単一的な原因だけによるものではない気がします。

しかし、法律上裁かれるのはミーチャだけ。
ミーチャは一粒の麦として、みんなの悪を背負ってシベリヤに行く。

つまり、法律制度で裁けるものだけが、罪とみなされている。
たくさんの悪、悪意はあったのに。
その累積が最終的に結晶したのが今回の悲劇であるのに。

現代日本でも、無数の悪、悪意が溢れているはずだと思います。
しかし、罰っせられるのは法律制度上のスコープだけ。
罪と罰について問われた気がします。

偶然性と悪

他方で、偶然性という問題についても示唆していると思います。
例えば、偶然性と悪との関係。

無数の悪、悪意のみならず、偶然が重なったことも悲劇の一因ではないかということです。

たまたま、グレゴーリイが寝込んでいた。
たまたま、マルファが寝込んでいた。
たまたま、イワンがモスクワへ出立した。
たまたま、杵が置いてあった。
たまたま、女中のフェーニャが、グルーシェンカの居所をちゃんと伝えなかった。
たまたま、グレゴーリイが目を覚ました。

実際、フェチュコーヴィチは例えば杵について、裁判で下記のようなコメントを残しています。

もしこの杵が目につきやすい棚の上(被告はそこから持って行ったのです。)などでなく、戸棚の中にでも片づけてあったとしたら―――その時は被告の眼に映らなかったに相違ないから、被告は兇器を持たずに空手で駆け出したことになるでしょう。そうすれば、誰も殺さなかったのかもしれないのであります。

「カラマーゾフの兄弟」岩波文庫 第四巻 p331

偶然が重なることで悪が増幅されてしまったり、逆に悪をストップさせることもあるはずです。

運が悪かったから仕方ないというつもりではありません。

運が、悪を増幅させてしまうこともあると思うのです。
だからこそ、悪をできるだけ最小限に、排除していく為に、自問自答することこそが必要じゃないかと思うのです。

例えば、悪意が100%に達すると悲劇が起こると仮定したら。

もし70%の悪意を持っていたとしたら、そこに30%の偶然が入り込めば、100%に達してしまい悲劇が起こります。

この悪意をゼロには出来なくても、できるだけ小さくしておくことが必要だと思うのです。

私達だって少なからず悪意を持っていると思います。
人間は誰しも持っていると思います。
この悪意の大きさを理性によってコントロールすることが重要だと思うのです。

例えば、A氏に悪意を持っていたとする。
それは10%に過ぎない。しかし、自分の機嫌がすごく悪かったら悪意は40%に跳ね上がるかもしれません。そこにA氏が言ったセリフを悪い意味に聞き違えたり、勘違いして受け取ったとします。すると悪意は60%に増加。一緒にいたB氏が笑った。それは違う意味で笑ったのだが、誤って侮辱されたように感じたとしたら、悪意は80%に増加する・・・(以下省略)

みたいに、偶然が重なることで補ってしまうかもしれません。
だからこそ、悪意はゼロに出来なくても、出来るだけ小さくしておくことが大事な気がしました。

不死が無ければ、善行もない。すべては許されている。

イワンの思想の一つに下記のようなものがあります。

地球上には人間同士の愛を強いるようなものは決してない。人類を愛すべしという法則は、全然存在していない。もしこれまで地球上に愛があったとすれば、それは人が自分の不死を信じていたからだ、(中略)人類から不死の信仰を滅したならば、人類の愛が枯死してしまうのみならず、この世の生活をつづけていくために必要な、あらゆる生命力をなくしてしまう。そればかりか、その時は、非道徳的なものは少しもなくなって、すべてのことが許される、(後略)もし不死がなければ善行もありません。」

「カラマーゾフの兄弟」 岩波文庫 第一巻 p151~152

たぶんですが、キリスト教的な考えでは下記のような前提が成り立っていると思います。
・死後の世界があるので、人間は真の意味で死は無い。(=人間は不死)
・だからこそ、死後の世界でもよい位置につく為に善行を積むべきだ。

しかしイワンは神の創った世界を認めていません。
・なので、死後の世界は無く、人間は死んだら無である。
・死んだら全部無になるなら、現世で何をしたって構わないはずだ。(=すべては許されている)

(私はキリスト教の素養が無いので、正確性には欠けるかもしれません。勉強して分かったらアップデートします。)

イワンの言っていることはなんとなく分かります。
論理的に考えたら、たしかになんで悪いことをしたらダメなのか、説明ができません。
何故なら、死んだらすべてが無になるなら、善も悪も消え去るはず。
死んだあとに魂が残っていて、罰せられるなら、たしかに悪はすべきではないでしょう。
しかし、死んだら全部無になるとしたら、現世での最適解は、徹底的な利己主義かもしれません。

おまけにそればかりでなく、今日の我々のように、神も不死も信じない各個人にとって、自然の道徳律が宗教的な者と全然正反対になり、悪行と言いうるほどの利己主義が許されるのみならず、かえってそういう状態において避けることの出来ない、最も合理的な、高尚な行為として認められざるを得ない、

  「カラマーゾフの兄弟」岩波文庫 第一巻 p151

論理的に突き詰めると、なんで悪いことをしたらダメなのかについては論理的な回答を出すのが難しい気がします。もちろん、警察に捕まるから悪いことはしない、のですが・・・。それはあくまで社会生活都合上の回答であり、本質的回答ではない気がします。何故ならその論理なら、捕まらなければ何をしてもいい、ということになるからです。

やっぱり、エゴイスティックに生きることが最適になるという可能性をうまく否定できません。
(もちろん、犯罪はダメです!あくまで思考実験です・・・。)

イワンは、ある意味で超純粋な人なんじゃないかと思いました。
普通、人間は現実問題と折り合いをつけながら生きていきます。
だけどイワンは「とりあえず折り合いをつける」ことができないのだと思います。

世の中で起きている悲惨な事件、とりわけ子供が被害者となるケースについてイワンはどうしても我慢がならなかったのだと思います。

イワンは単なるニヒリズム的なのではなく、むしろロマンチスト、理想主義的なのだと思います。本当は誰よりも神様を信じたいし、神の創った世界を信じたいのだと・・・。

信じたいからこそ、そこで起きている看過できない矛盾や理不尽に対して憤りを感じているのだと思います。

この問題はなかなか答えを出すことが難しいですが、今後も考え続けてみたいテーマです。

一粒の麦

誠に実に爾曹に告げん、一粒の実もし地に落ちて死なずば唯一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし。(ヨハネ伝第十二章二十四節)

「カラマーゾフの兄弟」 岩波文庫 第一巻 p32

この「カラマーゾフの兄弟」という小説こそが、地に落ちた一粒の麦のような気がします。
ドストエーフスキイの頭の中にだけ留まっていたら、ドストエーフスキイの死と共に滅びたでしょうが、小説となっていまでは世界中で読み継がれ、多くの実を結んでいるのではないでしょうか。

実際のところ、一粒の麦とは、ミーチャのことを指しているのでしょうか?

人生の意味より人生そのものを愛せ

「地上に住むすべての人は、まず第一に生を愛さなければならないと思いますよ。」
「生の意義以上に生そのものを愛するんだね?」
「むろんそうなくちゃなりません。あなたのおっしゃるように論理以前に愛するんです。ぜひとも論理以前にですよ。それでこそ初めて意義もわかってゆきます。(後略)」

「カラマーゾフの兄弟」 岩波文庫 第二巻 p44

ここで注目したいのは、「論理以前に」という部分です。
論理で捉えようとすると、うまく説明できないと思います。

しかし、アリョーシャが言うとおり、まずは論理よりもとにかく人生そのものを愛すると、意義も次第に分かってくると・・・。

サルトルの実存主義的な発想なのでしょうか?
意義よりも先に、生まれているから、意義なんてあと回しでまずは生を肯定するという・・・。

とやはり論理で考えてしまうのは良くないクセかもしれません。
まずは、生そのものを愛してみたいと思います。

生活欲。粘っこい若葉。瑠璃色の空。

僕は生活したい。だから論理に逆らっても生活するだけの話だ。たとえ物の秩序を信じないとしても、僕にとっては、春芽を出したばかりの、粘っこい若葉が尊いのだ。瑠璃色の空が尊いのだ。時々なんのためともわからないで好きになる誰彼の人間が尊いのだ。

「カラマーゾフの兄弟」 岩波文庫 第二巻 p43

「生活したい」という表現が気になりました。普通使わない表現ですよね。

私は、ご飯を食べたり、散歩をして自然の美しさを目にしたり・・・観念よりも、直感的に、人間が感じる幸福、世界の美しさ。そういうことを指しているのだと解釈しました。

そういうものの具体例として、「粘っこい若葉」「瑠璃色の空」が挙げられているのではないでしょうか。

粘っこい若葉はよくわかりませんが、
瑠璃色の空についてはなんとなくわかります。

何が善か、何が悪か、どう生きるべきかなんていう観念的なことで悩んでも悩まなくても、瑠璃色の空は美しい。

観念よりも、直感的に感じる世界の美しさ、素晴らしさを感じようということかと思いました。

生の杯。カラマーゾフ的な力。

よしんば僕が人生に信を失い、愛する女に失望し、物の秩序というのをほんとうにすることが出来なくなったあげく、一切のものは混とんとして呪われたる悪魔の世界だと確信して、人間の幻滅の恐ろしさをことごとく味わい尽くしたとしても、———それでも、僕は生きていきたい。一たんこの杯に口を当てた以上、それを征服し尽した後でなければ、決して口を放しやしない!しかし、三十くらいになったら、まだ飲み干してしまわなくっても、必ず杯を棄てて行ってしまう‥‥‥しかし、どこへ行くかわからない。だが、三十までは僕の青春が、一切のものを征服し尽すに相違ない、———生に対する嫌悪の念も一切の幻滅もね。僕はよく心のなかで、自分の持っている凶暴な、ほとんど無作法といってもいいくらいな生活慾を征服し得る絶望が世の中にあるかしらん、とこう自問自答するのだ。そしてとうとう、そんな絶望はなさそうだと決めてしまったが、しかしこれもやはり三十までで、それから後は、もう自分でも生活が厭になるだろうと思われるよ。(中略)この生活慾はいくぶんカラマーゾフ的特質なんだね。

「カラマーゾフの兄弟」 岩波文庫 第二巻 p42

疑問だったのは、なぜ30歳までなのか?という点です。
私の解釈はこうです。

30歳くらいになれば、一通りの生活慾を満たせるからではないでしょうか。具体的に言うなら、色んな食べ物を食べ、お酒を飲み、タバコを嗜み、春夏秋冬を味わい、友達と色んな所へ出掛ける。あちこち旅行へも行く。遊ぶ。恋もある程度するでしょうし、本だって結構読んで、学問を探求したりもする。
30歳になるまでに結構たくさん生活を味わうことになる。

次第に生活に飽きてくると、この生活慾を上回るような絶望が出てくるかもしれない。

30歳になると、「絶望>生活慾」になる。

そうなったら、杯から口を離すかもしれないと・・・。
幻の第二部で、イワンが30歳を迎える頃、どのような対応をとったのか、見てみたかったです。(第一部作中ではたしか26歳。)

この世界はどう創造され、どう理解すべきで、何を信じて生きるべきか。何を基礎とすべきか。

科学の発達により、神がいなくなった時、人間はこの世界をどう捉え、どう理解し、何を基準に善悪を判断して生きていくべきか・・・そういうことについて書かれていると思いました。

キリスト教のことが書かれていると思うのですが、これは必ずしもキリスト教だけのことでもない気がします。

つまり、この世界はどう創造され、どう成り立ち、何を信じるべきか———そういうことが論題だと思います。

だから、無宗教の日本人が読んだとしても、自分たちの文脈に引き寄せながらカラマーゾフの兄弟を読むこともも可能だと思います。

現代日本人にとっての神とは。何を基礎とするか。

自分を含めて、我々はいかに世界を捉えているでしょうか。
世界の基礎は何でしょうか。
勿論、現在特定の宗教を信仰されている方はいらっしゃると思いますが、特定の宗教を信仰していない人をベースに考えてみます。

まず一つ目は科学を神とする考え方ではないでしょうか。
今の時代では科学が最も権威的だと思います。
科学こそが正しいというのが、コモンセンスではないでしょうか。
身近な例では、医療。
今の医療は科学をベースにしていると思います。
科学的にあり得ないことは、怪しいこと、信じられないもの、として認知されているのではないでしょうか。

二つ目は、論理。
科学と近しいとは思います。
論理こそが正しいという考え方も一般化していると思います。
身近な例では、ビジネス。
ビジネスでは、論理こそが最強・最善・最適な位置づけにあると思います。

三つ目は、生活慾かもしれません。
お金もここに含めたいと思います。
言ってみれば、カラマーゾフ的な力。
現代日本はお陰様で物質的には大変恵まれ、社会インフラが整備されています。生活慾を満たしやすい世界になっていると思います。

四つ目は・・・「推し」なんじゃないでしょうか?
アイドルかもしれませんし、大谷翔平選手かもしれませんし、ビートルズかもしれないし、ダウンタウンかもしれませんし、サザンオールスターズかもしれませんし、ビリーアイリッシュかもしれないし、レオナルドディカプリオかもしれないし、堀江貴文さんかもしれませんし、あいみょんかもしれません。

サッカーかもしれないし、格闘技かもしれないし、競馬かもしれないし、釣りかもしれないし、ゴルフかもしれないし、仕事かもしれない・・・。

なにか熱狂的になれるもの。信じられるもの。好きなもの。
自分にとって、世界と生を肯定させてくれるもの。
このような、言ってみれば「推し」こそが、一つの神なのではないでしょうか。

だいたい、この1~4つくらいが、現代日本人の神なのではないでしょうか。

もし、神が無いならば、私たちは一体何を基礎にして考えていけば良いのでしょうか。

ドストエーフスキイの文体について。ディテール・詳細な記述方法について。

カラマーゾフの兄弟がなんでこんなに長いのか?

ホフラコーワ夫人が喋りすぎだから・・・
というのは冗談で、(半分冗談ではないが、)超ディティールまでを、超詳細に記述しているというドストエーフスキイの文体が理由の一つではないでしょうか。

ドストエーフスキイの書き方は、全方位から、詳細に、誤りなく、正確に、抜け漏れ無く、緻密に、時にtoo muchに・・・書くようなスタイルです。

エクスキューズもとても多いと思います。(私もエクスキューズが多いので、あれなんですが・・・。)

下記は「著者より」という物語の前のドストエーフスキイの言葉なのですが、のっけからドストエーフスキイらしさが全開で面白かったです。

余は自分の主人公アレクセイ・フョードルヴィッチ・カラマーゾフの伝記に着手するに当たって、一種の疑惑に陥っている。ほかでもない、余はアレクセイを自分の主人公と呼んでいるけれど、彼が決して偉大な人物でないことは、自分でよく承知している。したがって、『あなたがアレクセイを主人公に選んだのは、何か豪い所があるからですか?誰になんで知られているのですか?一たいこの男はどんなことをしたのです?どういうわけで我々読者はこの男の事蹟の研究に、暇を費やさなければならないのです?』といったふうの質問の避くべからざることを予見している。
 なかでも、最後の質問は最も致命的なものである。なんとなれば、これにたいしてはただ『ご自分で小説を読んでごらんになったらわかるでしょう』と答えるほかないからである。
(中略)
もっとも、わたしはこんなおもしろくもない漠然とした説明を述べ立てないで、前置きぬきでいきなり本文に取りかかってもよかったのである。もし気に入ったら、みんな読んでくれるに相違ない。
(中略)
わたしが役にも立たない言葉を並べて、貴重な時間を浪費したのは、第一に礼儀のためであるし、第二には、『なんといっても、あらかじめ読者にある先入観をいだかせる』というずるい考えなのである。
(中略)
もちろん、だれとてなんらの束縛をも受けているわけではないから、最初の物語の二ページあたりから、もう永久にあけて見ないつもりで本を投じてもかまわない。しかし、中には公平なる判断を誤らないために、ぜひ終わりまで読んでしまいたいという思いやりのある読者もある。
(中略)
とはいえ、これらの人々のきちょうめんさと良心的態度にもかかわらず、わたしはこの小説の最初のエピソードの辺で、書物を投げ出すことのできるように、もっとも正当なる口実を提供しておく。序言はこれでおしまいだ。わたしはこれがぜんぜんよけいなものだということに同意するけれど、もう書いたのであるから、そのままにしておく。
 さて、これから本文に取りかからねばならぬ。

カラマーゾフの兄弟 岩波文庫 第一巻 著者のことば

「端的」という言葉の対極ではないでしょうか(笑)

全部読み終えたあとにこの序文を読むと、改めてドストエーフスキイらしさが伝わってきます。

何が言いたいのか、早く言ってよ!!!(涙)
気分は、完全にレイザーラモンRGの、「早くあるある言いたい」ですね。

こういう文体は・・・書き方は、ドストエーフスキイというよりロシア文学の性質なのでしょうか?
ロシア人の気質なのでしょうか?
読むのが大変で、途中で嫌気がさすこともありました。

しかし、だんだんと、細部にこそ文学が表れるのかもしれないとも感じるようになりました。

例えば、ミーチャが検査される時に衣服を脱ぐように警察側から指示されました。ミーチャは、足の親指の爪が変な形をしていることをコンプレックスに感じていました。なのでそれを見られるのが恥辱だと考えていました。

こんな挿話は必要でしょうか?
あらすじには不要かもしれません。
しかし、自意識というのはまさにこういうものではないでしょうか。
誰も見てない、言われてもそんなの気にならない。
けど本人にとってはすごく重要で、恥ずかしい。
こういう自意識の側面を描くにはどうしても細部の表現が必要だと思います。

ドストエーフスキイは本文中でこんなことも書いています。

人間にとって最も恐ろしい瞬間、たとえば刑場へ引かれて行くときなどには、かえってこうした些細な事情を思い出すものです。何もかも忘れていたものが、途中でもちらりと目に映じた緑いろの屋根とか、あるいは十字架にとまっている白嘴がらすとか、そういうものをむしろ思い出すのであります。

「カラマーゾフの兄弟」 岩波文庫 第四巻

たしかに、人生の恐ろしい瞬間や、強烈な瞬間って、意外と些細なディテールを妙に覚えていませんか?(笑)

ワンピースの作者の尾田栄一郎さんが昔、トラックに跳ねられた時、跳ねられて空中で思い出したことは、
「あ、あのDVD返却期限今日までだった・・・返せないや」
ということだったらしいです(笑)

(※ワンピースかロマンスドーンか、どこかの巻頭に書いていました。うろ覚えなので少し違うかもしれませんが悪しからず・・・。)

こんな記述もありました。

こんな場合、勝ち誇っているこの種の小説家を、わなにかけて取りひしいでしまうのは、まず何よりもデテールであります。実生活が常に豊富に持っているにもかかわらず、これらの意識せざる不幸な作者によって、いつも無意味な必要のない些事として軽蔑され、かつて一度も注意されることのないようなデテールであります。そうです、彼らはその瞬間、そんなデテールなど考えている暇がありません。彼らの頭はただ大きな全体を作り上げるばかりです。そこで、今こんな些末な事柄を訊問するとはなんだ!という感じをいだくに相違ありません。

「カラマーゾフの兄弟」 岩波文庫 第二巻

その他にも、ミーチャが取り調べを受けている時に、取り調べている男の指にはめている指輪が気になったという描写があります。

こういうディティールはあらすじには不要でも、人間の心の動きをつぶさに観察する文学においては、とても重要な要素なのかもしれないと感じました。

そして途中からドストエーフスキイの文体がだんだん心地良くなりました。
しかし、また途中から読む辛さが勝るようになりました。
その繰り返しでした。

でも二郎ラーメンみたいなところがあって、また読みたくなるというか、クセになる感じもします。

ぜひぜひ、これから他のロシア文学も読んでみたいと思います。

ドストエーフスキイのモチーフがたくさん詰まった、「ドストエーフスキイ総合小説」

「カラマーゾフの兄弟」は、それまでのドストエーフスキイのモチーフの多くが詰まった「ドストエーフスキイ総合小説」かもしれないと思いました。まだ私は読んでいないので、当てずっぽうですが・・・。

それぞれの小説タイトルに対応する人物や出来事があります。
例えば、以下のような感じです。

「白痴」・・・スメルヂャコフの母
「貧しき人々」・・・餓鬼や、スネギリョフなど
「罪と罰」・・・フョードル殺しという罪は、みんなが背負うべきものではないか?罰を受けたのはミーチャだけだが・・・。

というように、各モチーフ・テーマが盛り込まれている気がしました。
まだ読んでいないのでなんとも言えませんが・・・。

こう仮定すると、「カラマーゾフの兄弟」はやはりドストエーフスキイの集大成と言えるのかもしれません。

「カラマーゾフの兄弟」というタイトル

まず、三兄弟だと思わせておきながら、実はスメルヂャコフも兄弟だった、という点でミステリー的要素をこのタイトルに含んでいると思います。

次に、「カラマーゾフの」ということは、カラマーゾフ的であるという意味も含んでいるように思います。
私は、カラマーゾフ的というのは、一つは「強い生命力」のことだと考えました。善とか悪とかは無視した、生活しようとする慾、強い生命力のことだと・・。

つまり、カラマーゾフの兄弟というタイトルは、カラマーゾフ的な男たちという意味も含んでいると思います。

一方で、「罪と罰」「白痴」のようなあるテーマをタイトルにしていないのは、あらゆる問題を取り扱っているからこそ、ある意味総合的な、包括的な、限定しない形のタイトルになったんじゃないかと想像しました。

カラマーゾフの兄弟を読むのは体験かもしれない

カラマーゾフの兄弟を読むということは一つの体験なのかもしれません。

例えば、エジプトに行ったことがあるとかないとか、そういう類のものなのかなぁと。

行ったことがなくてもいいのだけど、行ってみる価値は十分ある。
また、一回行けばそれで十分という訳でもない。
行く度に味わいがあるだろうし、住むのもいいかもしれない。

やっぱり、読破するのは超・超大変

これは再三述べてきましたが、読むのがほんとーーに大変です。
私は本腰を入れて必死に読んだので4か月超というくらいで読み終えましたが、普通は半年~1年はかかると思っていたほうが良いかと思います。

カラマーゾフの兄弟を読んでいる時は他の活動に充てるリソースが枯渇するといっても過言ではないと思います。

とりわけ、時間効率を重視したり、インスタントなエンターテイメントが充実していてそれらの消費に慣れている現代人にとっては、カラマーゾフの兄弟を読むのは相対的に一層難しくなっていると感じます。

読み終えた後からがほんとうの読書のはじまり

読み終えはしましたが、ここからがスタートな気がします。。

というのも、やはり内容が難しかったり、要求される前提知識が多かったりするので、ここから「咀嚼・消化」していく作業が大切だと思うからです。

例えば、聖書とかを読むのと似ているのかもしれません。
聖書は読んだことが無いので、想像上の意見ですが・・・。
聖書って一回読んだら終わりとうことではないかと思います。
人生の中で繰り返し読み、人生経験を経て改めて読む、というような位置づけかと思います。それに近いのかなと思います。

読むのでも大変な小説。これを訳した人の根気たるやいくばくなるものか。

余談ですが、読むのも骨が折れるこの小説。訳された方々の根気強さ、エネルギーを創造し、敬服するばかりです。
著者も偉大ですが、訳者も偉大だなと思います。
また、コメントを頂戴するなどして、色んな訳者がいることを知りました。
今回は米川正夫さん訳を読みましたが、(途中で亀山郁夫さん訳も読みましたが、結局米川正夫さん訳に戻り、そのままゴールインしました。)ほかの訳者版もまた読んでみたいです。

続編が読みたかった

やっぱり欲を言えば続編を読んでみたかったと思います。
こればっかりはどうしようもないですが・・・。

おわりに

「カラマーゾフの兄弟との格闘日記」は読書体験としての記録を趣旨として書きました。これとは別に、いろんなテーマ毎に感想文も書いていきたいと思います。まだ不完全燃焼なところもありましので・・。

ひとまず、ご清聴頂いた方、ありがとうございました!



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