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戦場のメリークリスマス(Merry Christmas,Mr. Lawrence)(大島渚監督)【映画感想文】

人間は、自身の立場と役割によって周囲との関係性が規定されてしまのではないか

ハラもヨノイも、ある意味で戦争の被害者なのかもしれません。
戦争の中で、軍人を演じさせられていたのだと思います。

日本陸軍のハラ軍曹(北野武)が、英国人俘虜のローレンス(トム・コンティ)と接する様子は管理者側と俘虜のそれではなく、まるでかわいがっている後輩とじゃれる先輩のようです。
もしくは、休み時間にはしゃぐ友達どうしのように見えませんか。

戦争における敵どうしという形で出会わなかったら、ふたりは親友になっていたかもしれません。

ヨノイ大尉とジャック・セリアズだって同様です。
ヨノイ(坂本龍一)は「日本陸軍大尉として」、「日本の俘虜となる」セリアズ(デビッド・ボウイ)と出会いました。

本当はセリアズに心惹かれるヨノイでしたが、俘虜を管理する側の、それも陸軍大尉という立場上セリアズのことを好きだなんて言えるはずがありませんでした。結局、ヨノイ大尉はセリアズのことを若干ひいきしながらも、彼と心の交流を持つことはないままセリアズとは死別します。

このことを私たちの状況に置き換えて捉えてみます。
私達の今の友達は、かつてクラスメートや同僚、趣味仲間として出会えたから、友達になれたのだと思います。

もし仮に「店員」と「客」として出会ったとしても、友達にはならなかったでしょう。
「医者」と「患者」として出会ったとしても、友達にはならなかったでしょう。

たまにこんなことを思うことはありませんか?
例えば、仕事の取引先の人と接している時、「この人と、学校で出会っていたらすごく仲の良い友達になっていたかもしれないな。」というような。

もしくは反対に、いまの友人が、取引先側にいたら自分とはどんな感じの関係性になっていたのかな?というような。

もっとロマンチックに捉えるならば、いま親しくしている人とは、奇跡的な幸運のもとに、親しい関係性でいられるのだろうと思います。

私たちは自分たちにたまたま与えられた役割や立場、そういったものに周囲との関係性を規定されているのではないでしょうか。

ある意味でそうした役割を演じているに過ぎないような気がします。


ヨノイ大尉の心の声。ローレンスに吐露したホンネ。

ヨノイ大尉は、大尉という立場上、俘虜と仲良しこよしという訳にはいきません。
しかし、ほんとうは俘虜と仲良くしたいというのがヨノイ大尉のホンネでした。そのホンネを、ヨノイ大尉が俘虜のローレンスにポロっと吐露します。

それは、ローレンスが、「ヨノイの稽古の声(気合)が大きくて、病気の俘虜たちが怯えているので発声を止めてほしい」とヨノイ大尉に要望しにきた以下のシーンにおいてです。会話は英語で行われています。

ヨノイ大尉(坂本龍一)「俘虜が怯えるならやめよう。」
ロレンス「ありがとうございます。」
ヨノイ大尉「できることなら君ら全員を招き、満開のサクラの木の下で宴会を開きたかった」

戦場のメリークリスマス(大島渚監督)

この時、すぐ近くにヨノイの部下であるハラ軍曹がいるのですが、ハラは英語が分からない為、ハラに会話の内容が知られることはありません。その構図も、こっそりとホンネを漏らした感じを演出するのに一役買っているように思われました。部下に、そのホンネを聞かれる訳にはいかないからです。

本当はヨノイ大尉だって、いまは俘虜となっているイギリス人たちと、仲良くお酒を飲んで語らいたかっただろう・・・そう思うとなんとも切ないシーンに思えます。

似たような感情は誰しも経験があるのではないでしょうか。
争っていたり、対立している人との間に、休戦状態がふいに訪れた時。
ふと、「あれ、なんで争ってたんだっけ?」と思うような気持ち。

そういう微妙な感情が描かれたシーンだと思いました。

この直後、ヨノイ大尉はかつて自身が二・二六事件において同志たちに死に後れてしまった過去」をローレンスに打ち明けます。
そのことを話すと、ヨノイはふと我に返りました。
そして大尉の「立場」を「演じる」ことに戻り、ハラ軍曹にカネモトを処刑することを命じました。

ハラ軍曹の心の声。クリスマスに、ハラはホンネが出てしまう。

本当はローレンス達と仲良くしたい。
ヨノイ大尉だけではなく、ハラ軍曹もそんなホンネを漏らします。

クリスマスの日、ハラ軍曹は酒を飲んで酔っ払っていました。
そして、独房に収容されていたセリアズとローレンスをなんと独断で釈放してしまいます。

おそらく、酒を飲んで酔っ払っていた為に、「軍曹を演じなければならない」という理性が緩んでいて、ついホンネが出てしまった。

ローレンス「ハラ軍曹、あなたもやっぱり人間だ。」
ハラ軍曹「ローレンスさん、ファーデルクリースマス。ご存じかな?」
ローレンス「知ってますよ、ハラさん。ファーザー・クリスマス」
(俘虜長が入ってくる。)
ハラ軍曹「この男と帰ってよろしい!」

戦場のメリークリスマス(大島渚監督)

ヨノイ大尉は英語を隠れ蓑にしながら、ホンネを吐露していました。
ハラ軍曹の場合は、お酒がホンネを吐露させるツールになっていたと思います。

恥と切腹。
日本人の精神性とは。

また、作中では日本人とは一体に何か?について描がれており、切腹がそのモチーフの一つとして扱われていると思います。

ハラ軍曹「おい、ローレンス。おまえも切腹を見たいだろ?切腹を見ずして日本人を見たことにはならんからな」

戦場のメリークリスマス(大島渚監督)

また、切腹は「恥」とセットとして描かれていると思います。
作中にも、恥という言葉が良く出てきます。
しかし恥とは日本特有の概念であり、イギリス人のローレンスには恥という概念が理解できません。

ハラ軍曹「おまえたちは兵士じゃない。ただの俘虜だ。だから規律がなっとらんのだ。だから俺に助けを求めたりするのだ。恥を知れ」
ローレンス「私は恥ずかしくはないよ」

戦場のメリークリスマス(大島渚監督)

ハラは、ローレンスが何故恥に耐えることができるのか?疑問に思ってさえいます。

ハラ「ローレンス、お前は何故死なない?俺はお前が死んだらもっとお前が好きになったのに。お前ほどの将校が、なぜこんな恥に耐えることができるんだ。なぜ自決しない?」
ローレンス「我々は恥とは呼ばない。俘虜になるのも時の運だ。我々も俘虜になったのを喜んでいるわけではない。逃げたいし、またあなたと闘いたい。」

戦場のメリークリスマス(大島渚監督)

ハラ軍曹は俘虜になることを恥であると捉えており、恥をおったならば、切腹するべきだと捉えています。
一方ローレンスはそもそも俘虜になったことを恥であるとは捉えていません。

恥をかいたら、切腹をする。
切腹というしきたりは現代日本に残ってはいませんが、恥という概念はいまもなお日本人の中にありますよね。「日本の恥だ!」みたいな。

日本特有の概念なのだろうと思います。
恥については今後も思索を深めてみたいと思いました。

行(ギョウ)

日本的なものとして、「2日間、飲み食いせずに怠惰を正す」という行(ギョウ)という概念も登場します。

私は不勉強で分からなかったので調べてみると、どうやらこれは日本文化というよりかは仏教か神道か、その辺から由来しているようです。(「行」と検索すると、神社やお寺のコラムで紹介されていたのでそう推察しましたが、結局よくわかりませんでした。)

ヒックスリー俘虜長「ギョウとはなんだ?」
ローレンス「怠惰を正す日本のやり方だ。」
ヒックスリー俘虜長「怠惰だと?いつ我々が―」
ローレンス「聞くんだ! 彼が言うのは精神的なたるみだ!空の胃がそれをたたき直す」
ヒックスリー俘虜長「ナンセンスだ」

戦場のメリークリスマス(大島渚監督)

身体へのアプローチで精神的なたるみを正す、というのはたしかに日本人の感覚にもあるかもしれません。というより日本の学校教育にそういう思想が盛り込まれているような・・・。

反省させる為に正座をさせるとか、廊下に立たせるとか、頭を丸めさせるとか・・・?
ちょっとズレて解釈しているかもしれませんが。

個人としての「日本人」と集団としての「日本人たち」の差異。

日本人が個人から集団になった時の変化についてもローレンスが触れています。
つまり、イギリス人から見た日本人は以下のようなものでした。

ロレンス「日本人は焦った。個々では何もできず、集団になって発狂した。私は個々の日本人を憎みたくない。」

戦場のメリークリスマス(大島渚監督)

集団になると、特に日本人は違う心理状態になるのかもしれません。
やや拡大解釈、論理の飛躍があるかもしれませんが・・・。

最後に

ある大きな構造や事象の中においては、そこに関係するそれぞれの人間の立場や役割が発生し、更にその役割に基づいて、周囲との関係性が規定されているのかもしれません。
また、作中では日本人に特有の価値観や性質についても描かれています。「戦場のメリークリスマス」はそういう社会心理学的な、または民俗学的な洞察を与えてくれる映画であるように思いました。

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