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Today is (my) lucky day!


意思決定の合理的な理由

 私たちは普段、なにか行動を決めるとき、合理的な理由を考えます。例えば、なぜその学校を受験するのか、なぜ文系、あるいは理系を選択したのか、就活ではなぜこの会社を選んだのか、その理由を聞かれることはごく普通のことです。
 面接で志望理由や志望動機を聞く会社の担当者は、もちろん筋の通った話を期待していますし、私たちもその会社の製品やサービスの良さや、市場でのシェア、あるいは会社の社風などをあげて説明すると思います。

 誰もが納得するような合理的な志望動機を理路整然と説明することができたら、担当者に評価されて面接はうまくいくかもしれません。その説明が相手の望んでいたようなものに近ければ理想的です。そうなれば面接の担当者はこちらの返答を支持して、答えやすい質問を投げかけてくれますので、会話がはずみます。
 うまくいかなった場合はどうでしょうか。あれこれ振り返って考えてみるとき、自分で納得できる合理的な原因を探して答えが見つからないこともあると思います。うまくいかない原因は説明に筋が通っていなかったり、整然と説明ができなかったからでしょうか。
 論理的であれば話を聞く側も受けとりやすいのは間違いないことですが、その場合には単に無難な会話に終始してしまうかもしれません。

 私たちの意思決定の理由は実はあと付けで、実際は感情的な判断基準が先行しているという話があります。これは面接の際には話を聞く会社の担当でもきっと同じでしょう。

運がいい、ということ

 会社の担当者は、様々な観点で質問を考えていますが、パナソニックを一代で築いた松下幸之助の場合には、面接のときに運がいいかどうかを聞いたと言われています。

「あんさんは運がよろしいですか?」
 塾主・松下幸之助は、経営者であった頃、松下電器に入社しようとする社員に対して、こう聞いたという。経営だけにとどまらず、「運のおかげで成功するのだ」という考えが、塾主の人生のうえで重要な要素となった。

松下政経塾 入塾選考基準の「運のよさ」とは?

 運と聞くと、おそらく多くの人がそれは自分でどうにかなるものではないと思うかもしれません。運はなにか不確かでどこかつかみどころのないイメージがあるからでしょうか。
 運を自分で好きなようにコントロールできる、と考えている人は少ないと思いますが、でもその一方で私たちはお正月に初詣でに行っておみくじをひいたり、お守りを買ったり、絵馬に願いを書いたりします。また、ビジネスで成功した人の多くは運をとても大事にしていたという話もよく聞きます。

運がいいかどうかを、質問した松下幸之助はどのように判断したのでしょう。

 塾主(松下幸之助)はセメント会社の臨時雇いとして働いていたことがある。季節は夏だったが、仕事の帰りに船に乗っていると、近くを通った船員が足を滑らせて海に落ちたときに、抱きつかれてしまったために塾主も一緒に落ちてしまったそうだ。
 無我夢中で手足をバタバタしていたら、船が戻ってきてくれて救助してくれたのだという。
 塾主は「夏だったからよかったけれど、もし冬だったら死んでいたでしょうな」と締めくくっている。

 もう一つのエピソードは、塾主が独立して商売を始めたばかりの頃、自転車で製品の配達をしていたら、四つ角で車が飛び出してきて、吹っ飛ばされてしまった。
 さらに飛ばされた先が電車道で、そこに間が悪いことに電車が来たが、二メートル手前で止まってくれた上に、かすり傷一つなかったという。

松下政経塾 入塾選考基準の「運のよさ」とは?

 いつでも、何をしてもすべて難なく、上手くいくなどということはほとんどないでしょう。仕事では何度も失敗したり、ひどい目にあって打ちひしがれることの方が多いかもしれません。
 でも過酷なひどい状況を切り抜けた経験を持っている人はたくさんいると思います。散々な目にあって、それでもなんとかなって、その後は無事に終わることができたら、それは幸運だったといえるかもしれません。どうにもならない、と思っていたことが少しでも進めば、それはもしかしたら、かなりの運の良いことだったのかもしれません。
 そのようなとらえ方ができたら、毎日がとても楽しい日々になると思います。そして、そのような気持ちでいると、ふとしたことが自分にとってプラスになっていて、それが身の回りでたくさん起きていることに気づきます。

人間の運命は決まっていて同時に自由でもあるということの意味

 私たちは、ふと思いつきで行動することもあります。それがよい結果につながることもまた多いと思います。とっさにとった行動で思いがけず事故を避けることができた、ということもあるでしょう。

 甲野善紀は、人間の運命と自由ということについて真剣に考えたときのことを語っています。

 「人間の運命は完璧に決まっているが、同時に完璧に自由でもあるのだ」という結論を得て、本当にノイローゼになる一歩手前の状態から解放されたのです。
<中略>
 しかし、それは頭で理解しただけのことでした。
 それだけでは生きていく上で力にはなりません。体感という感情レベルまで納得した状態にならなければ意味はないと思いました。
<中略>
 なぜここで武の世界かというと、運命が決まっているからと頭で思っていても、いざ投げ飛ばされそうになったり、なぐられそうになったら、人間はそれをなんとかしようとすると思ったからです。そしてそのときの「思わず」ということはいったい何なのか。そのことから「運命は決まっていても自由だ」ということを考えたいと思ったのです。

古武術に学ぶ身体操法

 様々な理由を考えてとる行動に意味がないわけではないと思います。ふと思いついてなにか行動を起こして、それが必ずしも良い結果につながると言い切ることは難しいかもしれません。衝動的な行動ばかりではもちろん危険です。
 でももしかしたら、運命が決まっているような人生で私たちが「思わず」とる行動は、私たちを飛躍させるようなものであるのかもしれません。

今日は(も)運のいい日。

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