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先日、オレンジリボンのイベントで意気投合して立ち上がった任意団体、すまいる・ぼんばーの一部メンバーが集結してプチ会合が開かれました。
この団体は、メンバーそれぞれが個性的なキャラクターを持っており、関わっている場も様々です。
医療現場、就業支援施設、相談員、ライター、メディア、福祉施設、教育現場、主婦業、金融業、などなど。
これだけ多くの現場に携わりながらも、おそらく根底にある思いの部分で共通項があって集まっているのだろうと推察しています。
様々な話をしたなかで、特に印象に残ったのは「傾聴」について。
新たな気付きをいろいろと得ることができました。

実は、傾聴について調べたことをまとめようと準備をしていたのですが、専門的な話については機会があるときにふれることにしました。
今回は、自身の体験をベースに「声をかけること」と「耳をかたむけること」の重要性について考察してみたいと思います。

そもそも「きょういく」といっている人間がなぜ子育てや幼児虐待に注目しはじめたのか

かくいう私はというと、根底にある教育、特にインクルージョンと個別伸長型の学び(あえてこういう表現にしておきます)の課題として、子どもたちの環境・背景に注目したところまで遡ります。

学校でいじめられる子、いじめる子。
不登校・隠れ不登校の子、学校で目立った行動を取る子。
実は、この子たちは表裏一体。
陰陽どちら側にもまわってしまう可能性があると私は考えています。
そして、その裏には様々な要因となる家庭、学校をはじめとする社会環境が影を落としています。
私はこれを大きく四つの要因に分けてみました。

①大人による虐待、DVなど(言葉の暴力など軽いものを含む)
②大人による過度な期待や比較
③精神的・肉体的に先天性のハンディをもっている人。
④風評被害が要因となるもの。

いずれもどの家庭にも起こりうる要因です。
特に④はある日突然、なんの前触れもなく自分に降りかかってきて全く心の準備もできないまま巻き込まれてしまうケースです。

以前は、あまり意識して考えるということをしていなかったのですが、様々な団体での勉強会を通して、自分自身を、家族を、見つめなおすきっかけにつながりました。

自分は意外と傍観者でいたということ。
自分はよかれと思ってしていた行動が子どもにはプレッシャーにつながっていたということ。

特に、先にあげた四つの要因のうち、①②③は我が家でも確認された事象です(①と②は裏でかなりつながっているとは思いますが)。
ひとつずつ確認していきたいと思います。

①大人による虐待、DVなど(言葉の暴力など軽いものを含む)

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今改めて思うと、子どもたちが小さい頃かなり口やかましくしつけていました。

してはいけないことをすると、一度めは比較的落ち着いて対応します。
「やっちゃだめだよ。今度から気を付けてね」

ところが、これが二度めとなると、かなり様子が違ってくるわけです。
「あー、もう、なにやってんの。だから、やるなっていったでしょ」

そして、三度めともなると、
「ふざけんな。なにやってんだ。お前は」
と、思わず手が出てしまうような勢いの言葉がけに変わってしまうのです。

今ならばもう少し事実を客観的にみながら、
「いま、○○したよね。これってしていいと思う?どうしていいと思った?」
と本人になげかけて、考える時間を与えてみたり、
「いま、○○していたみたいだけど、△△する方法もあるし、××する方法もあるよ」
と提示・提案してみる。

他にもいろいろやり方はあると思いますが、大人側がうまくヒントを与えることで、子どもに気持ちよく答えてもらうようにするのです。
人に危害を加えるようなことさえしなければ、あえて失敗というものを体験させる度量の広さをもちたいものです。
そういう意味では、子どもの頃にかすり傷をたくさん負わせておいたほうがいいのではないかと最近思うようになりました。

失敗というかすり傷を経て、次にまた同じ失敗を繰り返さないようにするにはどう行動すべきかを子どもは真剣に考えるようになります。
その中で言葉のキャッチボールを重ねていく。
ついつい先回りして大人が手をだしてしまいたくなりますが、ここはガマン、ガマン。
大人は答えがわかっていたとしても、簡単に答えを提示しないことが大事です。
子どもの言い分に耳を傾け、相槌をうったり、事実をオウム返しすることによってそこから自然と子どもが答えを導き出せるような環境づくりに徹するよう心掛けたいものです。




②大人による過度な期待や比較

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親にとって、子どもはやはりかわいい存在です。
かわいい子どもには自分と同じような失敗をしてほしくない。
だからこそ、どうしても期待をしてしまいます。
その期待がだんだんふくらみ、少しの失敗が許せなくなってしまいます。

客観的にみるとたいした失敗でもないのに、どうも気になってしまう。
よその子がした失敗は許せるのに、わが子となってしまうとどうも許せなくなってしまう。

学齢期に突入するとそれがますます顕著になってきます。
わが子とわが子の周りの友達を比較し始めるのです。
「〇〇ちゃんはできるのに、なんであなたはできないの?」
「〇〇ちゃんはえらいよね」
「あなたも〇〇ちゃんを見習いなさい」

傍から見ているとなにもそこまで言わなくても、という軽微なミスが多いのですが、当事者はなかなかそのような考えに至りません

やがて、大人がまいた比較という種は、子どもに対するプレッシャーへと変化えていってしまうのです。
大人からの頭ごなしの言葉かけに対し、子どもはなにも言葉が発せなくなってしまいます。
面倒くさいことにならないよう黙って、できるように頑張ってしまうのです。
「テストでいい点数をとって期待に応えなきゃ」
「みんなと同じような意見を言って怒られないようにしなきゃ」
「お友達より一生懸命頑張ってほめらえるように頑張ろう」
「部活で活躍して内申をあげよう」

これらのプレッシャーが子どもたちの心をすり減らしていきます。
何気ない言葉かけが蓄積され精神的ダメージにつながらないよう心掛けたいものです。

言葉の暴力や比較に隠れた背景

言葉の暴力や比較に見え隠れするのは、「評価」という概念だと思います。
それも、ゼロの状態から加点していく「加点方式」ではなく、満点の状態から減点していく「減点方式」です。

「〇〇ちゃんはできるのに、なぜあなたはできないの?」という言葉は、「〇〇ちゃんは100点満点なのに、あなたは0点だよね」という言葉に置き換えることができてしまうのです。
これでは、子どもが傷ついてしまいます。

20年以上前の話ですが、学習塾で塾長をしていた時のことです。
中学生のある親御さんから
「うちの子、5教科で497点だったから学年で3番になってしまったんですよ。ケアレスミスがすぎるから。ホント、1番になれるチャンスだったのに、もったいない」
というお声をいただき、ギョッとしたことがありました。

5教科500点満点で497点だなんて傍から見たら立派すぎる点数ですよね。
でもそのお母さまの評価は、497点という素晴らしい点数をとったという事よりも学年で3番になってしまった残念さのほうが上でした。
この子のプレッシャーは相当大きいのではないのでしょうか。

ただ、この背景にも評価が見え隠れしているのではないかと思います。
親御さんが自分のときにも同じような評価を受けていたのではないかということ。
お母さま自身がお父様や他の親族の方からプレッシャーをかけられている可能性があるということ。
など、目に見えないプレッシャーを感じてそれをわが子にぶつけてしまっているのかなという印象を受けました。

そして、その先には「受験」という大きなプレッシャーもあります。
学校も、家庭も、この「受験」というプレッシャーにぶつかるためにはよりよい評価を求めてしまうのが現代社会です。

学校は「偏差値の高い学校、評価の高い学校にいかにたくさんの生徒を送り込むか」というミッションを求め、家庭は「いい学校を出て、いい会社に就職して将来安泰になって欲しい」という願いがこめられています。
「評価社会」の牙城を崩す何かが出てくれば全員がもっと楽に生きられるのに、と感じずにはいられません。

③精神的・肉体的に先天性のハンディをもっている人

これはとても難しい問題です。
そして、私が一番悩んでいるところであり、現在進行形の部分でもあります。

わが家の長女は原因不明の「頭蓋骨欠損」という先天的なハンディを抱えてうまれてきました。
お子様をお持ちの方であればご存じだと思いますが、赤ちゃんは生まれてきたとき頭蓋骨の一部の大泉門というところに少し空洞があり、月齢を重ねるとともに徐々に閉じていき完全に頭蓋骨が埋まる、というのが正常な状態です。
長女は月齢が重なってもかなり大きな空洞があいたままで、小児科の先生のアドバイスもあり大きな病院で診ていただいたところ判明しました。

幼稚園に進んでからは雲梯や鉄棒などの遊具は頭にぶつかると危ないからとみんなと同じように遊ぶこともできず、ボール遊びをするときは頭に当たると危ないからとヘルメットの着用をしながらの参加となりました。
そうなると、周りのお友達と同じではないわけです。
みんなと違うからと色眼鏡で見られるようになったり、事情の知らない小さい子は見たままを話してしまうことも多々あるため、時には傷つくような言葉をかけられたりすることもありました。
そのたびに、親である私は娘に「あまり気にしないように」とか、「そういうふうに言われても今が我慢の時」という形の言葉かけしかできず彼女の立場で考えることができていなかったのではないかと反省しています。
今となっては気の利いたことが言えなかったな、という感じです。

小学校高学年の夏休みに頭部の成長が止まったことを確認した後欠損箇所を人口骨で埋める手術をしたのですが、手術痕がくっきりはっきり残るような形になっていました。
いじめまではいかなくてもいじられている姿はみていたのですががその時もなお同じような声掛けしかできていなかったと思います。

年頃の娘に成長し、今なお気の利く言葉がけをしているとは思えませんが、一緒に対策を考えたり、少し離れたところから見守るくらいのことはできてようになったかなと思います。

大事なことは特別扱いをしないことです。
ついつい手助けをしてあげたくなってしまうのですが、その手助けが自信のなさにつながってしまうおそれがあります。
自分でできることは自分でする、できないときは自分で判断して危ないと思ったときは無理をせず周りの大人に助けを求める、という術を自然に身につけさせる環境づくりに徹していくのが好ましいのではないかと思います。

④風評被害が要因となるもの

これは、いつなんどき、自分に降りかかってくるかわからない事象です。
最近の事例をあげると、東日本大震災時の福島県の原発の問題や、コロナに罹患した患者、被害者や患者の周辺にたまたまいた、というだけの理由で心ない言葉を浴びせられることも少なからずあります。

被害に遭ってダメージが大きいところに野次馬が面白がって声掛けをしてしまう。
大人でも相当なダメージです。
同じことを学校で子どもが言われてしまうと不登校の原因にもなりかねません。

こういうときは、子どもが新たな環境で心ない言葉をかけられないように大人が学校側にはたらきかけて対応を一緒に考えていくことが必要です。
また、気持ちよく子どもが学校で生活を送れるように適度な言葉かけをしたり、話を聞いてあげることも大切です。

まとめ

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今回は、言葉をかけることと耳を傾けることに注目してみました。
言葉のかけかた、話のきき方ひとつで相手の印象はがらりと変わります。
効果的に言葉をかける。とにかく話を聞いてみる。
その場が心地よい空間になるような環境づくりに徹する。
そういう意味で、大人の役割は非常に大きいと思います。

昨日参加したオンラインセミナーの席で、「子どもはこども、自分は自分」と発言されていた方がいましたが、まさにその通りだと思います。
子どもである以前に一人の人間であるということを意識し、子どもの自律を促すとともに自尊心を傷つけないようケアをしていくことの重要性を感じました。

「かわいい子には先回り、手直し」するのではなく、「かわいい子には旅をさせよ」だと思います。


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