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雨男19話 対決、または押しの強さに流される?

【恋愛小説】『雨男 ~嘆きの谷と、祝福の~』第Ⅴ章 私雨-3

 虹子は凍りついた。
 朝、田町駅から地上を歩いて会社に着き、1Fのロビーに入ったとたん、くず男こと、道馬幸人の姿が目に飛びこんできたのである。
 ガラス張りの壁面から、秋晴れのさわやかな陽が射しこんで、無機質なビルの床をやけにのどかに照らしている。そのなかに、ダンガリーのシャツとベージュのチノパンという、カジュアルな――通勤ラッシュのオフィス街にはなじまない――格好で、人待ち顔の道馬が立っていた。たしか、テレビ局に勤務しているはずだった。
 虹子と別れたときよりも、少し太ったようである。
 雑踏で、道馬の姿を目ざとく見つける自分が、虹子は悲しかった。さらに――。
 薄ピンクのとろみ素材のブラウスに、ダークグリーンのワイドパンツ、パンプスはネイビーのスウェードで、ラウンドトゥのチャンキーヒール……素早く自分のファッションを確認し、変じゃないかな? などと考えている自分にも、腹が立つ。

 虹子が足を止めたので、道馬のほうもこちらに気づいた。
「おっ! 虹!」
 屈託のない笑顔で近づいてくる。とっととエレベーターに乗ればよかったと虹子は後悔した。
「元気そうじゃないか。よかったよ。メール送っても返事がないんで心配してたんだ。てかすげー髪みじかっ。いつ切った?」
 出勤途中でロビーにいた社員たちの視線が瞬時に自分に集中するのを感じ、虹子の身は硬直した。やっぱり逃げればよかった。いまからでも走ってエレベーターに飛び乗るとか。しかし、すでに道馬はヤニの染みた前歯を見せて目の前に立っている。

「おはようございます!」
 ばかでかい声が吹き抜けに響き、スーツ姿の男が虹子と道馬の間に割って入った。驚く虹子に、にやりとして一瞥をくれたその男は、赤木である。ほっとしながら、心拍数が跳ね上がった。
「そろそろ始業時刻ですけど、虹子になにか御用ですか」
 虹子? いまさりげなくニジコって呼び捨てにしなかった? 内心で虹子は狼狽したが、顔には出せない。
 赤木のほうが背は高く、道馬をやや見下ろす格好になっている。道馬はうろたえた。
「え。いや、あ? あんたこそ……」
 言いかけたところで、道馬の尻ポケットから間抜けなメロディーが鳴り始め、彼はさらにうろたえた。鳴りやまないところを見ると、メールではなく電話の呼び出し音だろう。

「すまん、ちょっと待っ……おい!」
 道馬が一歩下がって電話に出ようと尻ポケットから取り出した、そのスマホを素早く赤木が取り上げた。
「ナニすんだ、返せよ」
 道馬は血相を変えて赤木につかみかかったが、その肩を片腕でぐいと遠ざけ、スマホの待ち受け画面をのぞいた赤木は、「はあん?」眉を互い違いにして意味深に笑んだ。鳴り続けるスマホの向きをひょいと変え、その画面を虹子に見せる。
 目の大きな、かわいらしい女が赤ん坊を抱いている写真だ。
 その下には、Y・O・M・Eの文字――。
 妻と子ってこと? 虹子の額の奥が、かっと熱くなった。
「返せって!」
 道馬が自分のスマホを赤木からもぎ取った瞬間、呼び出しメロディーは切れた。

「なにしに来たの? 私になんの用?」
 怒りにうち震えながらそこまでしゃべり、そうじゃない、言うべきことは違うと虹子は首をふる。
「とにかく私のほうは、あなたになんの用もありません。2度と来ないで! 金輪際、連絡もしてこないで!」
 なかなかに凄みのある声が出た。と、自分では思った。客観的にはどうだったか知らないけれど。
「へっ」
 道馬はスマホを手にしたまま、卑屈に顔を歪ませた。
「調子にのってんじゃねぇよ。あの化け物みたいな顔、この男にも見せたのか?」
 虹子がひるんだのをいいことに、道馬は矛先《ほこさき》を赤木に向ける。
「あんた、いまの彼氏かなんか知らんけど、気をつけたほうがいいよ。この女、変なビョーキ持ってるからね」
 そして道馬はくるりと背を向け、歩きながらスマホを操作して耳にあてると、
「あ、もしもし、マリ? 俺だけど。どうした? ん?」
 これ見よがしに声を張り上げ、話しながら去っていく。
 なんなの? なんだったの? 茫然とする虹子は、
「ドンマイッ」
 背を赤木に叩かれて、我に返った。

   ***

 明日から3連休の金曜日。暮れかけた街を秋雨が濡らした。
 社屋の上階から、帰宅しようとして降りてきた虹子は、ロビーのガラス壁を見て足を止めた。
 朝の予報で降水確率は100%だったのに、傘を忘れた。驟がいたころ、虹子に傘は不要だった。社屋は地下道に直結で、そのまま田町駅まで地下で行けたし、山手駅には驟が迎えにきてくれたから――。

 傘を持つ習慣を取り戻すために、空模様を意識しようと、地上を歩く癖をつけているのに、傘を忘れて困ることはたびたびあった。職場のデスクにしまってあった置き傘も、一度使ってそのまま家に置きっぱなしになっている。
 なんとなく。そう、なんとなく? そうよ、驟といた日々を手放したくないからなんて理由では、決してないはず――気持ちが核心に触れそうになると、虹子はそれをかなぐり捨てて、雨のなかへと走り出す。そうすれば、考えなくてすむ。今日もそうしようと、踏み出しかけたとき、
「おう、傘ないのか」
 赤木が寄ってきた。

「なんなら俺が、家まで送って差し上げますか?」
 冗談めかして言いながら、自分の長傘を開いて一緒に入れとジェスチャーをした。
「いいよ、遠いから」
 虹子は素直に傘に入った。ふたりはひとつの傘の下、田町駅へと歩き出す。
「遠いって、どのへん?」
「横浜」
「おお、憧れの中華街じゃないっすか」
 赤木と話すのは楽だった。でも、雨に濡れた街の匂いがつきまとう。驟がついてくるみたいだった。
「この間の御礼、ちゃんとしてなかったよね」
「礼?」
「追い払ってくれたでしょ、ロビーで」
「ああ、あんなの。いいっすよ」
「だよね」
 ふたりとも、あの日の朝を思い出し、乾いた笑いを発して、しばらく黙った。
 沈黙を破ったのは、赤木だった。
「ただし中華街は行きたいな。行こうか、これから」
 語尾はやけに真剣で、この間ニジコと呼び捨てにされたときの感覚――平たく言えば、胸の内がさざ波だった――を思い出し、同じ感覚がたったいまも広がるのを虹子は感じた。

◇1話からマガジンにまとめてあります。よろしければ他の回もご覧ください。

◇NOVEL DAYSでも公開しています。


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