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男でも女でも

友人とジェンダーについて話した。彼女は25歳になったばかりのアメリカ人で、今まで一度も誰ともつきあったことはないという。男女という概念もないから性別が理由で惹かれることはないし、肉体的な関係よりも心がどれだけ繋がっているかを大事にしたいという彼女の言葉を聞いて、アバズレ度の高い私はただただ反省するばかりだ。

男とか、女とか、そういうのは社会が決めたものだから、あなたも自分で決めていいのよ、というから、じゃあ今日は男だけど明日は女でもいいわけ?と尋ねると、そんなの当然でしょうという顔をされた。こんなこと、もっと小さい頃に知っていたら今の自分はどうなっていただろうと想像する。女の人を好きになったこともあるし、という言い方がすでにジェンダーを基準にしてしまっているわけだが、1980年代の日本ははっきりとあった。

小さい頃の私は「女の子」という社会が決めた在り方のぎりぎりの中で一生懸命自分らしさを発揮しようとしていた。
「わたし」よりも「オレ」と言いたい自分はどこかへ封印して、細い糸を小さな針の穴に通して布を縫ってはいたが、あまりの不器用さに「女子失格」の刻印を押された。それよりドラムを叩いたり木を彫ったり機械を使って穴を開けたりするほうがよほど好きだった。それが男の子っぽいから自分はじゃあ男の子なのかと思えばそうでもない。あくまでもその男の子の概念は社会が決めた規定なのだから、私には関係ない。

医学的な検知からの女であることは全く問題はないしそれは受け止めてはいるが、社会が女性はこうあるべき論を振り翳し始めると急にその女性というものを捨てたくなってしまう。

妹と話して、姪っ子が通う小学校はすべて名前は「さん付け」だと聞き、なるほどと思うが、その「さん付け」の義務にも違和感を感じてしまう。

もっともっと自由に。もっともっと自分らしく。もっともっと相手を思いやって。
そういう社会になったらいいなとおもう。

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