「成功体験」考

失敗を楽しんで観察するとよい、と提案すると、「成功体験を積むことも大切」という指摘を頂くことが多々。私も成功体験を積むことには賛成。でも、指導する側が成功体験を積むことに意識をフォーカスさせることは、いろいろ不都合が起きやすいと考えている。

成功体験を積ませようと指導者が意識すると、子どもからしたら成功を急かされる感じになりやすい。指導する側も、早く成功させようと急かしたくなる気持ちになり、失敗は余計な回り道、ムダだと感じてしまう。その結果、せっかく失敗したのにそれを観察するゆとりを失ってしまう。すると。

子どもはなぜ失敗したのか観察するゆとりが与えられず、かと言って初めてのことだから何をどうすればうまくいくのかもわからず、それどころか何をもって成功と呼ぶのかも見当がつかない混乱に陥れられた感じになる。それでいて指導者が急かすものだからパニック。頭真っ白。たとえうまく行っても。

自分が何をしたのか覚えてない。このため、何をすればよいのか全く頭に入らない。それなのに指導者はご満悦。「ほら、言った通りにしたらうまくいっただろ」。でも、子どもは言われた言葉の通りに手を動かしただけで、何を言われたのかも覚えていない。手元じゃなく、指導者の目と口ばかり見てたから。

成功体験を積ませようとする指導者は、いつの間にか「自分の言う通りにしたらうまく成功した」という「自分にとっての成功体験」を追究してしまっていたりする。目の前の子どもにとっての成功体験ではなく。子どもはパニックになって頭真っ白なのに、成功したと指導者は喜んでる、という皮肉な絵。

だから私は、子どもが少し試行錯誤すれば、たとえ途中で失敗してもいずれ自分の力で成功に導けるようなことに取り組んでもらう。成功するまでに失敗を織り込んでおき、そしてその失敗も、子どもが落ち着いて観察すれば原因をつきとめ、解決方法を見いだせるようなものから取り組ませる。

よほど要領のよい子でない限り、子どもは予想通り失敗する。これまでの習慣から、「失敗しちゃった、叱られる、また指導者から急かされて焦らされる、どうしよう」とパニックに陥る。でも私は「おお、失敗したか。せっかく失敗したから、何が起きたのか一緒に観察しようか」と楽しそうに呼びかける。

「ここ、どうなってる?」と着眼点を示し、どうなってるかを答えてもらう。それを繰り返すうち、なぜうまくいかなかったのか、原因が見えてくる。「その通り。だとしたら、どうすれば解決できると思う?」と問いかけると、もう子どもは自分のアイディアを試したくてウズウズし始める。

うまくいかなくてもまた観察すればよい。観察すれば原因が見えてくる。すると、どうすればよいか、仮説が自然と浮かび上がってくる。それを試してみる。こうした試行錯誤を繰り返すと、子どもは自分の力で解決していく術に気がつく。観察し、仮説を立て、挑戦するという術を。

指導者は、成功にフォーカスするより、成功に至るまでの失敗の過程で、子どもが観察しているか、原因をその過程で突き止められるか、解決方法の仮説が浮かび上がるか、その仮説を試したいと意欲が湧いてきたか、ということを観察することに意識をフォーカスさせた方がよいように思う。

成功することよりも、その過程で子どもたちが何を体験し、どうすれば物事を解決していけるのか、その術を身に着けていくことが大切。観察、仮説、挑戦という過程をきちんと経て、成功体験は積んでいくものだと思う。途中のこれらを飛ばした成功体験には、恐らくほとんど意味がない。

成功体験を積ませること以上に、失敗を楽しむこと。失敗したときに観察し、仮説を立て、挑戦する意欲が高まるように仕向けること。そのためには、指導者が一緒に失敗の観察を楽しむこと。子どもに着眼点を示しながら問いかけ、「ではどうしたら?」と問いかける。問いかけが大切。

「成功体験を積ませる」という表現は、早く成功の喜びを味あわせてやろう、という親切心から出ているのだけど、「途中の失敗はさっさと通り過ぎて早く成功の妙味を味わおう」と焦りすぎて、かえって成功を味気ないものにしてしまってる気がする。

誰もが覚えあるはず。あっさりうまくいくより、苦労惨憺してなんとか成功したときの喜びは非常に嬉しいことを。それを自力でやり遂げたということの喜びは大変大きい。
けれど、その成功に誰かの力があり、その人に感謝を捧げる義務を感じるとき、喜びは消えてしまうことが多い。

「私のお陰で成功したんだよ、感謝しなさい」。なんだか手柄を横取りされたような。喜びを汚されたような気分。「もう全部あんたの功績でいいや。もう知らん」と言って、その成功体験を忘れたくなる。嬉しいどころか、腹立たしい思い出になりかねない。成功体験を追求する指導者がやりがちな失敗。

大切なことは、指導者が成功体験を喜ぶことではない。子どもが苦労の末、自分の力でたどり着いた、と感じ、嬉しくなるようにすること。そのためには、指導者は問いかけることはしても、答えるのは全部子どもにしてもらうこと。子ども自身が答えを導いた格好にすることが大切。

そして指導者は、子どもの成功を我が功績のように誇るのではなく、「お前、ようやり遂げたなあ」と、子どもの功績として称え、驚いて見せること。すると、子どもは喜びが倍加する。指導者にも驚いてもらえたと感じて。

というわけで、私は「成功体験を積ませる」という言葉は、指導者を誤った方向に導きかねない解像度の悪い言葉として、警戒せざるを得ない。成功体験以上に、途中の失敗をたのしむことが大切。観察・仮説・挑戦が大切。そのことを忘れないようにしたい。

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