「学ぶ」ことを遊びゃいいのに

「教育虐待」考。

私は成績の良くない子どもたちを中心に指導してきたからか、親御さんはそこまでシャカリキに子どもの勉強を見るというパターンは少なかったけれど、それでも見かけることはあった。その子は中学受験で失敗したのだという。

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4883/

成績を見せてもらうと、90点以上ばかり。うちの塾でそんな成績の子は当時一人もいなかった。「君、塾来る必要ないよ、勉強の仕方、知ってるだろ?じゃあ、いいよ」と、いったん断った。するとお母さんが「いえ!ぜひ!」と言って身を乗り出した。

お母さんは息子に畳みかけた。「○○ちゃんは今頃、あなたの受けた私立で頑張っているわよ。あなた、不合格だった時に悔しい、って言っていたでしょ?高校受験で挽回するって言っていたでしょう?」息子は眉間にしわを寄せながら、しぶしぶうなづいていた。

どうやら、私が現役京大生ということで、そのお母さんは何か勘違いしておられたらしい。何としてでもこの塾に、と言ってきかない。息子は息子で、「君、塾に通わなくてもいいよ」なんて変なこと言う塾だな、と興味が湧いたのか、入塾する気になってしまった。断り切れず、入塾を許可した。

ところが、塾に来るたびに眉間のシワが深くなり、険になっていた。聞くと、塾に行く前にも勉強、塾から帰っても勉強させられているという。すっかり勉強嫌い、拒否症になっていた。かわいそうに思った私は、せめて塾に来ている間くらいは休ませてやろうと、マンガを読ませていた。

そのうち親にバレて、その子は塾をやめた。残念ながら、その子は典型的な教育虐待を受けていたケースだったと言ってよいだろう。お母さんは、学校から帰って寝るまでのすべての時間を勉強に捧げなければ息子を許さない状況になっていた。これでは勉強嫌いになって当然。たぶん、成績も伸びないだろう。

勉強嫌いになると成績は伸びない。やる気がしないのだから、集中できるはずがない。勉強を親が強制して成功するのは少数派だと考えている。たいがい、途中で伸び悩む。実際、東大京大の学生に聞くと、「親から勉強しろと言われたことがない」という人が大多数。トップクラスは学ぶことを楽しんでいる。

残念なことに、成績の良くない子も、学ぶことを楽しめていない。原因はたいがい、小学校に入ってしばらくしてからの、親の接し方にある。親御さんは、ほとんどがマジメ。先生から「宿題をしっかりさせてください」と言われると、まじめに宿題をやらせようとしてしまう。これが失敗のもと。

「今日は宿題やったの?」「勉強しなくていいの?」と、親が先回りしてしまうようになる。すると、子どもは面白くない。親に言われたからやる、という体裁にどうしてもなってしまうから。もし宿題しても「親が言ってくれたからだ」と、親の功績になってしまう。子どもが頑張ったことなのに。

それに宿題をしても、親は驚かない。当たり前だと考える。それどころか、「成績を伸ばすには宿題をするくらいではダメ、プラスアルファで勉強しなくては」と、要求が際限なく膨らむ。すると、子どもが宿題しても勉強しても親が満足することはない。ずっと不満足な顔をすることになる。

すると、やりがいなんか消えてしまう。いくらやっても親は認めない。驚くことはない。たとえ頑張ったとしても「親である私が教育熱心であるおかげだ」と、親の功績にされてしまう。頑張るのは自分なのに、手柄は親のものになってしまう。これではつまらないから、多くの子供が勉強嫌いになってしまう。

少数だが、成功しているかのように見えるケースもある。小学1年生の間は、子どもは素直。親の言うとおりに素直に勉強したりする。それで成績が良い結果だと、親もほめてくれる。その好循環がたまたまうまくいったケースの場合、「これでいける!」と親も子どもも思ってしまう。でも。

もし親が満足することを知らず、もっと上へ、もっと上へ、と要求がどんどんエスカレートすると、子どもはだんだんつらくなってくる。前はこれくらいできたらほめてくれたのに、それではほめてくれなくなった、むしろ何で100点じゃなくて98点なの?と不満を親が言うようになったり。

たとえ98点でも、以前よりもずっと頑張ったからこその成績であっても、親は100点でなければ認めてくれない、何なら100点であってもそれを当然視し、もっと先の学習を課そうとエスカレートすると、子どもは辟易してしまう。疲れてきてしまう。

それでも、ごくごくまれ~に、トップクラスを維持したままの子がいたりする。そうした子は、「トップ」だから1人だけが味わえる「超偶然」でしかないのに、その親御さんの教育方式を教科書にしてマネしてしまう人が続出してしまう。そのやり方で勉強嫌いにならずに済むのはトップの一人(少数)だけなのに。

しかし、東大京大に入学するような成績の場合、やはり親が先回りして成功する確率はかなり低いらしい。高校卒業するまでのどこかで子どもが疲れてしまい、挫折する。その数は非常に多いように思う。みなさんも、身近にそうした事例を思い浮かべることができるのではないか。

東大京大に入学するような学生は、繰り返すが、多くが「親から勉強しろと言われたことがない」。そして、学ぶことをそのものを楽しんでいる。成績がよいからそんなことが言えるんだ、という解釈が普通だろう。しかし私は、学ぶことを楽しんだから成績も伸びたのではないか、と考えている。

学ぶことを楽しんでいる子は、面白いから集中してのめり込む。のめり込むから頭に全部入ってしまう。それだけでなく、それに関連する話にも興味が湧いて、ついでに学んでしまう。こうした子は、学校で習う内容をはるかに超えた膨大な学習を、私生活の中で済ませてしまう。

学校で習う内容は、好きで学んだバラバラだったことを、秩序立てて整理して教えてもらえるもの、ということになる。すでに頭に入っていることだから、改めて覚えるわけではない。でも、系統立てて説明してくれるから、「あ、そういうことだったのか」という納得が得られる。

勉強できる子は、授業で一度聞いただけで覚えてしまう、と言われる。私は少し違うように思う。遊びの中で、楽しんで学んできた中で、すでにそれを学んでしまっていたから、授業で聞いた時に「あ、あれのことね」と思い出し、整理して理解し直すだけの作業だからだと思う。

こう言っちゃなんだけど、小学校、中学校、高校で習う内容なんて、社会に出てから学ぶことになる内容・量と比べればたかが知れている。実は、学歴を持たないとされる人だって、現実社会の中で多くを学び、それをマスターしている。それと比べれば、学校の勉強の内容なんて、大したことない。

いわゆる「勉強のできる子」というのは、楽しんでいろんなことを学ぶうち、学校で習うような内容はすべて学習済みで、それ以外のことも興味のおもむくままに取り込んでしまうから、学校の勉強はその「ついで」にできてしまうのだろう。つまり、学校の学習内容はメインではない。ついででしかない。

しかし、勉強が苦手だったという記憶を持つ人は、「敵」を巨大に見てしまう。簡単には理解できないもの、起きている時間をすべて勉強に費やさなければできるようにならないもの、と、敵を大きく見過ぎて、緊張してしまっているように思う。

そりゃ、学校の勉強だけに取り組んだら、つまらなさすぎるし、分かりにくい。実は学校の学習内容は、家庭の中で多様な生活体験を積み重ねていることを前提で組み立てられている。もし遊びの経験が少なく、生活体験が乏しければ、学校で習っている内容は理解しづらくなる。

たとえば中学校では「燃焼」というのを習う。もし火おこしの体験がなければ、理解しづらい。火おこしで遊んでいると、火を起こすには燃料が必要で、空気が入らないと消えてしまうのだけど、かといってフーフー吹きすぎると冷えてしまって火が消える、というのを痛感している。そういう経験があると。

「燃焼には、熱と燃えるものと酸素が必要である」と習ったとき、「おー!非常に簡潔にまとめている!」と感動できる。実際の火おこしでは、木の組み方とか、種火をどう差し込むかとか、息の吹込み加減とか、複雑で大量の情報がある。それを削ぎ落し、最低限必要な情報だけをまとめたもの、それが教科書。

でもそうした遊びの体験がないと、削ぎに削ぎ落された教科書の文章を読んでも、無味乾燥。面白みも何にもない。つまらない。つまらないから丸暗記するしかなくなってしまう。しかも教科書で習った知識しか得られない。どんな木が燃えやすいとか、種火は下から入れなきゃ、とかいう情報もなし。

知識というのは、知の織物、「知織」だと考えている。様々な体験的知識がネットワークのようにあって、そのネットワークのつなぎ目に「燃焼」とか「酸素」などの名前を当てはめるだけ。もしネットワークなしにそれらの言葉を覚えようとしても、宙に浮いてしまって、つかみどころがない。記憶しづらい。

「あの時は火おこしに2時間もかかっちゃった」という鮮明な体験的記憶があると、教科書の内容を色つきで覚えることができる。「ああ、だからか!酸素が入らなかったからあの時火が消えてしまったんだな」という、体験ネットワークに教科書の内容をあてはめるだけだから、記憶が刻まれる。

小中高で習う内容、特に小中で習う内容は、生活体験の中で学んだ「体験ネットワーク」の結び目に名前をつけるためのものでしかない。もし体験が乏しすぎて体験ネットワークが形成されていないならば、教科書の内容を受け止めるネットワークがないのだから、理解困難。

だから、もっと遊んだほうがいい。そして学ぶことを楽しんだ方がいい。私は、マンガやテレビからも学べると考えている。息子はキュウレンジャーという戦隊ものが好きで、それで出てくる星座に関心があり、図鑑でそれを見つけた時、のめり込んで読んでいた。

お風呂に、逆さにした桶を沈めようとしたらかなり力がいるけれど、それはなぜなのか?蛇口から落ちる水の糸は、下の方になるとちぎれて水の粒になるのはなぜなのか?ケーキを5等分に切るにはどうしたらいいのか?いろんな不思議や疑問が、日常生活には大量に転がっている。

私は基本、子どもに教えず、一緒に「なんでだろう?」と不思議がっている。問いは立てるが、答えは言わない。実際、私も本当のところはわからないし。水の糸はなぜ握れないんだろう?ってこと、本気で考えると、大人でもわからないところがたくさんある。

日常生活の不思議に問いを立て、子どもと一緒に「なんでだろう?」と考えていると、子どもはそうした不思議、疑問にアンテナが立つ。そしてたまたまテレビを見ていた時、あるいは本や教科書を読んでいた時にそれの答えと思われるものを見つけると、「あ!そういうことだったのか!」となるだろう。

日常の中の不思議探しをする。そして不思議が見つかったら、「なんでだろう?」と問いを立てる。すると、その問いは、知的探求のエネルギーを生む。どこかで答えになるものを見つけたい、という動機が生まれる。もし見つかった時、「これだったのか!」という発見の喜びは巨大なものになる。

こうした学びの快感を知っている者は、子どもだろうが大人だろうが、学ぶことが楽しくて仕方ないものになる。ずっと何かしら不思議を探し、「なんでだろう?」と問いを立て、ヒントを見つけようとアンテナを立てるようになる。知的好奇心を常に抱いて生活することとになる。

もしそういう状態に子どもがなったら、子どもは放っておいても学ぶ。学校で習うことは、学ぶことの一部でしかなくなる。膨大な学習を日常で重ねて、学校はそれを整理整頓してくれる場所となる。学校の勉強は、ついでにできるようになるように思う。

東大京大の学生が「勉強しろと言われたことがない」のが大部分なのは、そのためだろう。日常の不思議を楽しみ、問いを立てることを楽しみ、アンテナを立てて楽しみ、ヒントを見つけては楽しみ。日常を学びで充満させるから、学校の勉強はついでにできてしまうのだろう。

学ぶことは本来、とても楽しいこと。テレビ番組でそれまで知らなかった知識を得た時、次の日、誰かに教えたくなった経験を、みなさんお持ちだと思う。知らなかったことを知ることは、とても楽しいこと。その楽しさを、取り戻したほうが人生楽しい。私はそう思う。

学ぶことを「ねばならない」「べきである」で染め上げるから、楽しくなくなる。勉(つと)めて強いる「勉強」になってしまう。それでは苦しむことになるから、やる気がなくなる。やる気がないから身につかない。覚えられない。悪循環の始まりとなる。

学校の学習内容なんか、「ついで」のつもりになったほうがよいように思う。それよりは、毎日をしっかり遊び、その中で不思議を探し、問いを立て、アンテナを立て、ヒントを探し、見つけるという「遊び」にしてしまったほうがよい。学びは遊び。遊びは学び。

息子は幼稚園に入る前だったか、「学」という字をみて「あそぶ」と読んだ。なんで?と聞くと、「まなぶことはたのしいから」と、クネクネ腕を動かし、踊りながら言ったのを思い出す。そう、学ぶことは楽しい。不思議を探究するという非常に面白い遊び。

「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さえこそ揺るがるれ」という歌がある。学ぶことも本来、こうした遊びの一種なのだと私は考えている。遊びの一種として学びを楽しめば、学校の勉強なんか「ついで」にできるようになるのでは。私はそう考えている。

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