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「キリスト教と戦争」を読んで

2022年1月、学部1年の時に書きました。教授に褒めてもらえたので載せちゃいます。


キリスト教と戦争
「愛と平和」を説きつつ戦う論理
石川明人 著

世界最大の宗教、キリスト教の信者は、なぜ「愛と平和」を祈りつつ「戦争」ができるのか? 殺人や暴力は禁止されているのではなかったか? 本書では、聖書の記述や、アウグスティヌス、ルターなど著名な神学者たちの言葉を紹介しながら、キリスト教徒がどのように武力行使を正当化するのかについて見ていく。平和を祈る宗教と戦争との奇妙な関係は、人間が普遍的に抱える痛切な矛盾を私たちに突きつけるであろう。

中央公論新書HPより

1. 赦し

「アーミッシュ」と呼ばれる保守的なプロテスタント宗派の例では、徹底的に相手を「赦す」ことの是非  が問われている。本文中には、大きく分けて3つの問いが記されている。①「赦し」の定義、②アーミッシュの行動の是非、③「赦し」の絶対的正当性の存否だ。

①「赦し」の定義

まず、①についてだが、ここには紹介されているアーミッシュの「赦し」の定義と私の考える「赦し」の間に違いを発見した。私が今まで考えていた「赦し」は、本文で言うところの「被害者の『改悛』」が必要なものだった。しかし、アーミッシュの言う「赦し」は「悪事を働いた者への憤りの気持ちを捨てること」であり、加害者側の態度によってその態度は変わらない。私は本文で紹介された指摘のように、このアーミッシュの「赦し」は市民生活を脅かす可能性があると感じた。人の心情を安易に推し量ることは決して良いことではないが、それでも加害者が「改悛」していないのにその行為を「赦し」てしまうことは、結果として加害者の「改悛」は不要であるという、誤った認識を与えてしまう可能性があると思う。  

②アーミッシュの行動の是非

②のアーミッシュの行動について、初めは全く理解できず、アーミッシュの人々は信仰に固執しているのではないかとさえ思ったが、彼らについて調べていくうちに考え方が変わった。まず、アーミッシュが文明の利器を用いないのも、相手を「赦す」のも、信仰に固執しているからではなく、宗教改革時の再洗礼派の流れを汲み、歴とした理由がある。さらに彼らは絶対平和主義者であり、自己犠牲を厭わない。そのような考え方を押し付けられているのではなく、コミュニティ内での教育がそういった人格を形成していくのだとわかった。であるから、私たちのような社会に住む人間が容易に想像できる者ではないとも思ったし、彼らの行動を今この社会で実践したからといって世界が平和になるとは考えられないと思った。このアーミッシュの考え方は、本書の第三章にも引用されている、「ローマの使徒への手紙」に通ずるものがあるだろう。  

③「赦し」の絶対的正当性の存否

③に関しては、1の「赦し」の定義がはっきりしていない以上、なんとも断言し難いとは思うが、「常に正しい」と絶対主義的に決めつけてしまうのは危険であると思う。もちろん一神教であるキリスト教は絶対主義的な側面がある。しかし、だからと言って安易にその線引きを行うべきではないと思う。「赦す」側と 「赦」される側の関係性、「赦」される対象となる行為、「赦す」ことによって社会に及ぶ影響などを勘案 し、慎重に判断すべきであるから、その正誤は逐一吟味されるべきだと考える。

2. 従軍チャプレン

戦争は「悪」だが、戦争に従事している者が必ずしも「悪」意を持っているとは限らない。この前提そのものは、頭では理解できても納得できない人もいるだろうと感じた。  殺戮のために祈る場面は、今まで映画や小説で何度も見たことがあったが、その行為に対して疑問を抱い たことは今まで一度もなかった。思い返せばその祈りの中には、「エノラ・ゲイ」出撃前の祈りのように、 蹂躙されるであろう相手方への配慮は全くなかった。しかし、祈りが必ずしも殺戮を否定するものであるとは限らないのも確かだ。さらに、ローマ・カトリック教会によれば従軍チャプレンは、戦争を肯定するものではなく、戦場に赴く兵士たちの精神面での補助を目的としている。従軍チャプレンの存在は、本書で扱うキリスト教と戦争の関係が、極めて複雑であることを示していると感じた。

3. ローマ・カトリック教会と正当防衛

ローマ・カトリック教会は正当防衛を肯定し、むしろそれを行わないことは怠慢であるとしている。「現代世界憲章」のなかで、国民の安全を守る行為は国家の義務とされており、軍事力の行使に必要な四条件が唱えられている。翻して言えば、この四条件が揃った時、戦力を行使することはローマ・カトリック教会からすれば「悪」ではないのである。ここから、キリスト教界において絶大な影響力を持つローマ・カトリッ ク教会が、先のアーミッシュのような「絶対平和主義者」ではないことが窺える。歴史的にも何度も十字軍 などの軍を率いてきたことから、この事実それ自体には驚かなかったが、正当防衛を奨めるようにもとれる文言が憲章内にあることは驚きだった。クラセヴィッツが「戦争論」で述べたように、戦争は「攻撃ではなくむしろ防御」によって起こると私は考える。それはもちろんクラセヴィッツが言うように、攻撃側と防御側の目的の違いにもあるが、そもそも相手が攻撃してくるのかどうかなど実際正確に判断できないし、防御と攻撃の境目は常に揺れ動くものだと思うからだ。  本書でも触れているように、今や戦争は国と国、民族と民族、宗教と宗教、国家と民衆に留まらない。「正当防衛」と言う概念は、確かに国家間の戦争では国民を守るために有効かもしれない。しかし、今日の世界情勢を鑑みるに、ローマ・カトリック教会だけでなく国際社会全体で、新しい戦争に対応した新たな考え方の枠組みを議論すべきであろう。

4. 宗教改革・戦争・プロテスタント

プロテスタントと言ってもその教派と信仰は多岐にわたる。本書では宗教改革前後に登場した改革者たちを多く紹介している。  ヤン・フスの火刑を機にはじまった反乱とそれに続くフス戦争は、民族運動としての側面も持つもので、 参加した者たちはこの戦いを聖なる戦いと信じていたため、士気が高かった。宗教改革の引き金ともなったマルティン・ルターは、彼の行動に触発されて反乱を起こした農民たちを「殺さなければならない」と激しく罵った。彼は戦争を「大きな不幸」を防ぐために甘受すべき「小さな不幸」としている。これに関しては、 私は自分の考えを決めることができなかった。思うに、このルターの考えが平和を目指す上で正しいのかどうかを判断することは、「トロッコ問題」同様の課題であり、功利主義の立場に立てば正しくとも、義務論 の立場に立てば正しくない。ただ、どちらを選択するにせよ、それによって生まれる不幸を認識し、仕方のないことだとして切り捨てないようにすることが必要だと考える。  本書では、フルドリヒ・ツヴィングリのように、自らを「キリスト教の兵士」や「祖国の守護者」と考えて、自ら剣を取る者もいるし、ジャン・カルヴァンのように明確に「正当な戦争」を認める者もいるとした 上で、ユグノー戦争をはじめとした宗教戦争と、近代軍事指導者の先駆けであるグスタフ・アドルフについて紹介し、プロテスタントとカトリックの間での戦争を説明している。これらの内容は私自身高校の世界史で習ったことだったが、「サン・バルテルミの虐殺」のような残忍な行為が思っていた以上に多く驚いた。  また、クロムウェルのように自ら軍隊を編成して戦い、信仰は軍事に必要不可欠とするプロテスタントもいることを、本書は述べている。そして、戦争や争いごとは良くないことであるとキリスト教の教えから学び、それを実践しようとしている人であっても、極限状態に置かれた際には争いや先頭に手を染めることに なるとも説明している。ボンヘッファーの例を読んで、私は今までの自分の意見は無責任で、戦争や戦闘行為の背景について、何も考えていなかったと実感した。私たちが徹底した平和主義を唱えることができるのは、今が人類史稀有な、戦争が少ない時代に生きていて、暴力に晒されることが滅多にないからだと思う。 今の日本は経済こそ停滞し、感染症の影響で職を失う人が増えているものの、明日命を急に奪われたり、 命を懸けて戦う必要はない。私は大学生で親に養われているから、ご飯に困ったり、住む場所を失わないし、自分が衣食住に困る立場に陥るとは思っていない。だから、平和を唱えられるのだと思った。もちろん、理由さえあれば戦争が肯定されるわけではないが、本書で筆者が言っているように、「純粋な平和主義」 を貫けないからと言って、キリスト教徒を非難すべきではないと感じた。このことに関しては、キリスト教徒に限った話ではないとも思った。

5. 旧約聖書

旧約聖書には、多くの戦いに関する記述が存在すると本書の筆者は説明する。私は聖書は信者がどうあるべきか、何を善とし何を悪とするかを規定したものだと考えていたが、その認識は大きく外れていた。日本 聖書協会の「聖書 聖書協会共同訳」によると、「聖書は、神と人間との歴史における出会いの物語」であ るという。主テクストにもあるように、聖書は66に及ぶ文書の総称で、それぞれ書かれた時代も違えば著者も違う。そして特に旧約聖書は、ユダヤ人と神の関係を記したものだから、ユダヤ人中心に話が進み、彼らの行動がどんなに残虐であっても、神の名の下に正当化されるのだろう。この構図は、物語の主人公が、敵対する人間を殺したり、成敗したとしても、私たちが違和感を覚えないことに似ていると感じた。  本書で取り上げられている記述は極めて残虐で、平和な21世紀の日本を生きる私たちが目を背けたくなるようなものだった。具体的な歴史を伝える書にそう言った描写が多いのに対して、歌・詩・金言を綴った「詩 篇」「箴言」「雅歌」には平和的な記述が多い。聖書のどこを取り上げるかによって、どう解釈するかによっ て、全く正反対の主張が存在する。なぜルターが聖書のドイツ語訳を急いだのか、どうしてカトリック的な 教会制度を批判したのかが少し理解できたような気がした。実際に聖書に触れることができなければ、全てを読むことができなければ、偏った理解が広まってしまうと彼は考えたのかもしれないと思った。

6. 新約聖書

以前遠藤周作の「沈黙」を読んだ際、自分や自分を頼る信者たちがどんなに辛い目にあっても、信仰を曲 げようとせず、反撃しなかった主人公の宣教師の行動に驚いた。彼は結局絵踏を行うのだが、イエスはそれ さえも許してくれるとして、その信仰を捨てなかった。彼のこの姿勢は、きっと暴力に否定的な新約聖書の 教えから生まれたのだろう。一方で、本書に記載があるように、イエスは軍人という人種を忌み嫌ったり、 蔑んだりは決してしなかった。軍人はきっと暴力を行うこともあるはずなのに、彼は軍人を受け入れたし、 軍人も彼や彼の弟子を慕っていた。内村鑑三の軍人への接し方の手本は、ここにあったのではないかと思っ た。孔子の「古之聴訟者悪其意不悪其人」、「罪を憎んで人を憎まず」に通じるものを感じた。  一見戦いを推奨するようにもとれる言葉が、一種の修辞法であったり、単純な愛の言葉を自己犠牲と捉え て戦場へ赴いたりと、同じ言葉から多様な解釈が可能だという筆者の説明には非常に感銘を受けたし、聖書 が長年研究され続けている理由を垣間見ることができた。  サマリア人の話は幼稚園にいた頃、よく先生がしてくれていたが、襲われた人を生んだ強盗に対し、どう いった態度をとるべきなのかという疑問は、当時の私には浮かばなかった。この文章は「困っている人を助 ける」ことが善行であると説明しているようにしか思えなかった。本書での「もし強盗にサマリア人が相対 したら」という仮定は興味深いが、「もし地べたに伏している人が、自己防衛のために強盗の一人を刺し殺 していたとしたら」、「もし強盗が両親を殺されて、生計を立てるために盗みを働いているものたちだった ら」と、仮定の話をしていたら切りがないと思う。しかし、そういった仮定を通じて、さまざまな議論を展 開し、キリスト教的な考え方への理解を深めることはできると思った。本書で著者が言っているように、意 見は様々あるし、これはあくまで一つの例に過ぎないのだから、答えを一つに決める必要はないだろう。

7. 兵役を拒否したキリスト教徒

キリスト教が国教となる以前のローマ帝国において、多くのキリスト教徒が皇帝崇拝を拒否し、粛清の対
象となったことは高校の世界史の授業で学んだが、その際に軍役も絡んでくることは知らなかった。ネロ帝
によるキリスト教徒の虐殺をはじめ、長年迫害されてなお地下で信者を増やしていったキリスト教が、今度
は体制側に組み込まれていくことを、初期のキリスト教信者たちが知ったらどう思うのだろうか。その絶対
的な権威の中で、多くの思想家、宗教家たちが戦争を正当化する条件を考えてきた。この条件は色々な人が知恵を絞って辿り着いたものであるから、一見納得してしまう。しかし、戦争兵器の飛躍的な進化によっ て、指の動き一つで大量の人を殺めることができたり、地球を粉々にできるような兵器が存在するように なった今、本当に戦争は条件が揃えば引き起こしていいのか、私たちは何を予防策として講じるべきかとい う問いに対する答えが求められていると私は考える。「マタイによる福音書」にあるように、「自分の敵を 愛し、迫害する者のために祈」ること、そして対話し続けることが、何よりも必要だと感じた。

8. 修道士と戦士

中世キリスト教社会において、祈る者と戦う者は敵対関係にはなかったと、本書では説明している。修道 士のような聖職者が、実際に戦う軍人よりも自らを上位に置いていたことに関しては、私は違和感を覚え た。確かに祈ることは大切であるし、戦いに身を置くことは誉められたことではないかもしれない。しか し、自分の身を犠牲にしてその他大勢の民を守ろうとしている人間を下位に置くのは納得できなかった。以 前何処かで見た自衛隊員の言葉を思い出した。広島の平和集会で、「自衛隊をなくすべき」と言われた自衛 隊員が、「そういう人も含めて守るのが仕事」と答えたというエピソードだ。本書で語られていた修道士と 兵士の関係は、決して敵対関係にあったわけではない。当時の人々がどう認識していたか定かではないが、 むしろ一種の仲間意識もあったように思う。しかし、この自衛隊員のように、平和に逆らうと批判されて も、仲間の命と生活を守る人がいるということを再認し、それに対して感謝の念を抱くべきだと感じた。  ジャンヌ・ダルクの伝記を小学生の頃に読んだことがある。子供向けの学習漫画で、主人公はもちろん ジャンヌ・ダルク。フランスは平和な国で、それを侵略するイギリス、そしてイギリスに嫌々ながら従う占 領されたフランスの人々。そのような描かれ方がされていた。漫画を読んだ私はジャンヌたちが兵士を殺し ていることに何も思わなかったのに、イギリス軍がジャンヌを捕らえただけで嫌悪した。この主観的な読み 方も今思えば歴史を知る上で不適切だったが、本書でも言うように、神の名の下にキリスト教徒が軍を先導 し、戦うことに何も疑問を持たなかったし、彼女が死後聖女として認められても、違和感を感じなかった。 「悪については徹底的に殲滅する」という本書のキリスト教の認識は、「悪」が何かをこちら側を正義と決 めてから定義しているから、主観的で、実は自分達が「悪」かもしれないと言う認識を欠いていると思う。

9. アメリカ大統領

本書では、歴代大統領がそれぞれキリスト教とどう向き合っていたのか、さらに彼らが軍事行動に対して どう言った考えを持っていたのかを列挙し、アメリカでの宗教の影響を語っている。確かにトランプ政権や バイデン政権が発足した時、候補者の対比に宗教が使われていた。日本の議員選挙や地方自治体の知事選挙 では、宗教について言及されることはあまりない。彼らが宣誓式で聖書に手を置くのに、軍の最高司令官と して軍隊を派遣することに矛盾を感じていたが、ここまでの本書の内容も含めて、信仰と戦争は共存できな いわけではないと感じた。
10. 日本におけるキリスト教の役割
本書で少し触れられていた、キリスト教が日本社会の福祉に大きく貢献したことに着目すると、キリスト 教はやはり平和と友愛を説く宗教なのだと実感する。ドイツのシュヴァイツァーも教えに則って、遠いアメ リカで人道的な活動をおこなったし、最近亡くなった村上哲さんも、キリスト教徒だった。女性に教育を施 そうという発想は、キリスト教が流入せずに、儒教的な考えの中で社会が進めばここまで拡がらなかったか もしれないと思った。そして、同時にキリスト教が日本の近代化において、軍事力の強化に役立てられてい たという事実は、本書で何度も触れられている、キリスト教の二面性を端的に表していると感じた。
第二次世界大戦中に、日本基督教団がたくさんの「献納」をおこなったことは事実であるが、従軍チャプ レンのような制度が整っていない日本において、多くの兵士に教えを説いたこともまた事実である。本書で も紹介されている「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」は、50年以上も前の文章で あるにもかかわらず、日本基督教団ホームページのトップに大きく載っている。その声明の中に、日本基督 教団には「見張り」の役目があったという記述がある。彼らの声明には、ミャンマー情勢や新型コロナウイ ルスによる社会不安など、その年毎に多くの時事問題に関する事柄があり、平和な社会を「祈り求め」るこ とが、逐一宣言されていた。もし政権や世論が平和な世界とはかけ離れた行動をとるようになった時、彼ら の「声」と「見張り」が正しく機能することを願いたいと思った。

11. 宗教戦争

高校の世界史の先生が、「宗教が戦争を引き起こすのではなく、戦争を正当化するために宗教が使われる」と言っていたことを思い出した。戦争が起こる原因は様々だが、自分達を正当化するのに宗教は有用だし、本書でも再三述べられていたように、軍の統率を取るのに信仰は非常に便利なものだ。実際はそうでなくても、信仰心を動機に戦争を始めれば正当性を主張できるし、戦争に宗教が使われることは多いように思う。数ある戦争を一括りにして、「宗教戦争」と名づけたり、「〇〇教と〇〇教の戦争」と決めてかかるの は乱暴だと思った。

12. 愛

「愛」がそこにあるのかどうかなど誰にも分からない、という筆者の意見は的を得ていると思った。日本 国語大辞典によると、「愛」は「親子、兄弟などが互いにかわいがり、いつくしみあう心。いつくしみ。いとおしみ。」であり、キリスト教においては、「神が人類のすべてを無限にいつくしむこと。また、神の持っ ているような私情を離れた無限の慈悲。」であるという。そして、「アガペー」とは「新約聖書における神の人間に対する愛。また、人間の、神や隣人に対する無私なる愛。神が、罪人である人間のために与える自己犠牲的な愛で、イエス=キリストの受苦と死とにおいて実現する。」のことである。無私なる愛を実現することが、私中心で生きている人間にできるとは思えない。キリスト教の「愛」「アガペー」は、私たちが一般に考える「愛」とまた違う。私たちは神ではないのだから、求められてそれを実現することは困難なように思う。しかし、イエスが提示した「愛」を実現しようと努力することは決して無意味ではないだろう。

13. 参照文献

  1. 主テクスト 「キリスト教と戦争 「愛と平和」を説きつつ戦う論理」 石川明人 中公新書

  2. アーミッシュ・ウエイ・オブ・ライフ ―アーミッシュのルーツおよび学校襲撃事件検証― 野呂 浩

  3. 「聖書 聖書協会共同訳」 日本聖書協会

  4. 「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」 日本基督教団ホームページ

  5. 小学館 精選版 日本国語大辞典


コメント

1年前のわたし、書くの下手くそだなぁ〜。。。がまず読み直してみての感想。教養科目とはいえこのレポートはあかんでしょう。涙しか出てこない。

逆に、1年で文章力が上がったと考えよう。今でも思う通りに物を書けるわけではないけど、少しずつ「まし」になっていることは確かかな。だといいな。

ちゃんとnoteで読書感想文を書き溜めようと思います。

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