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「日本の美意識」について、ずっと考えている

「日本の美意識」という言葉が、頭の片隅にこびりついて離れなくなった。

きっかけは、去年の9月、一人旅の途中で原研哉さんの『日本のデザイン』を読んだことだ。本に登場する「エンプティ」という言葉に導かれるようにして、京都へ足を運んだ。「シンプル」ではなく「エンプティ」。それは、日本文化に通底する美意識を説明するのに、ぴったりな単語の一つのように思えた。

秋晴れの嵐山で、福田美術館に出会った。緊張感すら覚える静謐な空間に、丁寧に飾られた日本画の数々。その静けさと美しさは、西洋絵画にしか関心を向けていなかった私の心をかっさらっていった。

9月の出会いは、私を構成する大きな価値観の一つである「無常観」とかっちり噛み合った。高校の古典の時間にこの言葉を聞いて以来、私はずっと「無常観」に脅かされてきた。喪失の気配を背中に感じて、いつも苦しかった。いつも生き急いでいた。けれど、ようやく、「無常観」が備える美しさに指先で触れられたような気がした。そんな秋だった。

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いとをかし。侘び寂び。枯山水。私が知る日本の文化、価値観は、山川日本史を丸暗記したレベルで止まっている。断片的で、意味や物語にまで落ちていない。

それからは、本を読んだ。岡倉天心、谷崎潤一郎、中江兆民、イザベラ・バード、半藤一利。日本画を見た。日本の伝統工芸品を見た。信じられないぐらい、日本のことを知らなかった。この小さな島国で、目に映るもののほんのひと欠片しか見ていなかった。私がずっと見ていたのは、真っ暗な寝室でぺかぺかと光るスマホの画面。

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「日本の美意識」と簡単に言ってはみたものの、それはもちろん、何か一つを示すような単純なものではない。様々な価値観が存在し、それらは時代によっても変遷する。「日本の」と言い切ることも難しい。もしかすると「人類の」かも知れず、固有性を明らかにするには国外の価値観との比較が必要になる。また、外来の価値観が日本に根付いて少し形を変えた時に、それを日本固有の価値観と言い切ってしまっていいのか、という問題もある。

まあ、研究者ではないので、今のところ「日本の美意識」論を突き詰めて分析していくつもりはない。やりたいのは、「これは、日本の美意識だろう」と主観的に感じる価値観のうち、最も自分の心が動くものを見つけて、丁寧に言語化すること。そして、古代から現代までの価値観の発露(それは、たとえば伝統芸能、文芸、絵画、映像作品などの形を取る)をそこに紐付けて、広く伝えていくこと。

そんな試みによっていつか、世界における日本文化のプレゼンス向上にわずかでも貢献できたらいいな、という大それた考えが頭をよぎったりする。まだ霞のような夢。

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では、最も自分の心が動く「日本の美意識」はなんだろう、と考えてみたが、概念が喉元まで出かかっているのにうまく表現できず、滑り出しをChatGPTくんに手伝ってもらうことにした。

まず、「日本の美意識は、どのようなものでしょうか?」という、身も蓋もない質問を投げてみる。

「哀」! これですよ! と小躍り。あっけなく小骨が取れた感覚。

最近、なんだか日本らしくて好きだなと思ったのは、綾野剛さんと星野源さん主演のドラマ『MIU404』だ。特に2話がよかった。ご都合主義とは対極にあるような、どうしようもない哀しさに包まれる回。『アンナチュラル』にも同じ哀しさを感じた。どちらも、野木亜紀子さんの脚本がいい。米津玄師さんの曲も、哀しさに拍車をかける。

主観ではあるが、「悲」からは慟哭を思わせる激しさが感じられて、「哀」には静けさがある。

「哀」で他に思い浮かべるのは、映画『ジョゼと虎と魚たち』。10年経ってもなお記憶に残るラストシーンは、「エンプティ」という言葉をも連想させる。かなり昔の作品だが、『呪怨』も「哀」の字が似合う映画だった。ホラーなのに、鑑賞後の印象は「怖かった」よりも「哀しかった」で、そのことに新鮮な驚きがあったことを覚えている。

洋画では『ブルーバレンタイン』や『クラッシュ』が好きだが、これらは劇中の激しさが印象に残っている。「悲しい」「切ない」はしっくりくるものの、「哀しい」と表現するのはなんだか違うように思える。

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無常の世で、リアルを描こうとすると哀しさから逃れられない。終わりへの覚悟、諦観があるからこそ、「悲」ではなく「哀」。じたばたせず、ただ静かに受け入れる。

線香花火の輝きも、火玉がぽとんと落ちた後の暗闇も、等しく美しい。どこかで鈴虫が鳴いている。また、夏が終わる。

そんな日本の美しさに、心が奪われてしまったのだ。

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