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弟たちには会いたくない

私には3人の弟がいる。
まず弟を年齢の近い順から弟1,弟2,弟3とする。
けど,大人になった今,もうどの弟にも会っていない。私の人生を,この弟たちから切り離さなくては,私の人生を生きることができないということに気がついたためだ。私は私の人生を生きるトライアルをはじめたので,この人たちとはコンタクトをとらないことにした。

しかし私の心は勝手にさまよう(マインド・ワンダリングだ)。自動思考でこの弟たちのことを考えるという癖は消えていない。餅が焼けるのを待つ間。エレベーターを待つ間。何かを力説する同僚の顔を見ながら。
ずいぶんこの人たちのことを考える時間は減ったし,考えるときに悲しみや罪悪感を感じる強度も減ったが,それでも,存在している。気になっている。

重いテーマに見える,こんなの軽く書ける人いるのか?なんせ,私は繋がりたくないのだ。つらいことでも,その奧に隠れたテーマ「繋がり」さえあれば,エッセイもドラマもよいものになる。しかし私は繋がりたくないのだから,このことについて書いても,そこに救いのようなものは見いだされないだろう。

絶望的だ。でもいい,ひとまず外に出すために書いてみる。

手始めに,
以下はフィクションだ。と言ってみる。その方が書きやすい気がするから。

弟1との年齢差は3歳,この子とはよく話したがよくけんかもした。すごく自分勝手で強迫神経症ぎみで引きこもりだったが二人でごっこ遊びをしているときは,基本私の作る世界観についてきてくれる点と,それでいて私にない面白い着眼点を持ち込んでくれる点で楽しかった。この弟はあとで考えると,知的障害のないタイプの自閉スペクトラム症(いわゆる"アスペルガー症候群"で知られるような症状)だった。20歳前後まで自分の引きこもり生活に母親を巻き込み,暴力も介在する共依存関係となった二人を引き離すことが大変だった。

弟2との年齢差は6歳,この子は音楽が好きで絵も上手かった。気むずかしいところがなく,世界を観察して絵にしたり言葉にしたりすることを楽しんでいるようなところがあった。他方,おそらく聴覚が過敏で,豊かな想像力と連動してか,恐がりなところがあった。彼が子どもの頃,姉と共謀して(ひとりが事前に押し入れの中に入って)家の中にお化けがいるという設定で怖がらせるいたずらをしたことがある。何回かに分けて,けっこうしつこく信じ込ませようとした(大人になった現在,私はこのように,人の弱い所をからかうような冗談が嫌いだ,勝手なものだが,後悔している)。この弟は青年期に統合失調症を発症し,寛解して作業所での就労と再入院を繰り返している。

弟3との年齢差は9歳,この子は人なつっこくその場の雰囲気を和らげるような愛嬌があった。今思えば最後に産まれてきて,とくに弟1と母との共依存を入れ子のように抱えるようになってしまった我が家の暗雲から気を逸らせるためにか,そのような役割を担ってくれていたということなのかもしれない。2歳のときにひとりで家から出ておじいちゃんの家に行こうとして警察に保護されたエピソードが象徴的なのだが,この子は後で考えるとADHDの要素が強めの神経発達症圏にいる子だった。小学校に上がってからもそのフラグはいくつも立っていた。たとえば靴下を履くことがきらい,運動会の練習で一緒に踊りを踊ることがきらい,多くの文字を鏡文字で書いていた,特定の漫画を偏愛してそのキャラクターの特徴を暗記するのが好きだった,などなど,些細なことだけど,いま考えると「定型発達ではない」という特性が指摘できる特徴が山ほどあった。彼はユーモアがあり,気遣いがあり,仲間として愛される存在だった。この弟は中学頃から多分相当困っていたと思うが,我が家は弟1と母の共依存問題と,父親の会社の倒産劇(負債48億)などが派手すぎて,弟3の困り感が拾えず,適切なサポートができなかった。特性を全く理解しないまま,向いていない就労にトライしたがうまくいかず,思考内容の障害:優格観念という名がつく症状が出た。この病名は後付けで,出来事(20代の終わりに母親を殺した)のあとに精神科医が鑑定したものである。

私は弟1のことは,どちらかというとあまり好きではない。子どもの頃からけっこう(私にとって)いやなやつだったし,大人になる前後では暴力的で怖い思いもしたからだ。

弟2のことは,好きだったがもう会わない。統合失調症の薬を自分でやめてしまって,何かしらのトラブルが起きて,警察も巻き込んで入院という捕物帖のような劇が何回も繰り返されてから気がついた。自分がいない方が,この人は自立に近づける,そしてそれは私も同じなんだと。私は自分の人生に集中しなくてはならない。

弟3のことも,好きだったがもう会わない。神経発達症の二次障害ということば,パーソナリティ障害ということば,複雑性PTSDということば。何が起きたのか,どうすれば助けられたのか,なぜあんな良い子が?なぜあんな良い人が?いや,良い子って何なんだろう,健康とは,幸せとはなんなんだろう。

なにがどうであっても,答えがあってもなくても,今になって私はもう,どの弟も直接助けることはできない。

私は誰のことも助けることはできない。これは私の人生の教訓だ。自分のために,気が向いたことだけ,そのときできることをやるだけ。やれることをやったことが大事。結果を求めるな。

私は自分が体験したことの中から,自分の問いをみつけて,その問いのこたえを探すことを自分の人生の一つの目的にする。いや,目的というより,ただそうしたいだけ,だから目的ではなくて,ただの欲望かもしれない。

私は自分の問いを,他の誰からも切り離す。
切り離して考えたいことを考える。誰の人生にも関与しない。関与させない。私の心の中には自分の記憶の弟たちが居るが,現在生きている弟たちには,このさきももう二度と会わない。

会っている間,私は私なりにできることをやった。
自分の人生に集中することが,社会全体を健康に近づける道だと信じて,自分はそのように生きる。


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