正直オフィス・アワー



あらすじ


 私立聖稜大学法科大学院で教鞭をとる桐生光一(きりゅうこういち)。彼は「正直な」オフィス・アワーをすることで有名な講師であり、司法試験を控えた法科大学院生達はあるときは徹底的に打ちのめされ、あるときは飛躍的に成績が向上する契機となったりと多種多様な逸話を生み出し続けていた。本日はどのようなオフィス・アワーが繰り広げられるのであろうか。

第1話


 「何ですか、このミミズがのたうち回ってるような字は。こんな汚い字でよくもまぁ論文試験に挑もうとしていますね。全裸で戦地に赴くようなものですよこれは」

 自分の答案を内容以前の段階でここまでボロクソに言われるとは予想さえしていなかった。そもそも自分の字について悪く言われるとはこれまでの学生人生でも指摘されたこともなかったし、親からも指摘されたことはない。自分が法科大学院の未修生だと言うことを差し引いても流石に言い過ぎではないだろうか。聖稜大学法科大学院の未修課程に進学したことを杉浦速人は早くも後悔しかけた。

「先生。いくら何でも流石に言い過ぎじゃないですか。アカハラとか言われても文句言えませんよそれ」

 杉浦の答案に対して毒を吐いた教員に対してTA(ティーチング・アシスタント)の浅野秀一郎はフォローを入れる。

「いやいや浅野君。君も見てみなさいよこの答案の字。勿論、これが大学院の定期考査の答案だとすれば私ももう少し温情を加えた採点をしようと試みますけどね、これが司法試験の答案だと仮定して読んでごらんなさいな。素直に採点したいと思います貴方?」

 そう言われて件の答案用紙を浅野は実際にのぞき込んでみる。

「うへぇ。確かにこりゃひでぇや。新聞記事を切り抜いて作った脅迫文書とかの方がまだいくらか読める気がする」

 先程自分に救いの手を差し伸べてくれたと思った天使は一瞬で悪魔に変貌した。背後から急にナイフを突き刺されたような気分だ。先程アカハラになり得るとか言っていた自分の発言をもう忘れたのか?何なら当初の教員の毒舌よりひどい気がする。お前達は一体どこから目線で俺に偉そうに物を言ってるんだ?段々と一方的に自分の答案を虚仮にされて杉浦はイライラとしていた。

「…さて、そろそろ一方的にボロクソに答案をけなされてイライラしているでしょうから、具体的にこの答案がどうよろしくないか、猿でもわかるように徹底的に添削していきましょうか」

 こちらの思考を読んでいるのだろうか。一瞬、杉浦はそう思った。ピンポイントで自分の不満を指摘されたものだからかえって冷静になってしまった。こうして、本日一回目の聖稜大学法科大学院の桐生光一特任教授によるオフィス・アワーが始まるのであった。

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 首都圏に校舎を構える私立聖稜大学。司法試験制度改革に伴う法科大学院制度導入に際してこの聖稜大学も法科大学院を設立してもう15年以上が経過している。聖稜大学法科大学院修了生が占める司法試験合格率というのは決して上位の法科大学院として位置づけられるわけではないが、それでも中堅法科大学院としての地位は揺らがずに存在し続けていた。

 そんな中堅法科大学院で民事法の教鞭をとっているのが桐生光一という男である。彼は聖稜大学法科大学院の一期生であり、ストレートで司法試験に合格し弁護士資格を得た。10年以上弁護士としてのキャリアを積み上げていく中、聖稜大学から「ウチの法科大学院の教員をやってもらえないか」というオファーが来てこれを承諾した。桐生は既に独立した弁護士事務所を携えていたが、現在では事務所経営はパートナー弁護士にほとんど委ねて法科大学院での教鞭を中心に生計を立てている。

 桐生光一は良くも悪くも聖稜法科大学院における有名教員の一人であった。その理由の一端は、彼が法科大学院で受け持っている授業の一回目の講義で明らかにされている。彼の一回目の講義では毎年このようなことを述べている。

「この法科大学院で教鞭をとる以上、勿論一定の品質の講義を提供することは保障します。少なくともそうなるように日々心がけているつもりです。ですが、現実問題として司法試験という実戦に備えた訓練としては圧倒的に講義だけでは時間が足りません。私の講義では少しでも司法試験の実践に役立つ知識を一つでも皆さんに提供するために一方的に私が喋るだけの講義になります。法科大学院側は『ソクラテスメソッドを導入しろ』などとやかましいことをほざいてきますが、中途半端な法律知識しか無い皆さん相手にそんなことをしては講義時間が2万年あっても全く足りませんし、シャイな皆さんもゼミでもない講義で教員に当てられて答えたくはないでしょう。そういうお互いの利益のために一方的な形式での講義になることをご容赦下さい。ただ、一方的な教員の講釈という形式の講義ではどうしても受講生の皆様の学びの姿勢として受動的な姿勢にならざるを得ないというデメリットが発生してしまいます。何事も受け身というのはよろしくはないのですが、司法試験を控えている皆さんは受け身で学ぶというのは致命傷にもなりかねません。積極的な学びの姿勢というものを皆さんには持って欲しいわけです。勿論、各講義の終了後に質問はいつでも受け付けていますが、皆さんには是非私のオフィス・アワーを活用していただきたいのです。私の講義では民事法を中心に取り扱うので民事法の質問がメインになると思いますが、オフィス・アワーにおいては司法試験の受験科目に限って他の科目の質問でも受け付けますよ。オフィス・アワーという名目上、事前の予約というものは必要ありませんが、予めメールで質問内容などを詳細に送っていただければその分丁寧なオフィス・アワーになることを約束いたします。念のため断っておきますが、司法試験に関する質問は司法試験の合格に必要な知識に絞って解説させていただきます。私から学術的な知見は得られませんのであしからず。そもそも学術的な方向の知見が欲しいというのであれば法科大学院に進学すること自体が間違っていると個人的には思うので、進路の変更も検討した方が良いのではないかと付け加えておきますね。そうした進路相談もオフィス・アワーでは受け付けてますので遠慮無く来て下さい。積極的に自分の疑問や弱点と向き合う度胸もない者が司法試験に挑もうというのもちゃんちゃらおかしいと思っているのですが、皆さんは臆することなく是非私のオフィス・アワーを積極的に活用して、司法試験の合格に役立てて下さい。あ、言い忘れてましたが、勿論予備試験の答案添削や予備試験の口述対策をして欲しいという声にも対応しますよ。予備試験ルートで司法試験に合格できるのならそれに越したことはないですから。まさか、『予備試験に合格しなくても法科大学院を修了すれば司法試験の受験資格が得られるから予備試験の勉強なんてしなくていいや。ていうかそもそも法科大学院の課題で忙しいのに予備試験の勉強なんてできるか』なんて腑抜けたことを言う法科大学院生なんて、まさかいないですよね」

 と、こうした「脅し」ともとれそうなイントロ講義を受けて、必要以上に萎縮した法科大学院生達は当初はなかなか桐生のオフィス・アワーに足を運ぶことはしなかった。こうした「消極的な」姿勢に桐生は露骨に怒りをあらわにしたり不機嫌になることこそなかったものの、講義中に静かに苦言を呈していた。聖稜大学法科大学院生達は桐生の講義を比較的真面目にこなしはするものの、なかなかオフィス・アワーにまで足を運ぶものは現れなかった。

 しかし、このままでは何年たっても司法試験に合格できないと少なからず自分の実力を理解しはじめた聖稜大学法科大学院生や同修了生達は、意を決して桐生のオフィス・アワーに足を踏み入れるようになるのであった。桐生のオフィス・アワーはそこから徐々に利用者が増え始めた。他の法科大学院の教員は決して口にしないようなコメントを残していくので、オフィス・アワー終了後に泣き出す者さえいたという噂まで出てきた。一方で、不思議とアルハラ、いわゆる「アカデミック・ハラスメント」と言われ糾弾されるということはなかった。仮にも弁護士資格を有している教員相手には学生がどう言っても丸め込まれるという諦めの姿勢があったのかもしれないが、どうやらそういうわけではないようであった。それどころか、まるで熱心な信者のように桐生のオフィス・アワーに足を運ぶ者さえ現れたという。中には司法試験合格後も熱心に桐生のオフィス・アワーに足を運ぶ者さえ現れたという噂まで発生し始めた。

 ちなみに、予備試験とは2011年から新たに導入された法科大学院修了とは別に司法試験の受験資格を得られる国家試験である。現在の司法試験制度においては、法科大学院を修了するか、司法試験予備試験に合格することが司法試験の受験資格とされている。元々は経済的に法科大学院に進学することが困難な者が司法試験の受験資格を得ることを目的に設立された予備試験であるが、現実には予備試験ルートから司法試験に合格することが理想とされ、予備試験に合格する実力のない者が仕方なく司法試験受験資格を得るために金と時間を捨てて進学するのが法科大学院という逆転現象が起き始めている。

 そんな現実を知ってか知らずか、杉浦速人は聖稜大学法科大学院の未修課程に進学した。法科大学院は、大学の法学部等で法律を学習した者を念頭に置いた2年間で修了できる既修コースと法律未学習者を想定した3年間で修了する未修コースに分かれる。未修コースには法律を学習したことのある者も少なからず存在するのだが、杉浦は大学時代の学部は経済学部であり法律系の予備校にも通ったことのない純粋未修者であった。そんな杉浦が法科大学院に進学を決めた理由は、大学の3年生の時に見た法律ドラマに登場した弁護士の姿に憧れてという、一時期の法学部や法科大学院でも見られたありふれた理由であった。大学の4年時点に独学で法律を勉強したが、どうにも結果は出ず聖稜大学法科大学院の既修コースは不合格となり、小論文でなんとか聖稜大学法科大学院の未修コースに合格した。

 こうして杉浦の法科大学院生活がスタートするのだが、1年目で既に挫折しかけていた。純粋な法律未修者が1年で既修者に追いつくというのがそもそも土台無理な話なのだ。法学部生でも少なくとも2,3年は法律を学んで卒業するのが一般的であるのにそれを1年で同じレベルに追いつこうというのがどれだけ困難なことか予想するのは容易である。司法試験の試験科目と同様に法科大学院では基本的な法律科目として基本六法の憲法、民法、刑法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法に加えて行政法という7科目を学ぶことが要求される。科目数だけでも少なくない量であるが、その一つ一つの学ぶ内容も量と質は一級品である。この試験科目という単純な壁の高さに杉浦は挫折しかけた。

 それでもギリギリ単位は取りきり、なんとか最初の1年はやり過ごすことはできた。しかし、2年目になってから雲行きは怪しくなってきた。既修者コース1年目と未修者コースの2年目は合流して法科大学院の講義は進んでいくが、法律知識があることを当然の前提として進んでいく法科大学院の授業に段々ついて行けなくなってきた。最終的には司法試験の合格を目指しているのだからと試しに司法試験の過去問を解いてみたが、1年経ってもさっぱり分からなかった。まず問題文の量が長い。次に設問を読んでも何をどう書いて良いのかさっぱり分からない。問題を解くのに必要な知識は1年間の他大学院の講義で与えられたはずだが、その知識をどう組み立てれば良いのかさっぱり分からないのである。分からない問題を2時間黙って時間が経過するのを待つのはあまりに長く苦痛だが、仮に何を書けば良いのか分かるようになると今度は時間が足りなくなるというのが本能的に理解できた。

 こういうときは司法試験予備校の講義を受講しようという発想は杉浦にも当然選択肢の一つとして頭の中にあったが、一番安い予備校の講座でも数十万円、場合によっては平気で百万円を超える講座もあることが杉浦には引っかかっていた。「これだけ金をかけても不合格になるかもしれないということを考えるともったいない気がする。独学でも司法試験に合格している人もいるようだし、とりあえず法科大学院在学中は法科大学院の講義に集中して、法科大学院を修了してから何年か浪人すれば独学でも自分も合格できるだろう」と根拠のない自信を杉浦は当初抱いていた。

 しかし、法科大学院の先輩から件の桐生のオフィス・アワーの存在を聞いており、試しにそのオフィス・アワーに赴くことにしたのである。手ぶらでオフィス・アワーにいくのも忍びないと思ったので、予め司法試験の過去問を解いた答案を添削してもらおうと答案を作成することにした。自力で答案作成することは不可能であることは分かりきっていたので、法科大学院の図書館に置いてあった司法試験予備校が刊行している司法試験の過去問に掲載されていた優秀答案をそのまま模写して答案を作成して桐生のオフィス・アワーに臨んだ。

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 そうして、冒頭の場面に至るわけである。

「さて、何故答案用紙の文字が汚いという所から指摘したのかというと、論文試験という手書きで答案を作成する必要のある試験において答案の第一印象が全てを決めると言っても過言ではないからです。答案の第一印象が良ければ答案の途中の部分で多少おかしなところがあってもいくらか採点が甘めになっても不思議ではありません。逆に言えば、答案の第一印象がよろしくないと途中から答案の内容自体に不備はなくとも『たまたま上手く書けただけでは?』だの『何か内容に不備があるに違いない』だのといった余計な猜疑心を採点者に与えてしまいます。こうした答案の第一印象を決めるにあたって、字の綺麗・汚いは大きな影響を与えるのです。」

 答案の字の綺麗さ・汚さが採点に影響を与えるなんて聞いたこともないぞ、と杉浦は思った。そもそも、自分の字が汚い方に分類されると言われることも杉浦には心外であった。

「自分の字が汚い方に分類されて、不満げといった様子ですね。確かに、文章を作成する際はパソコンかスマホで片付いてしまう昨今において、自分の字の巧拙を客観視する機会はそう無いでしょうし、わざわざ自分の字が汚いと言われる機会も無いでしょう。よろしい。百聞は一見に如かず。ということで、これから現実に字の綺麗な答案がどういうものか見せてあげましょうかね」

 またもや自分の内面を見透かされたような気がして杉浦はドキッとしてしまった。そんな杉浦のことを知ってか知らずかお構いなしに、桐生はオフィス・アワーを実施している自身の研究室の棚の中からいくつか答案用紙のコピーを杉浦の前に差し出した。

「まずこちらが優秀答案とされる答案です。勿論、本番の司法試験と同様に制限時間2時間を厳守して手書きで作成してもらいました。世の中には同じ2時間という厳しい制限時間の中でこれだけ字が丁寧かつ内容も優秀な答案を作成出来る人間がいるのですよ。そして、そういう答案を作成出来る人間から優先的に司法試験委員は合格させたいと思うものなのです。もう最初の文字が一目入っただけで少なくとも読むことにストレスは感じないでしょう?」

 他人の答案など見たこともなかった杉浦には衝撃的だった。確かに、自分の字とは比較にならないほどの綺麗な字で書かれた答案用紙がそこにはあった。もう字の綺麗さから頭の良さがにじみ出ているといった印象を受けた。現在の自分にはこの答案の内容の正確性について論じられるだけの知識はまだ身についていないが、それでも内容に間違いはないと言わしめるだけの説得力が文字の美しさに表れている気がした。これだけ綺麗な文字で答案を作成されてしまうと、途中で何か間違いがあったとしても、よほどのことがない限りは見過ごしてしまいそうになるほどだった。「他人に読んでもらうための文字」とはこういうことをいうのだと実感した。

「続いてこちらが、先程渡した答案よりは順位は劣りますがそれでも中堅から優秀層に分類される答案です。先程の答案と比べると字の巧さという点では見劣りしますが、それでも君の作成した答案と比べると圧倒的に読みやすいことは間違いないでしょう」

 そう言われてみれば、確かに最初の答案と比べると字の巧さは見劣りしてしまうかもしれないが、それでも世間一般で言えば十分に綺麗とされる字であることは間違いなかった。

「2時間という厳しい制限時間の中で問題文を読み込んで答案構成をしてそこから答案を書き上げるといった受験生にとっては大変困難な作業をしている以上、受験生の中には『急いで答案を書き上げよう』と文字を書くスピードを優先するあまり『読んでもらえる文字を書こう』という意識を置いてけぼりにしてしまう人が少なからずいます。これが定期考査の答案であれば採点者も単位を認定するために字が読みづらい下手な答案でもなんとかそれを解読して採点しようとするものです。しかし、司法試験をはじめ資格試験というのは総じて実力の無い受験生を落とすことが目的ですから、『採点者に読める文字で答案を作成する』という言わなくても分かるであろう当然の前提さえ守れない・守ろうとしない受験生の答案などはなから相手にしない、あるいは相手にするとしても相当粗を探そうという態度を生み出すことになるでしょう。特に司法試験の論文試験というのは相対的な試験ですから、字が綺麗な受験生の答案を読んだ後で字の汚い受験生の答案を見せられると、それだけで後者の印象がマイナス1~2点と評価されても不思議ではないわけです。逆に言えば、字を綺麗に書くということを意識するだけでも他の受験生に対して有利に働くというわけです。…字の上手い下手で点数が変動するというのもなんとも不条理と思われるかもしれませんが、人間が採点する以上ある種仕方の無いことと割り切るしかありません。受験生は与えられた条件下でベストを目指すだけなのです。」

「どうしてそんな大切なことを誰も教えてくれないんでしょうか」思わず杉浦は口に出して質問していた。何かを積極的に知りたいと思ったのは随分久しぶりのことだと杉浦は思った。

「大切なことであっても、あまりにもそれが当然のことであれば暗黙の了解ということでむしろ誰も教えたくても教えられないものなのではないでしょうか。特に字の巧さというのは個別具体的な問題ですから、それを統一的に一つの講義の中で教えるというのは困難なものですよ。流石に法科大学院の講義の中で字の巧さ・下手さを確認・修正する講義というのは無いので、司法試験予備校の論文講座の受講を検討することをオススメしますよ。単純に論文試験突破のための法的知識を授けるだけでなく、優秀な受験生の手書きの答案がどういうものか、逆に不合格になってしまう受験生の手書き答案がどういうものかということまで詳細に解説してくれます。まぁ、受験生の文字の巧拙についてまで言及している講義はそう多くはないかもしれませんが」

「法科大学院の先生が、予備校の講座を勧めてもいいものなんですか」

 思わず杉浦は総口に出してしまった。

「現実問題として、純粋に法科大学院の講義だけで司法試験に合格するのは少数派だと思いますけどね。どうしても講義の時間的制約だったり、一人一人の受験生のケアまでは手が回るものではありませんから、法科大学院といっても。私は別にどこかの司法試験予備校の回し者というわけではないですが、下手に法科大学院教員としてのねじ曲がったプライドをひっさげて、法科大学院生が本当に必要な提案をしないというのがよっぽど悪だと思いますよ。百歩譲って司法試験合格に必要な法的知識は法科大学院の講義でまかなえられたとしても、合格に必要な論文作成の訓練や他の受験生との比較といった作業はどうしても予備校の方が優位ですから。勿論、予備校を盲信するのも危険ですよ。予備校も慈善事業として司法試験講座を開講しているわけではなく商売としてやっているわけですから。また、その受験生に必要十分な講義ではなく、より単価の高い講座をとってもらえるように営業をかけてくるわけですから。大切なのは、自分に欠けているものを正確に把握してその欠けてくれる部分を適切に埋めてくれる講義を見定めてその講義を受講することですよ」

 法科大学院のオフィス・アワーでまさか司法試験予備校の講義を勧められるとは思いもしていなかった杉浦は、ここぞとばかりに思いついたことをどんどん質問することにした。ようやく彼も腹を括ったようである。

「司法試験の予備校ってそれなりに費用が高いじゃないですか。だからなるべく安く済ませたいなぁと思って。自分でもなんとか本気出して勉強すれば独学で安く費用を抑えて合格することもできると思ってるんですけど、やっぱり駄目ですかね?」

「君の答案を見るに、字がどうこうというだけでなく、司法試験の合格のための方針も実はよく分かっていない可能性が高いと見受けられます。そんな状態で下手に独学することに拘ると、かえって合格から遠のいてしまい、結果的に高い出費をする羽目になると思います。だから早い内に予備校に出費して正しい方向に一定量の努力を積み重ねる必要があるんです。…この答案、予備校の参考答案を丸写ししましたね?」

 杉浦は今日のオフィス・アワーで一番びっくりした。どうしてそこまで分かってしまうのか。この人はエスパーなのではと本気で思ってしまった。
「別に私は超能力者でも何でもないですよ。というか、きっちり勉強していれば別に私でなくとも誰でも指摘できることです。この答案、民法の過去問のようですが、民法って2020年に大きな改正がなされているんですよね。だから、改正内容が反映されてないこの答案は当時の民法を前提に作成された答案を模写したものではないかという推論が働くわけです。わざわざ改正前の民法を使って答案を作成するメリットもありませんし」

 淡々と桐生は杉浦の答案の欠点を指摘した。

「2022年に未修コースに進学したので民法がそこまで改正されているなんて知りませんでしたよ」

 思わず杉浦は言い訳の言葉を重ねた。予め民法が改正されていることを知っていれば、下手に過去の年度に遡って民法の答案を作成することもなかったというのに。そう思っても後の祭りであった。

「別に入学年度に関係なくニュースを追ってれば多少は民法改正のニュースもいくらか入ってくると思ったのですが。新聞とか読んでないのですか?まぁ、君のような若い世代はもう新聞など読まなくなっているのかもしれませんが、ネットニュースでも見たことないのですか?それともネットニュースは自分の関心のあることしか表示されないように出来ているのでしょうか」

 杉浦はぐうの音も出なかった。まさか答案添削の場面で自分のメディア・リテラシーまで言及されることになるとは思ってもみなかった。一方的に責められるだけのこの時間が早く終わらないものかと杉浦は思っていた。

「先生、話が脱線しかけてます。それに、もっと大事なことを伝えるべきではありませんか」

 TAの浅野が口を挟んだ。杉浦はありがたいと思う反面、「まだ言われることがあるのか勘弁してくれ」とも思った。それにしても、答案用紙を一瞥しただけでそこまで色々なことが分かってしまうとは、難関試験を合格できるような人たちは現在の自分とは見ている視点が違うのだなということを嫌というほど思い知らされた。自分もいつか彼らと同じ土俵に立てる日が来るのだろうかと、半ば信じられない気持ちでいた。

「おぉ、そうですね。本当は法律面についてももっとがっつり添削なり指導したいのはやまやまなのですが、どうやら基礎が十分に身についていない今の貴方に説明してもすぐに頭から抜けてしまいそうなので、今回は答案の本当に形式的な部分の説明だけにとどめたいと思います。よく法科大学院でも予備校でも受験生から『論文が書けない』という相談を受けることは多々ありますが、私に言わせればそうした受験生の半分以上は『問題文を効率的に読み込む努力を放棄しています』と自白しているように思えるのですよ。そういうわけで、貴方が問題文を効率的に読めてるか、この場でテストしてもらいます。実際に問題を解かなくても大丈夫ですよ。どういう風に問題文を読もうとしているのか、それを知りたいのです。あ、問題文の検討のためにペンを持つくらいはして下さいね」

 そういうと、桐生はオフィス・アワーを実施している自分の研究室の奥に備わっているパソコンからプリンターを通して何枚かの紙を印刷した。そして、その紙の一部を杉浦に手渡した。1枚目の紙を見ると「論文式試験問題集[民事系科目第1問]」と記載してあった。

「それは令和4年度の司法試験の過去問です。実際に答案は作成しなくていいです。どういう順に問題文を貴方が読もうとしているのか、それを見せて下さい。制限時間もとりあえず今回に限って特に設けません。それでは、始め!」

 いきなり司法試験の過去問を読まされることになり、困惑する暇さえ与えられないまま司法試験の問題と取り組むことになった。杉浦は「先生は一体何が狙いなのだろう」「問題文を効率的に読み込むって、要は早く読めってことじゃないのか」と疑問に抱きながら目の前の司法試験の過去問と向き合うことにした。

 杉浦は、「[民事系科目]」「〔第1問〕」と上から問題用紙に書かれている順に問題文に目を通した。「効率的に読み込む」と言うことを自分なりに意識して、冒頭三行の「次の各文章を読んで、」から「法令に基づいて答えなさい。」という部分は問題を解くのに直接関係ない、よくある注意書きと判断してそこは読み飛ばし、「【事実Ⅰ】」との記載のある部分から順に問題文を読み込んでいった。

 すると、桐生は突然

「はい、そこまで!貴方の問題文の読み方を観察して確信しました。現時点での貴方は問題文の効率的な読み方を確立できていない司法試験受験生の中でも素人に分類されることが分かりました。このまま問題文を従順に順番に読んでいるだけですと、学習をどれだけ進めても途中答案になるリスクがとても高いですよ!」

 【事実Ⅱ】の途中まで読んでいる最中にいきなり桐生から大声でそのようなことを言われて思わず飛び跳ねそうになった。それにしても、桐生からこう言われるということは、自分は桐生が想像していたような「効率的に問題文を読み込む」ということが出来ていなかったということなのだろうが、ではどうすれば効率的に問題文を読み込むということができるのか、杉浦の中には頭の中に疑問しか浮かばなかった。

「では、ここからは私が逐一丁寧に効率的な司法試験の問題文の読み方というものを伝授しましょう。もっとも、私がここで言う効率的な問題文の読み方というのは、言ってしまえば大学受験の受験指導でも言われていることの延長に過ぎないのですが、司法試験になるとそのことが頭からすっぽり抜けてしまっている人も少なくないようです。あるいは、大学受験では効率的に問題文を読み込む努力をしなくても運良く切り抜けられてきたのでしょうが、司法試験ではそう簡単にはいきませんよ。さて、司法試験において効率的に問題文を読み込むというのは、まず最初に配点割合を確認するということです。司法試験で配点割合が明示されているのは民事科目くらいですが、配点割合は必ずどの科目でも一度は確認するようにしましょうね。では、何故配点割合が重要になるかというと、配点割合がそのまま答案の分量に比例するからです。今回の令和4年度の民法の問題で言えば、各設問の配点割合は『 設問1:設問2:設問3=50:30:20』ということですが、これはすなわちそれぞれの答案も50:30:20(5:3:2)の割合で書きなさいということですね。具体的に言えば、少なくともだいたい設問1で答案用紙2~3枚分、設問2で答案用紙1~2枚分、設問3で答案用紙1枚分、といった比率でしょうか。最初の設問1に多くの分量をかけて解答していき、徐々に解答の分量が減っていく、といったイメージですかね。勿論、受験生の実力によってはこれより多い枚数の答案を作成することもできるでしょうし、場合によってはこれより少なくなるかもしれません。ですが、配点割合によって大まかの書くべき答案の分量というのは何となく分かってきます。問題文に記載されている事案や設問自体は全く同じでも、配点割合が変動すればそれだけ答案に書くべき設問の答えの分量も変わってきます。もし本問の配点割合が20:30:50というようになっていれば、設問1は軽く論じるに留め、後半の設問になるにかけて徐々に手厚く論じる必要がある、という風に変わってきます。ここまではいいですか?」


 司法試験の配点割合にそんな意味があるとは思いもしていなかった杉浦にとっては桐生のアドバイスは衝撃であった。ちなみに、司法試験の答案用紙はA4サイズで1枚23行の回答欄があり、それがホチキス留めで8枚1セットという形式で配布される。大体平均的な受験生は一科目につき最低5,6枚分は解答用紙を埋めることになる。問題文の事実を多く拾えれば拾えるほど得点に繋がる試験でもあるので、少しでも多く得点されることを願って一心不乱に答案用紙を埋める受験生の中には腱鞘炎を発症する者も少なくないという。

 一方で、こうして新たな情報を開示されると新たな疑問も生まれてきたので杉浦は自然と桐生に疑問を投げかけるようになった。

「今回の令和4年の問題の配点割合が50:30:20という風になっているから設問1から順に検討する方が得点の配分が高い分最初の問題から検討するのが効率が良いと思うのですが、もし同じ問題で配点割合が20:30:50とかになっていた場合、設問3から論じてしまってもいいものなのでしょうか。個人的には配点割合の多い問題から検討した方が合理的とも思ってしまうのですが」

 杉浦から投げかけられた疑問は想定内とでもいうように、桐生は淀みなく杉浦からの疑問に答えていく。

「なるほど。例えばこれが大学入試の二次試験の数学の試験であれば、難易度が高い割に配点も低い設問1を捨てて設問2以降から解くというのも合理的な受験戦略としてはありでしょう。しかし、司法試験という文脈では基本的に設問1から順に検討することが想定されているので、採点者からしてみれば設問1を飛ばしていきなり設問2や3から検討するというのはあまり良い印象を抱かれないかもしれません。場合によっては、それだけで設問2や設問3の出来が良くても『設問1が解けていない、すなわち設問1で問うている内容も理解できていないのだから、設問2や3の出来もそれ相応のものに違いない』と余計な疑念を採点者に与えてしまうかもしれません。たとえ設問1が自分にとって苦手な問題であっても、順番に設問1から検討するのが筋ではないかと個人的には思います。これは他の受験生と比較して悪目立ちしないための受験戦略ですね」

「大学受験と同じように考えるのは危険ということですね。では、大学受験の延長戦と言っていたのは、どういうことなのでしょうか」

 桐生の説明に納得しつつも疑問に思ったことを問わずにはいられない杉浦であった。

「それはこれから説明しようと思っていたところです。配点割合の次に見るべき所は、【事実Ⅰ】などと書かれている問題文からではなく先に設問の方から読むんです。自分が何を問われているのかを自覚してから問題文を読んだ方が問題文を二度見する手間を省くことができるということです。大学受験において、国語の現代文や英語の長文読解対策で『まずは問題文ではなく設問から読め』と指導された記憶はありませんか。要はあれと同じことを言っているのですが」

 そういえば、今となっては昔の話となった大学受験時代にそんなことを言われたことがあったことを思いだした。一種の受験テクニックというやつだが、まさか司法試験にもそのテクニックが活用できるとは思いもしなかった。

「大学受験というのはいわゆるエリート選抜試験ですからね。そのエリートに要求される能力の一つとして事務処理能力の高さがあるわけです。効率的に事務処理をするためには、目の前の課題ないし資料を効率的に読む工夫が必要となるわけです。だから、エリート選抜試験の最高峰の一つである司法試験においても通用するテクニックというわけですね、設問から先に読むというのは」

 かつて自分がやっていたことと現在の自分がやっていることがリンクすると、何だか楽しくなってくる気さえしてきた。杉浦はそう思った。

「付け加えると、オススメのアドバイスとしては、配点割合を確認して配点割合が明記されているようなら、問題用紙の設問の横に大きく配点割合の数字をメモしておくことです。こうすることで、改めて書くべき答案の分量を自覚することが出来ます。」

 普段の法科大学院の講義では絶対に聞くことの出来ないような具体的かつ実践的なアドバイスを聞くことが出来て、それだけでも今回のオフィス・アワーに来た甲斐はあったなと杉浦は思った。それでも、まだ桐生のアドバイスは終わることはなかった。

「もう少し実践的なアドバイスをするならば、問題用紙の使い方ですかね。司法試験の本番では問題用紙や解答用紙とは別に、答案構成用の白紙の草稿用紙が渡されますが、これは使わないことをオススメします。ゼロから何かを書き始めるのは非効率的ですから。私がオススメするのは、問題用紙をそのまま答案構成に流用してしまうと言うことです。具体的に令和4年の民法の問題で言えば、設問1⑴の『Aはこれを拒むことができるか』という部分の『A』の左に数字の『1』とメモを書き込んで、『Aは甲土地の引き渡しを拒むことができるか』とすれば、それだけで設問1の冒頭の答案構成が完成するわけです。このメモ書きの数字が大まかな段落となります。答案の冒頭を設問のオウム返しのように書き始めることで、これから行う解答の方向性をぶれないようにするんですね。ここで気をつけるべきなのは、最後の結論の表現ですね。『拒むことができるか』と冒頭で投げかけているので、結論の末尾は『拒むことができる』または『拒むことができない』と締める必要があるんですね。最後の最後に気を抜いて語尾を『認められる』とか『認められない』とか書いてしまうと採点者に『論理的一貫性がない』と判断されて減点されるリスクがありますから。最後まで気を抜かないように答案は作成して下さいね」

 優秀な受験生の中ではもしかしたら当たり前とされるようなテクニックを伝授されて、法律論は全然まだまだ知らないことが多くても問題の検討の仕方も知らない初学者よりはリードできていると杉浦は実感するようになった。

「では、令和4年度司法試験民法の過去問の検討の続きをしますね。設問1⑵を見ると、『請求1及び請求2のそれぞれについて論じなさい』とあるので、『及び』の字の上に斜線を引いて『請求1』の左側に数字の1、『請求2』の左側に数字の2とメモを加えて、それぞれ『(1)所有権移転登記手続きは認められるか』とすれば冒頭の答案構成は完了です。そこから法律論を展開して、具体的事実を適切に引用しつつ当てはめて、最後に結論を書いていく、という作業をするのですが、それは今後の課題ですね。設問2を見てみると、『下線部㋐㋑㋒の各主張の根拠を説明した上で、Fの反論の当否を検討し、請求3が認められるか』とありますね。『上で』『検討し』の文字の上に斜線を引いて、『下線部㋐㋑㋒』の左側に数字の1、『Fの反論』の左側に数字の2、『請求3が』の左側に数字の3と書き込めば設問2の答案構成の大枠は完成です。そして、最初の『下線部㋐㋑㋒の各主張の根拠』という部分について『(1)下線部㋐の根拠』『(2)下線部㋑の根拠』『(3)下線部㋒の根拠』という風に詳細に項目立てをすれば、自分も問題を検討しやすくなるだけでなく、採点者も採点しやすい答案に近づくことでしょう。受験生の論理的思考が透けて見えるような答案が、より正確に言えば、問題作成者が想定している設問の論理の流れに上手く乗っかっている答案が、採点者が疑問を抱くことなく気持ちよく採点出来る答案なのです。そうした答案を作れるようになるためには、問題文を効率的に読むという作業が絶対に必要不可欠なのです。最後に設問3は『下線部㋓の主張の根拠を説明した上で、考えられるMからの反論を踏まえ、請求4が認められるか』ということですが、『上で』『踏まえ』の文字の間に斜線を加えて、『下線部㋓』の左側に数字の1、『考えられるMからの反論』の左側に数字の2、『請求4が認められるか』の左側に数字の3と記入すれば設問3の大まかな答案構成は完了です。このように、問題用紙も効率的に活用することで1秒でも多く答案を作成する時間を稼ぐんです。また、答案構成段階で自分にだけ分かる略語表記をするというのも一つの手ですかね。例えば、普段の講義から『裁判所』という言葉をメモする際には大文字の『J』、『裁判官』とメモするなら小文字の『j』と表記するようにして、一秒でも書く時間をカットするという工夫をすることも大切ですかね。普段からこうした工夫を積み重ねることで少しでも貴重な勉強時間を確保したり、本番で貴重な試験時間を最大限に有効活用するということですね」

 論文試験対策として、何からすればいいのかと途方に暮れていた頃が考えられなくなるほど今回の講義で今後の勉強の方向性がハッキリした。すくなくとも、今回のオフィス・アワー以降で論文試験に対して過剰な不安を抱くことはなくなったように思えた。

「さて、お疲れのところ申し訳ありませんが、今度はこの問題を検討してみて下さい。令和4年の行政法の問題です。今民法の過去問の解き方、もとい読み方を学んだ上で効率的な問題文の読み方が出来るか再びチェックしますよ。それでは、始め!」

 杉浦は桐生から令和4年の行政法の問題を手渡され、問題検討に取り組んだ。令和4年の行政法の冒頭を見ると設問ごとに配点が〔〔設問1〕⑴、〔設問1〕⑵、〔設問2〕の配点割合は、40:20: 40〕と表記されていたので、早速先程の民法の過去問で指摘されたように各設問の左側に「40」「20」「40」とメモ書きを残した。次に、設問から読むことにして、先程の民法の過去問で言われたようなアドバイスを参考に、行政法の答案構成のナンバリングをざっくりと行った。そして、設問を読み終わった後で問題文の1ページ目の「A株式会社(以下「A」という。)は」という部分に目を通した時点で、

「はい、そこまで!やはり行政法の効率的な問題文の読み方というのは知らないようですね。いや、途中まではきちんと出来ていましたよ。配点を確認してから設問を読むというセオリーを実践してくれて大変嬉しく思います。ですが、それだけでは司法試験の行政法を効率的に検討するという点では甘いと言わざるを得ませんね。」

 途中までは上手く司法試験の問題と向き合えていただけに、その分杉浦のショックも大きかった。司法試験の大きな壁はそう簡単には乗り越えられないようである。

「ではここからは、具体的な司法試験の行政法の問題の効率的な読み方について学んでいきましょう。予備試験の行政法の問題と違って、司法試験の行政法の問題には『会議録』といったような誘導文が存在します。最初に①配点割合、②設問の順に検討するのは民法などの場合と同様に、全科目で共通する効率的な問題文の読み方ですが、司法試験の行政法の場合はその後で③『会議録』といった誘導文を先に読んでから具体的事案の問題文を読むというのがオススメです。極端なことを言えば、この会議録がそのまま答案構成用紙に転用できると言っても過言ではないのです。そして、関係法令は最後に読む、といった形になるでしょう。ついでに言うと、設問の中で前の設問の答えを暗示している記述があることにも注目すべきですね。令和4年の司法試験行政法の問題で言えば、設問1(2)の『仮に』『なお』の後に注目すべきですね。これもある種の受験テクニックとなるのですが、『仮に』の後に書かれている内容は前の問題の答えになっていることが多いのです。本問では『仮に』の後を読んでも少し答えがハッキリ分かる形にはなっていないのですが、『なお』の後に『Fに原告適格が認められることを前提にしなさい』というところを合わせて読むと、たとえ全く勉強していなくとも、前の設問1(1)の答えは少なくともFに関しては『原告適格がある』と答えるのが正解となる、ということが分かるのです。勿論、理論上は『Fに原告適格は認められない』という方向の立論も不可能ではないのかもしれませんが、問題作成者の心理を考えると設問1(1)でFに原告適格が認められることを強調したいからわざわざ設問1(2)で『Fに原告適格が認められることを前提にしなさい』と明示しているので、あえて『Fに原告適格は認められない』とする立論には違和感を覚えられてしまうのです。日常用語ではもしかすると『なお』書きはオマケ程度に捉えられることがあるかもしれませんが、司法試験という文脈においては『なお』の後には結構重要なことが書かれていたりするので今後は注意して読んでみて下さいね」

 そういう問題文の読み方をするなんて法科大学院の行政法の講義では聞いたこともないぞ。条文や判例を教えるくらいならまず先にこうした司法試験の問題の検討の仕方から教えてくれればいいのに、と杉浦は心の中で毒づいた。そんな杉浦の胸中を知ってか知らずか、桐生は、

「法科大学院の講義では実践的な司法試験の問題文の読み方講座なんて基本的にしませんからね。ある種受験生が当然の如く身につけているとみなされるマナーみたいなものというか。法科大学院の教員は決して受験指導のプロというわけではないのですよ。自分の担当する科目の知識については教えることは出来ても、出来の悪い受験生がどこで躓いているのかまでは熟知していないというわけです」

 と答えた。まだまだ桐生のオフィス・アワーという名の特別講義は続く。

「どうやらその様子だと、参考答案が細かく段落付けされている意味もよく分かっていないように見受けられます。勿論、設問の誘導に乗っかって答案を読みやすくするための工夫の一つなのですが、それだけではなく採点者に『自分は法的三段論法を理解しているぞ』とアピールするためでもあるんですね。ただ何となく段落が分けられているわけではありません。読む人が読めば、規範定立、あてはめ、結論という法的三段論法になぞらえて答案が段落されているということが分かるはずです。勿論、司法試験受験生であれば法的三段論法という言葉自体は知っていると思いますが、それを答案という形式でもきっちり区別して表現しないと採点者からは『こいつは法的三段論法も理解しないで司法試験を受験しに来たのか』と悪い印象を抱かせてしまいます。全く同じ内容の答案だとしても、適切に段落分けをした答案とそうでない答案とでは点数が1,2点、場合によってはそれ以上開くことがあるでしょう。たかが1点、されど1点。1点の間に多くの受験生がひしめき合っている以上、1点というのは大きな差になります。つまらないところで点数を引かれてしまわないように、答案作成という場面でも法的三段論法という言葉を意識してみて下さい。そして、法律科目全体の基礎的な理解が出来たら、改めて今まで言われたことを意識しつつ自力で答案を作ってみて下さい。自力で答案作成をする際の注意点としては、制限時間を必ず守ること。途中答案になってしまっても制限時間が来たらその場でペンを置くこと。現在の自分の実力では答案を完成させることが出来ないと自覚するところが司法試験論文試験対策のスタートと言っても過言ではありませんから。こうした論文対策はお金をかけてでも予備校を頼った方が良いと私は思いますけどね。どうしても独学では限界が来る分野ではありますから。自己投資と割り切って予備校に費用をかけるのは受験対策としては全然ありです。ただ、最終的には自分に合う・合わないといったことも考えられますから、可能なのであればYouTubeなどの動画サイトに予備校の講義が投稿されているのなら、試しにいくつか講義を視聴してみるのも今の時代は良いかもしれません。『周囲が○○予備校を使っている人が多いから』という消極的な理由で予備校を選んでしまうのはオススメしません。そういった消極的な理由で講義を選んでしまうと自分に合わなかった場合のリカバリーが効きませんし、自分で勉強した方がかえって効率が良い場合もあり得ますから。とにかく、『自分にはこの講義がどうしても必要だから』という理由を明確にして予備校の講義は選択するように。脳死状態で予備校を選ぶと予備校の養分にされて何年も搾取されますからね。予備校の養分にされたくないから独学を選択するというのも気持ちとしては分からなくもないですが、司法試験合格ということを考えると素直に予備校を積極的に利用した方がかえって費用が安く済むものです。勿論、私のオフィス・アワーを利用してくれれば予備校に劣らない手厚い添削することを約束しますよ。大体法科大学院はまともな受験指導も出来ないくせに学生から学費を取りすぎなんですよ!法科大学院が信用ならないから予備校に流れる人が多いということに法科大学院の教授陣は罪悪感とか感じないんですかね?そんなだから司法試験は『資本試験』なんて揶揄されるんですよ!」

「先生、落ち着いて下さい。学生が引いてますよ」

 TAの浅野は桐生を止めに入った。一方の杉浦はとんでもないことをぶっちゃける桐生という教員を信じられないものを見る目で見ていた。

「…まぁそれはおいておくとして、もし私のオフィス・アワーが気が引けるというのであれば、そこのTAの浅野君を頼ってくれても良いですよ。彼、実は予備試験ルートで司法試験に合格してますから。答案添削という意味ではもしかしたら私よりも適任かもしれませんね」

「先生やめて下さいよ。僕の仕事が増えるじゃないですか」

 そう言いつつも浅野はまんざらでもない様子である。

 何故司法試験に合格していながらこの人は法科大学院でTAなどしているのだろうと杉浦は疑問に思ったが、それは口にしないことにした。これ以上余計な地雷を踏んではいけないと、杉浦も学習し始めたのである。

「あぁそういえばもう一つ。予備校の出版している過去問に掲載されている参考答案についてですね。受験生が作成した再現答案ということですが、厳密にどこまで再現されているのかについて注意が必要です。大抵人間というのは自分に都合の良いように記憶を捻じ曲げたりしているものですから。『こうだったらいいのに』答案になっていても不思議ではありません。現実に手書きで再現できるか自分でも確認を怠らないようにして下さいね。でもそれ自体はたいした問題ではありません。当たり前と言えば当たり前のことですが、参考答案が手書きではなくパソコンによる文字起こしがなされているということに注意して下さい。実際に手書きでどのように答案が作成されているのか見ることが出来ないというのが問題なのです。受験生としては『自分の字は採点者にきちんと読んでもらえている』という前提で再現答案を作成していますが、そもそも読まれるに値しない文字で本番の答案を作成してしまっていた場合、答案の内容には問題がそれほどなくとも順位が下位に落ちている不思議な再現答案が出来上がってしまいます。手書きでどれだけきちんとした答案を作成出来るのか周囲と比較する必要もあるので、そういった意味でも予備校の論文対策講座は何か受講しておいた方が良いかもしれません。そうそう、何より注意しなければならないのは、再現答案の中で『優秀』答案と評価されているものは、あくまでその試験のあった当時において『優秀』という評価がされていたのであって、時間の経過とともにその価値は段々下がってくるということに気をつけねばなりませんね。試験が過去のものとなれば、予備校や法科大学院もより効率的な答案作成や論証の研究というものがなされ、受験生間でその知識が広く共有されるようになるわけですから、同じ問題を解いても未来の受験生の方がよりコンパクトに要点が押さえられた論証が可能になるというわけです。また、実務においても判例の価値基準がどんどんアップグレードされていったりもしますから。これから受験を控えている受験生は、過去の『優秀』という肩書きに囚われることなく常に知識や論証のフレーズをアップデートすることを怠らないようにして下さい。もっとも、実務家になった後も知識のアップデートという作業からは逃れられるものではないのですが」

 ここまで桐生の話を一方的に聞いて杉浦はある一つの疑問が浮かんだので桐生に質問することにした。

「論文添削ってその気になればいくらでも先生やTAの人を頼ってもいいんですよね。確かに予備校の論文講座を受講するメリットというのも十分理解できたとは思います。ですが、先生は予備校にも負けないくらいの答案添削をしてくれることも間違いないとは思うんです。それは今回のオフィス・アワーだけでも十分に理解したつもりです。そこまで熱心に受験指導してくれる先生が、あえて予備校の論文講座をそこまで勧める理由をもう少し伺ってもいいですか」

 まだどこかで予備校を安易に利用することに抵抗感がある、というよりは少なくとも目の前にいる教員は相当熱心に受験指導する心構えがあると確信した杉浦は、「自分を信用してどんどん答案添削しに来なさい」ではなく「予備校の論文講座を活用しなさい」と自分に勧めてくるのがまだ腑に落ちていなかったのである。

「なるほど。そこまで深く質問されれば、こちらもそれなりに答えなければなりませんね。言ってしまえば私の、というかどこの法科大学院でもそうかもしれませんが、ただの答案添削だけでは司法試験受験生の成績向上には限界があるからなんですね。司法試験や予備試験の過去問というのは受験生、少なくとも合格レベルにいる受験生にとっては条文や判例の知識と同様に知っているのが当たり前の知識となっています。当然、既に出題されてしまった問題というのは予備校側や法科大学院関係者をはじめ諸々対策というのが打たれます。こうして、過去問であるならばすぐに一定水準の答案を作成出来るようになることも決して不可能なことではありません。しかし、過去問とはあくまで過去問。肝心なのは、本番で目にする未知の問題にどう対応できるかということなのです。過去問検討だけでは既に頭の中に入っている知識だけで解けてしまうこともあるので、未知の問題演習をする訓練がどうしても必要になります。ですが、私含め法科大学院では司法試験レベルの未知の問題演習を法科大学院生に訓練させるだけの時間的余裕も人的余裕も十分にはありません。そうした未知の問題制作のノウハウはどうしても予備校の方が上手なのです。繰り返しになるかもしれませんが、そうした未知の問題に対して優秀な受験生は制限時間内にどのような答案を作成するのか知ることもできるというのが予備校を使うメリットとして考えられますかね。あとは、予備校を使うことで視野狭窄に陥ることを防ぐということも考えられますかね。法科大学院だけで受験勉強を続けるとライバルが自分の周囲だけと勘違いして足の引っ張り合いをするというような、しょうもないことも起きてしまいます。ですが、現実には身近な人間の足を引っ張ったところで自分の合格率が上がるなんてことはないわけです。むしろ目を向けるべきなのは、自分たちよりも上位の法科大学院に在籍する優秀な学生や、予備試験を突破するほどの優秀な受験生が具体的にどのような答案を仕上げてくるかといったことなのです。そうした格上の相手を知ることが出来るようになるのが、予備校を活用するもう一つのメリットなのです。もしかすると、予備校つながりで新しい人脈が生まれたり、切磋琢磨できる良い人間関係を構築できることも不可能ではありません。要するに、法科大学院以外でも良い意味で依存できる先を見つけることが重要なのです。あまり考えたくはないかもしれませんが、浪人生活が長引いてしまうと、法科大学院だけの人間関係はどうしても希薄になってしまいますから。自分の法科大学院生同士だけで自主ゼミを組むと、自分以外の人間が先に合格して抜けていったり、あるいは脱落してどんどん人が減っていったりすることで、孤立してしまうのは精神衛生上もよろしくありません。最悪、いわゆる『無敵の人』になってしまっても不思議ではないのです。なので、司法試験や予備試験の過去問の答案添削については私やTAを頼ることにして、未知の問題演習については予備校を活用するというように、両者を上手く使い分けるといったことが大切かもしれません。」

「未知の問題に対応できるようになるためには予備校を使うのが合理的というのは分かりました。でも、今度は過去問研究をする意義というのが分からなくなってしまいました。既に過去のことになってしまったのならば、あえてやる必要もないのではとも思ってしまったのですが。あと、自分は法科大学院修了というルートで司法試験受験資格を得ようと考えているのですが、予備試験の過去問研究ってする必要ってあるのでしょうか」

 桐生が逐一丁寧に回答するとかえって新たな疑問が浮かぶようになってしまった杉浦は、また新たな質問を桐生にぶつけることにした。

「…いくら法科大学院修了という形で司法試験の受験資格が得られるからといって予備試験対策は怠るなと普段の私の講義から口を酸っぱくして伝えていたつもりなんですけどね。予備試験を自分には関係ないこととみなしている法科大学院生がいることが有史以来の衝撃ですよ私にとっては。私の意図が伝わっていないようでショックですよ」

 桐生の地雷を踏んでしまったと杉浦は後悔した。自分の学習能力のない頭の悪さを恨んでも既に遅いのだが。

「…まぁいいです。大事なことは何回伝えたって良いですからね。まず司法試験の過去問研究についてですが、過去を知ることは未来を予測する上で重要だからです。憲法で言えば表現の自由に関する論点なんて何度も出題されてますからね。それだけ重要ということです。勿論、全く同じ問題が出題されるというわけではありませんが、過去問を真面目に正しく検討したことがあれば、いざ本番の試験で未知の問題を見ても過去問の知識を類推して答案を作成することも可能になるというわけです。また、単純に2時間という時間制限の中でどれだけの分量の問題が出題されるのか、その中で自分はどれだけ早く答案を作成することが出来るのか、それらを知ることも過去問検討で重要な作業となるのです。そうした訓練を積むことで本番でどれだけの時間を問題検討・答案構成・答案作成に充てるのか、といったことも皮膚感覚で分かるようになるわけです。そして、過去に予備試験で出題された論点というのは将来の司法試験でも出題される可能性があるわけです。逆に司法試験で出題された論点が予備試験で将来問われると言うこともあるわけです。なので、予備試験受験者には『司法試験の過去問対策も今のうちからやっておきなさい』とアドバイスしているのですが」

 杉浦は「知るは一時の恥、知らぬは一生の恥」という言葉を今日ほど身にしみて体感したことはなかったと思った。この桐生という教員は時々容赦なく受験生の心をえぐるようなことを言うが、それでも受験生にとってはありがたいことを真摯に伝えてくれる。

「とりあえず現時点の貴方に必要そうなことは伝えたつもりですが、まだ何か質問はありますか」

 桐生は杉浦にそう問いかける。頭の中で今回のオフィス・アワーで言われた受験テクニックを反芻した上で杉浦は

「…いえ、もうないです。今日はありがとうございました。先生のおかげで今後の勉強の方針がハッキリしたと思います。先生の言う通り、今後は予備試験のことも念頭に置いて勉強を頑張ろうと思います」

 と、心の底からの礼を言った。聖稜大学法科大学院に入学して以来、初めて司法試験受験において実践的に役立つテクニックを伝授されたが故に余計な疑問も不満も湧かずに自然とあふれ出た言葉であった。

 ようやく終わったという気持ちと、もう終わってしまったという相反する感想が杉浦の胸中に表れていた。またこの桐生という教員にオフィス・アワーで質問をしにいくことがあるのだろうか。そして、その度に今日以上にボロクソなことを言われてしまうのであろうかと内心恐れる反面、自分にはまだそれだけ成長する余地があると前向きに捉えることにした。

「そうですか。今日のオフィス・アワーが貴方の今後の受験勉強の役に立てば幸いです。この先長く辛い受験生活が待ち受けてると思いますが、精一杯頑張って下さいね」

 桐生は最後に労いの言葉を杉浦にかけた。杉浦は内心「この人も人並みに労いの言葉を贈ることもできるのだな。社交辞令かもしれないが」と思った。下手に桐生にこちらの内心を暴露されないうちに早くオフィス・アワーが行われた桐生の研究室から出ることにした。

 杉浦が桐生の研究室から退出すると、入れ違いで別の法科大学院生が桐生の研究室に入っていった。杉浦はその法科大学院生と親しいわけではなかったが、彼の名前と彼が聖稜大学法科大学院の中で成績上位層にいることくらいは知っていた。彼の名は原田清彦という。彼は聖稜大学法学部から聖稜大学法科大学院へ進学した生徒である。学部時代から成績は優秀であり、法科大学院へ進学した後でも成績優秀であることは変わらないということは直接面識のない杉浦でも知っていた。彼のような優秀な者でも先生に質問するようなことがあるのだなと杉浦は思った。いや、ああいう風に先生に積極的に質問をしに行くくらい勉強熱心だから成績が上がるのだろう。自分もそうなれるように努力せねば、と杉浦は思い直した。まずはどの予備校の講義を選択しようか、ネットで複数の評判などを確認することから始めようと決めた。あと、悪筆を直すために習字講座でも取ろうかとも思い始めていた。いや、流石に習字講座をとるのは努力の方向性が違うか。とにかく、可能な限り普段から「文字は読まれるもの」ということを意識して答案を作っていこうと決意を改めることにした。

 さて、今度は原田のオフィス・アワーの番である。

「失礼します。オフィス・アワーで来たのですが、大丈夫ですか」
 
 原田はそう言って桐生の研究室へ入る。

「えぇ、大丈夫ですよ。今丁度オフィス・アワーに来ていた人の対応が終わって、他に面談を予約している人もいないので、そのままオフィス・アワーを実施することは可能です。今日はどういう内容でオフィス・アワーを利用しに来たのでしょうか」

 最初にTAの浅野がオフィス・アワーの入り口で学生の対応をすることになっていた。基本的にはそのまま桐生の元に通すことになっているのだが、桐生が他の学生のオフィス・アワーの対応に追われていたり、予約していた学生の対応を優先する場合には、代わりにTAである浅野が可能な範囲で対応することになっているのである。

「TAの浅野さんですよね。今日は予備試験の論文添削してもらおうと来たんです。出来れば複数の人の意見を聞きたいので、浅野さんも僕の答案を添削してもらえませんか」

「えぇ、構いませんよ。では、僕がここで答案添削してから、桐生先生に見せるということでいいですか。」

「はい、お願いします」

 こうした一連のやりとりを経て浅野は原田から令和3年の予備試験論文試験民法の問題用紙と原田の答案用紙を受け取って添削することにした。浅野はまず問題文を軽く読んで何を問われているのかを確認してから設問にある事実関係を的確に抑え、それから原田の答案を添削した。浅野は目を細めて原田の作成した答案に書かれた字を追っていく。

 数分が経過してから、浅野は原田の答案に赤ペンでコメントを加えていく。浅野が確認した範囲では原田の答案の内容に間違いはなかったものの、いくらか回答として過剰な記載と思われる部分に下線部を引いて「×不要」などと簡単な記載を原田の答案に付け加えていった。浅野がコメントを加え終えてから、ようやく桐生の元へと答案が渡っていった。

「どうでしたか、彼の答案は」

「内容自体に間違いはなかったと思います。ただ、いささか丁寧に書きすぎているというか、過剰な記載があるのかなという印象を持ちました。あと、「譲渡担保契約」という多少マニアックな論点について深く言及していたので、その点の詳細な成否については桐生先生のコメント待ちといった感じでしょうか。全体的には、字が小さく段落分けもそこまでなされているわけではないので多少読みづらいといったところでしょうか。学部や院の定期考査であれば文句なく成績優秀な答案と評価されるのでしょうが、これが資格試験の答案ということになると些か疑問が出るというところでしょうかね」

「なるほど分かりました。では浅野君が拾いきれなかった部分を中心に添削してみますか」

 桐生と浅野のやりとりを離れたところで聞いていた原田は疑問に抱いていた。学部や法科大学院でも優秀な答案を書き続けてきたというのに、どうして予備試験になった途端急に評価が下がってしまうのだろうかと常々思っていたのだ。原田は予備試験の短答試験においては上位の成績を修めていたのだが、論文試験になった途端に成績評価が芳しくなく毎年不合格となっていた。短答試験は問題なく通過できるから法的知識に不備はないし、論文も学部や法科大学院では優秀な成績を残せている以上予備校は不要と考えていたのだが、もしかしたらその考えを改めなければならないのだろうか。原田は経済的に余裕があるわけではなく、全額学費免除が出た聖稜大学法科大学院に進学を決めた以上、出来れば予備校に余計な出費をしたくないと思っていたのだが、果たして桐生先生はどのような結論を下すのであろうか。

 そんなことを原田が思っている内に桐生は添削を済ませていた。研究室の入り口で待っていた原田を研究室の奥の方に呼び、答案の講評をすることにした。

「さて、この答案について正直なことを申し上げましょう。これが学部や大学院の試験であれば文句なく一番優秀な答案として評価していたことは間違いないでしょう。細かな論点も拾えているだけでなく、メインとなる論点も取りこぼしなく論じられていますし。ただ、司法試験や予備試験という場面で同じように答案を作成してしまうと、かえって評価を落としかねないということもあり得るのです。些か不条理と思うかもしれませんがこれは事実の一つとして抑えて下さいね」

 原田にとっては目から鱗が落ちるような発言だった。大学で優秀と評価される答案でも別の場所では評価が下がるという理屈がどうにも信じられなかった。

「どうやら君は法的知識の面については問題はないようですね。予備試験の答案添削ということでしたが、おそらく短答試験は問題なく通過できることでしょう。もしかすると、相当上位で短答試験は合格していても不思議ではない。ところが、論文試験となると評価が芳しくない。その原因をここで解き明かしてみましょう。」

 噂には聞いていたが、答案一つ見ただけで何でも見通してしまうというのは本当のようだった。

「学部や院の試験であれば、書けば書くほど、丁寧に論ずれば論ずるほど加点されるというのは不思議ではないでしょう。そういった試験は加点方式で行われているのでしょうね。問題を作成した教授・准教授も答案に書かれている内容が正しければ分量が多い答案でも文句なく加点してくれることは間違いありません。一方、司法試験をはじめとした資格試験というのは加点方式というよりは減点方式で運用されていることに注意しなければなりません。勿論、必要なことを書かなければ点数は入ることはありませんが、余計なことを書いてしまうと本来入るはずの点数が入らなかったり、場合によっては減点さえされてしまうことがあるのです。」

 原田は桐生の話を黙って聞いていた。

「刑法の論文試験を例にとって説明してみましょうか。刑法の論述の型は①構成要件該当性→②違法性→③有責性の順で論じることが基本なのは言うまでもないでしょう。①の構成要件該当性の話を全くすることなくいきなり正当防衛などの違法性の議論をしてしまう答案は御法度です。それらを前提とした上で、主に構成要件該当性に関する論点が問題となっている事案を想定しましょうか。実行行為の着手の時点がいつなのかとか、不真正不作為犯の問題とか、そういった論点が出てくる問題ですね。逆に言えば、それほど違法性や有責性の問題といったことが想定できない事案です。そのような事案で一言でも『違法性阻却事由は無い』『責任阻却事由は無い』とあえて明記するとどうなるでしょうか。甘い評価をする学部や大学院の試験であれば『基礎・基本をきっちり明示して偉い』と加点してくれるのかもしれません。ですが、司法試験のような資格試験の場合、わざわざ当たり前のことを書いたところで加点などしてくれません。書いた文字が無駄になってしまいます。また、加点されないことを書いてしまったがために本来書くべき内容が圧縮されてしまい、加点の機会を逸してしまうことも考えられます。場合によっては、『違法性・有責性が論点とならない事案でわざわざ違法性・有責性に言及しているこの答案は、構成要件該当性を満たすことは違法性・有責性を推定するという基本的なことを知らないのではないか、知っていることをとりあえず吐き出しているだけではないか』と不要な邪推を生んでしまい答案の印象が悪くなるリスクさえあります。それが一点目」

 原田が自分の説明に納得している様子であることを確認した上で、桐生はさらに説明を付け加えていく。

「二点目は、論点にメリハリのない答案というのも資格試験的には印象はマイナスに傾きがちということです。メインで論じるべき論点も細かな論点も同じだけの分量で論じてしまうと採点者に『この受験生はどこがこの事案の重要なポイントになるのか分かっていないのではないか』と余計な猜疑心を生んでしまう結果になりかねません。極端な具体例を挙げるとするならば、
『住居侵入罪と殺人罪の牽連犯』の事案を解答用紙に記載する際に、住居侵入罪の部分で答案用紙1枚、殺人罪の部分で答案用紙1枚を消費してしまうような答案というのは、たとえその内容が正確であったとしても、採点者の視点からすれば『バランスの悪い答案』ということになってしまいます。この事案でいえば殺人罪がメインの論点、住居侵入罪がオマケの論点という風になるのが通常でしょうから、答案の分量としては住居侵入罪については長くなったとしても2,3行で記述を済ませ、残りを殺人罪について言及する、といったような答案がバランス感覚に優れている答案ということになります。答案の具体的な分量というのは配点割合も重要なヒントとなりますから、試験が始まったらまずは設問の配点割合が明示されているのであればそちらをまずチェックするというのも重要ですよ」

 桐生は原田の答案を見て内容自体に指摘するほどの間違いは見受けられなかったので、現実的な合格答案を作成するための技法として、不要な記述をせずに必要十分な内容の答案を作成できるようにする方向で原田を指導することにした。原田は司法試験や予備試験に合格するための答案の書き方のノウハウを知らないがために損をしていると見抜いたのである。

「実質的な面でのアドバイスはこれくらいでしょうか。今度は答案の形式的な作成面についてアドバイスしたいと思います。貴方の答案の字は読めないことはないのですが、いかんせん字が小さすぎで読みづらいのがもったいない。書かなくてもいいこともわざわざ書いてしまってこの分量ですから、もっと書く内容を削ってもう少し字を大きくして答案を作成すれば採点者の評価も上がると思いますよ」

 字の大きさについてまで言及されるとは思ってもいなかった原田は、ここに来て初めて自分から質問をした。

「具体的には、どれくらいの字の大きさが望ましいものなのでしょうか」

 桐生は先程の杉浦に渡したものと同じように優秀答案のコピーを原田に渡した。原田も他人の答案を見るのは初めてだったが、そのコピーを見た瞬間に自分の答案の欠点を把握したようである。自分の答案の冒頭は、

「第1設問1 Aの本件ワイン売買契約及び本件賃貸借契約を解除したいという主張は認められるか。まず、本件ワイン売買契約の解除から検討する。」

 と答案の1行目からビッチリと小さな字で論述が書きつられているだけなのに対して、優秀答案の方は、

「第1 設問1
  1 本件ワイン売買契約
    (1)Aの本件ワイン売買契約の解除の主張は認められるか。
    (2)…

  2 本件賃貸借契約
    (1)Aの本件賃貸借契約の解除の主張は認められるか。
    (2)…」


 というように、項目立てがなされていて一見して見易さが伝わる答案であった。また、優秀答案の方が自分の字よりも大きくて見易さがより際立っていると感じた。点数に反映されるかはともかく、採点者としてはこうした答案を作成してくれた方が採点者の負担も減るだろうということは原田も受験生ながらに感じるところであった。

 「他人の答案を読むのは初めてといった様子ですね。司法試験や予備試験の論文試験とはこのように、それぞれの受験生の作成した答案を採点していく相対的な試験です。人間が採点する以上、目に飛び込んでくる文字情報によって答案の印象が少なからず左右されてしまいがちです。勿論、可能な限り公平性を保つために複数人で採点にあたるなど対策もされていますが、採点者にとって読みやすい文字で答案を作成するというのは現実的かつすぐにできる対策の一つだと思いますよ。あとアドバイスをするならば、答案を作成する筆記用具にも気を遣った方がいいですかね。貴方の答案は全体的にも字が小さいだけで無く細いように見えますが、答案を作成したボールペンのペン軸って何ミリのものを使っていますか」

「0.3ミリのものを使っています。他の人の答案を読んでみて自覚したのですが、もっとペンの太さを変えた方がいいんですかね」

「そうですね。0.3ミリでは字を大きく書いたとしても全体的に字が細くなりすぎてしまいますね。基本的に答案に書くボールペンの太さは最低でも0.7ミリくらいは欲しいところでしょうか。太めのペン軸を使って文字を大きく書き、適切な段落分けをする。そして、設問に対して必要十分な内容の答案を書く。形式的な面だけで言えば、合格答案というのはこれらを満たした答案のことをいうのです。」

「なるほど。僕の答案はその形式的な面で損をしてしまったということですね。逆に言えば、これらの点を注意して答案を書けば合格水準の答案にも近づけるということですか」

「油断は禁物ですけどね。この形式的な答案の作法は、あくまで合格への入り口レベルです。」

 原田の意見に桐生は注意を促した。答案の見た目だけで合格できたら苦労はしない。桐生は原田の答案を見て、一つの提案をすることを決めていた。

「貴方は学部や法科大学院の成績はなまじ良いものだから予備校の講義を取らなくても大丈夫だろうと思っているかもしれませんが、資格試験の論文試験における合格答案を本番でも書けるようになるためにはそれなりの訓練を積む必要があります。形式的な面でのアドバイスは今私が伝えたとおりですが、いつもそのアドバイスを100%答案に反映させることができるとは限りません。本番になって初見で問題を目にした時、出題形式の変更によって気が動転し、本来の実力の半分も出せなかったということも珍しくはありません。そうした現場での対応力を磨くためにも予備校の論文講座や模試を活用することを勧めます。現時点での貴方は大学で好成績をとれる答案と資格試験で好成績をとれる答案との区別ができていないようなので、後者の訓練を積むためにも予備校に投資した方が良いと思いますがね」

 法科大学院の教員から予備校の趣向を勧められるとは思っていなかったので、原田は内心動揺した。法科大学院の教員が安易に予備校を勧めてしまっては、自分たち法科大学院の教員に受験指導能力が無いことを認めてしまっているのではないかと思ったのである。

「まさか法科大学院の教員から司法試験予備校の受講を勧められるとは思ってもいなかったというような顔をしていますね。こう答えるのはこれで100万回目と言っても過言ではないのですが、別に私はどこかの予備校の関係者でも回し者でもないですよ。法科大学院の教員に受験指導能力が無いとまでは言いませんが、現実に法科大学院で合格に必要十分な受験指導をするにはどうしても時間的にも人的にも圧倒的に量が不足しています。そうした法科大学院で補えきれない部分を補うから予備校というのでしょうが。これは私見ですが、司法試験の受験資格は予備試験合格者に限定して、法科大学院教育は司法試験合格と司法修習の間にするのがある種の理想ではないかと思うのです。そう思わざるを得ないほど、法科大学院の教育は受験指導からはかけ離れています。それは毎年出されている法科大学院ごとの司法試験合格者の内訳を見れば分かることでしょう。そうした現実を冷静に割り切って、合格のために適切な予備校費というのも捻出した方が良いというのが、私からできる現実的なアドバイスですかね。勿論、こうして答案添削をはじめとしたオフィス・アワーなどの法科大学院の制度もキッチリ使ってくれれば教員はそれに応えますよ。そうですね、1週間後にもう一度同じ予備試験の問題を解き直してくれませんか。今回の形式的な答案作成の作法がどれ程身についているかチェックしようと思います。勿論、内容面でもコメントがあればコメントしようと思います。今日のところはそんなところでいいでしょうか」

「はい、分かりました。1週間後に今回先生から言われたアドバイスを参考にしてもう一度答案を作成して持って行きます。その時は、改めて宜しくお願いします」

「はい。念のため言っておきますが、答案作成の際は本番と同様に制限時間を守って作成してくださいね。制限時間内に作成出来た答案が自分の本当の実力を示す答案ですから。そのことを常に忘れないで過去問や答案練習に励んでくださいね」

 こうして、原田のオフィス・アワーは終了した。それ以降はオフィス・アワーの来訪者は無く、本日のオフィス・アワーは閉幕ということになった。

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「それにしても、受験生の文字について口うるさく言うのも実際のところどうなんですかね。殴り書きでも良いという合格者の意見もあるようなのですが。」

 オフィス・アワーを終えて浅野は桐生にこう問いかける。

「まぁ、合格者は思い出補正で何を言っても許される感はありますから。その合格者本人は殴り書きのつもりでも実際は十分に判読可能な文字であった可能性も否定できませんし。問題なのは、合格レベルにない受験生が自分に都合の良いようにその情報を捻じ曲げて解釈し、読みづらい答案を作成してしまうことで本番で不利益を被ってしまうことなのです。『これくらい汚い文字でも採点者はきっちり採点してくれるだろう』という根拠のない自信に基づいてね。実際、司法試験委員の採点者はどうかは分かりませんが、予備校では時々字の汚い答案に対して『読めないので採点不能』とコメントすることもあるようですよ。少なくとも、時々司法試験の採点実感に受験生の書く文字について言及されていることは無視できない要因だと考えます。用心に用心を重ねても良いのではないかと私なんかは思ってしまいます。もっとも、将来的に司法試験が手書きではなくパソコンのタイピングで論文試験を実施するようにでもなれば、受験者側も採点者側も色々無駄な苦労をしなくてもいいようになるとも思うわけですが。実際、将来実務家になればパソコンで書面を起案するのが当たり前だというのに、実務家登用試験である司法試験は手書きで答案を作成するのは不合理だという声も少なからずありますしね」

 実務家登用試験として合理的な制度が遠くない将来実現されて欲しい。同じ苦労をするならば、せめてその苦労が報われるような結果が一つでも多く現れて欲しい。法科大学院で教鞭をとる桐生としては、そう思わずにはいられなかった。

 なお、2026年から司法試験は手書き試験から脱却しパソコンによるデジタル方式の試験に変更されるようである。デジタル式の試験に変更されるに伴い桐生の受験指導も様変わりを迫られるのだが、それはまた別の話である。

第2話

 聖稜大学法学部では毎年オープンキャンパスが実施されている。その内容は、模擬裁判だったり、高校生向けの模擬講義であったりするのが主な内容である。聖稜大学法科大学院の教員である桐生は実は法学部でも教鞭をとっており、そのため、オープンキャンパスの準備にも追われている。

 桐生がわざわざ法学部の講義にも力を入れ、あまつさえオープンキャンパスの準備にも余念がないのは、より若人に司法試験を目指すという現実が如何にハードルが高いかを知らしめるためであった。最初から法科大学院への進学を促したり、まして司法試験に誘導しようなどということは桐生には当初から考えてはいないことであった。「自分の所属する法科大学院への入学者を増やさないとこちらの収入が減るだろう」「もっと法科大学院の魅力を伝えないと駄目だろう」「法律家を目指している若人のモチベーションを下げてどうする」などと他の教員からは注意されたりするが、当の桐生はそんな注意を意にも介さず、自分の伝えるべきことを正直に伝えることに全力を出していた。

 桐生はオープンキャンパスにおいて模擬講義を担当していた。主に未成年が来訪することが見込まれるオープンキャンパスにおいて、その未成年にとって身近な内容の方がより深く受講生の役に立つと踏んだのである。

 そうこうしているうちに、オープンキャンパス当日を迎えた。桐生の講義は『未成年と法律-カモにされないために知るべきこと-』というタイトルで注目を浴びていた。そのおかげか、桐生が講義を実施する大教室の8,9割はオープンキャンパスに来場した生徒で埋まっていた。未だ大学生ではない高校生相手であったとしても、桐生は普段と変わることなくいつも通りの調子で講義を開始した。

「こんにちは、皆さん。聖稜大学法学部、そして聖稜大学法科大学院で教鞭をとっております桐生です。私の専攻は民事法で、弁護士資格も持っております。そのような私が今回皆さんに大きく伝えたいことは二つ。一つは、未成年と成人の境目にいる皆さんが危機に陥りやすい法律問題について簡単な講釈をしたいと思います。皆さんくらいの年齢の人を都合の良いカモとして商売をしようとする輩が少なからずいますからね。そうした輩にカモにされないために予め法律知識という盾をささやかながら皆様に送りたいと思います。もう一つは、司法試験を受験するという一つのキャリア選択について話をしたいと思います。私自身法科大学院で教鞭をとっているものですから、司法試験の話題というのは少なからず避けられないわけです。もしかしたら、若い皆さんの中にも弁護士を始め検察官・裁判官といった、司法試験受験を視野に入れた人生設計を組まれている方がいるかもしれないので、そうした方々に向けて少しお話をしたいと思います。司法試験は自分には関係がないという人もいるかもしれませんが、今後大学卒業が近づいて就職活動をすることになった際に、いくらか参考になる点もあるかと思いますので、どうかお付き合い下さい。なお、質問があるならばいつでも手を上げて質問してくれても構いませんよ。私が一方的に話す内容よりも、質問から派生する話の方が存外本質を突いた話であることもよくありますから」

 普段の桐生のオフィス・アワーを知らない者からすれば比較的まともな挨拶から桐生の講義は始まった。

「それでは、早速最初の話に移りたいと思います。『未成年と法律-カモにされないために知るべきこと-』というテーマで簡単な講義をさせていただきたいと思います。皆さんの大半はオープンキャンパスに来られた高校生ということでギリギリまだ未成年の方もいるかと思います。あるいはもしかすると、既に18歳を迎えて法的には成人という方もいるのかもしれません。未成年と成人とではどう違ってくるのか、簡単にかいつまんで説明したいと思います。未成年というのは法律的には制限行為能力者の一種とされます。つまり、単独で法律行為が出来ない、具体的にはマンションの賃貸契約やスマホの購入、クレジットカードの作成といった行為は未成年一人だけで行うことは出来ない、ということです。より正確なことを言えば、親御さんなど親権のある者の同意がなければあとで未成年取消権という権利を行使することで、こうした取引をなかったことにすることが出来るのです。判断能力が未熟な未成年がしてしまった多額の金銭が動く取引について、後で取り消すことが出来るようにしようというわけです。未成年の皆さんの中には、親や教師など周囲の大人から『あれをしてはいけない』『これをするなら一言言ってからにしろ』などと言われ、堅苦しい思いをしたり、不自由な思いを抱いた者もいるかもしれません。しかし、法律学的に言えば、こうした未成年というのは周囲の大人達から知らず知らずのうちに守られているとも言い換えることが出来るのです。法律学で難しい言葉を使うと、『パターナリズムに基づく制約』なんて言ったりします。司法試験という文脈では主に憲法において未成年の権利制限という論点で出てくる言葉ですね。未成年が酒やたばこを購入してはいけないとか、本屋で成年向けの本、あえて包み隠さずに言えばエロ本を購入するのに18歳未満は立ち入り禁止にするだとかいう話は、このパターナリズムに基づく制約が根拠とされるわけです。ちなみに、現在では18歳が『成人』ということになったわけですが、それでも酒やたばこの購入は20歳になるまで禁止というのがルールです。ややこしいですが、大切なことなので注意しましょう。私は成人になってからわざわざ自分を害する酒やたばこを摂取したがる気持ちがいまいち理解しきれないのですが。まぁ、日本国憲法13条の幸福追求権の話を突き詰めれば、自分を害することになってもそれで幸福を得られるのならば他人に害を与えない限りそれを邪魔すべきではない、ということなのでしょうか。たばこに関しては副流煙の問題がある以上、公共の福祉に基づいて制限しても許される気もしなくはないと思うのですが、どうなんでしょうか。…おっと、こんな話を未成年に、ましてまだ法学部に入学したわけでもない皆さんにしてもかえって混乱させてしまうだけですかね。民法の話をしていたと思ったら、いきなり憲法の話が出てきてしまって困惑した人がいるかもしれません。ですが、法律というのは一見全然違う分野のように見えるものでも、実は根底で繋がっているものなのです。司法試験や司法書士試験といった難関法律資格の勉強を乗りきるコツの一つは、まず法律の根底は繋がっていることをいかに早く自覚できるかですからね」

 多少黒板にメモ書き程度に「制限行為能力者」「未成年取消権」「パターナリズム」と書いてはくれるものの、基本的には口頭で説明してしまう講義で手元に詳細な資料があるわけでもないから、桐生の講義を必死でメモを取っている聴講生は内心ヒィヒィ言いながらなんとかついて行けるように喰らいついていた。桐生のオープンキャンパス講義を聴きに来た聴講生達は「大学の授業というのはこのような感じで進むのか」と入学前から大学という学問を学ぶ場で最初の洗礼を喰らうことになったのである。

「話を戻しましょう。親権者をはじめとした大人には未成年の管理・監督権があって、それによって皆さんは守られているという話でした。勿論、大人は未成年を管理・監督できる権利を持っていたとしてもそれを濫用することは許されません。権利の正当な行使の範囲内なのか、権利の濫用に当たるのかは法律を眺めただけでは一概に判断は出来ませんが、こうした場合はさらに周囲にいる大人を頼ることが大切です。『人に頼ることは恥ずかしい』とか『俺は周囲の弱い人間とは違う。自分のことは自分で解決出来るぜ』と思う人もいるかもしれませんが、後で改めて説明するように、こうした人間こそが『カモ』として引っかかりやすいので、少しでも自覚があるとドキリとした皆さんは注意して今後する私の話を聞いて下さいね」

 オープンキャンパスであっても、桐生は相手の内心を突く言動をすることを止めたりはしない。むしろ、オープンキャンパスという非日常の空間において桐生は普段の講義よりも饒舌になっているのかもしれない。

「ここで、クーリング・オフという言葉を聞いたことがある方はいるでしょうか。一定の期間内であれば交わした契約を解除できる、つまりは返金対応が可能になるということなのですが、未成年者取消権というのはこのクーリング・オフの期間が過ぎてしまっても契約の取消しが可能になる、すなわち返金対応が可能になる、という強力な武器なんですね。未成年であればこうした武器を使うことで、うっかり誤った高額な取引に手を出してしまっても傷を最小限に防ぐことが可能でした。しかし、18歳が成年とされてしまった現在においては、皆さんは大学に入学出来る年齢になった時点で、この強力な武器を一つ失っていることになります。そして、この強力な武器を失った丸腰な皆さんをカモとして様々な手口の悪徳商法が皆さんに近づこうとしています。具体的に名を上げれば、かつてのマルチ商法、現在ではネットワークビジネスと言われているようになっています。他には、宗教勧誘、経済研究セミナー、エステ商法などです。こうした連中は、最初はアンケート調査などの名目で、なるべくハードルを低いところから設定して皆さんに近づいてきます。また、サンプルとして最初は無料、あるいは低額で商品を勧めてくることがあります。そこから徐々に高額な取引に誘導されるということもあります。最悪の場合は、『仲間と集団生活をするとなお効果が上がる』などとのたまって外界との情報や接触を遮断させようとする、いわゆるマインド・コントロールを行う者も出てきます。マインド・コントロールまでされるとそこから抜け出すのは困難です。マインド・コントロールまでされると『自分は間違ってはいない』という勘違いからさらに抜け出せなくなりますから、より被害は深刻なものになります。そうでなくとも、中途半端に大学まで進学できる頭脳をお持ちの方は『今更親に頭を下げることなんてできるか』などと浅はかなプライドに拘る割には具体的な解決方法を思いついたり実践することが出来ず、『ここに救世主が現れた』とばかりに『学生ローン』という消費者金融に手を出し結果として借金が重なり、意を決して親に相談を決めたところで借金が100万円を超えていた、なんていう話もあります」

 まだ大学に入学してもいない若人相手に容赦ないある種の現実を突きつけている桐生であるが、桐生に言わせれば「社会を知らない若人だからこそキッチリ伝えなければならない、ハッキリ教えないことは詐欺に加担しているも同じ」ということで、容赦なく講義を続けていく。

「マインド・コントロールから抜け出すには10年かかることも珍しくはないと言いますから、ニコチン中毒になりたくなければはじめからタバコを吸わなければいい、というように、皆さんもはじめからそうした怪しい取引や集団に自分から近づかないように自衛して下さい。もし、自分がそういう集団と運悪く接触してしまった場合は、とにかくその場から離れることです。あるいは、信用できる友人や親、教員、親戚といった人たちにSOSを勇気を持って出してみて下さい。もしこうした人がいないという場合でもご安心を。そうした場合は法テラスをはじめとした弁護士の無料相談や消費者ホットラインに相談してみて下さい。いざ自分がそうした被害に遭ってパニックになってしまうと、こうした知識はとっさには出てこなくなってしまうかもしれませんが、予め少しでも知っていることと全く知らないのとでは天と地ほどの差がありますから、余裕のあるときに少しでも勉強してみて下さい。大学受験を目前に控えている皆さんには他のことを勉強している余裕はないという方もいるかもしれませんが、わざわざこうしてオープンキャンパスに足を運んで下さった皆さんならばそれが出来ると信じております。とにかく、一番頭に入れておいて欲しいことは、『人間は自分も含めて間違うことのある存在である』ことと、『だからこそ周囲に頼れる人を一人でも多く増やそう』ということですかね。」

 最初の講義が一段落したところで、メモを取っていた受講生はホッとしていたが、桐生はここからが本領発揮と言わんばかりに次の講義の議題に話を進めた。

「さて、先程の講義で皆さんに『カモにならないように』と注意喚起を促したばかりですが、実は合法的な詐欺行為が大学で横行していると言っても過言ではありません。その合法的詐欺というのが法科大学院制度というものであり、司法試験受験という話なのです。ある種過激な発言だということは重々承知していますが、脳死状態で法科大学院にうっかり入学してしまうと法科大学院を修了しても司法試験に合格できないまま年だけを取り、高い学費やそれに伴う生活費を回収できないまま低所得に陥る、これでは詐欺ではないか!と後で気付いたところで後の祭り、となって欲しくはないので、ある種のキャリア教育としてあえて過激な表現を使わせていただきました。このようになってしまうのは少なからず司法試験を合格して法曹になるというキャリアを考えるにあたっての情報収集不足も一つの原因と考えられるので、大学入学を控えている皆さんにはさらにそのもう一歩先としての就職、あるいは司法試験受験というものについて知って欲しいと思うわけです。それでは、もう少しお付き合い下さいね」

 そう言って、桐生は講義を進めた。これこそが本日のオープンキャンパスで桐生の伝えたかったことなのである。そのため、余計にその講義には熱を帯びていた。

「まず、皆さんに知って欲しいことというのは、弁護士や検察官、裁判官といった職業に就くためには司法試験に合格する必要があるわけですが、現在司法試験の受験資格には大きく分けて二つしかないということです。一つは、法科大学院に入学して法科大学院を修了するというものです。最近の制度改革によって、法科大学院を修了した者だけではなく、法科大学院修了見込みの者も司法試験受験資格を得られる、すなわち法科大学院在学中に司法試験を受験出来るようになったわけですが、それでも法科大学院入学から司法試験の受験資格を得るまでに少なくとも2,3年は時間がかかると思って下さい。しかも、時間がかかるだけではなく法科大学院の授業料や生活費もかかりますし、勉強も司法試験の受験勉強だけでなく法科大学院の授業にもある程度対応する必要があります。司法試験受験までに資金と時間、二つの大きなコストを支払わなければいけないわけです。そして、新聞やネットでも報道されている事実なわけですが、法科大学院を修了したからといって確実に司法試験に合格できる保証はありません。司法試験合格率50%を超える法科大学院でも両手で数える程度の数に収まりますし、我が聖稜大学法科大学院は残念ながら合格率50%未満の中堅法科大学院でしかありません。その現実をまずしっかり認識して欲しいところです。『ウチの法科大学院ではこうした魅力的な教育メソッドがありますよ』などとパンフレットで無知な学生を騙そうと必死こいてますが、純粋に法科大学院にそこまでの魅力と実績があるのなら、法科大学院入学志願者が、ひいては司法試験受験者が全体的に減少している現状を説明できません。そもそも法科大学院教員の大半は、司法試験も受験したことのない大学教員なのです。自分の担当科目については勿論教えることは出来るでしょうが、だからといって受験指導まで出来るわけではないのです。受験生には過度の期待を要求する反面、本当に受験生に必要な指導をしているかといえば甚だ疑問です。法科大学院がそうした体たらくなわけなので、事実上法科大学院とは別に司法試験予備校とのダブルスクールに通うことが現実的な司法試験合格を見据えた戦略となっています。法科大学院生の司法試験合格者の中で予備校利用者の内訳なんかももっと正直に明確化しても良いと思うんですよね。それでどれだけ司法試験の合格に寄与した教育がなされているか分かると思うのですが。まぁ、あまりそういうのが表沙汰にならないというのは、つまりはそういうことなのでしょうが」

 いきなり自分の所属している法科大学院のネガティブキャンペーンを始めて受講生は面喰らったが、反面ここまで正直なことを言う桐生の講義を物珍しいものとして逆に素直に聞き入れていた。

「一方、法科大学院修了とは別の司法試験受験資格を得るのが、予備試験合格というルートです。この予備試験というものに合格すれば、法科大学院を修了していなくとも司法試験の受験資格を得ることが出来ます。建前上、この予備試験という制度は法科大学院に進学する経済的余裕のない者が法曹になることを諦めないようにという理念で実施されましたが、現実には法科大学院にわざわざ入学しなくても司法試験を受けられるということで優秀な学部生が予備試験受験者の大半を占めるという本末転倒な結果になっています。実際、予備試験の合格者は高偏差値の難関大学の学部生、次いで難関法科大学院在学生という風になっているようですね。現実に社会人で予備試験に合格できるのは少数派ということです。予備校では『社会人でも予備試験に合格』ということをパンフレットに堂々記載しているわけですが、その再現性がどれ程あるのか、現実の合格率と併せて一度冷静になって考えてみる必要があります。そんな予備試験の最終合格率はだいたい3~4%程度と、旧司法試験並みの難易度になっています。苦労して入学した大学の学部生活をほとんど予備試験の勉強に注ぎ込んだとしても報われないかもしれない、確たる数字がそこにはあります。では、そんな予備試験に合格して良いことがあるかといえば、司法試験という文脈においては勿論あります。予備試験という難関試験を経て司法試験の受験資格を得た者の司法試験合格率というのは、どの法科大学院よりも圧倒的に上なのです。大手の法律事務所ではこの予備試験をパスしたかどうかというのも内定選考に関わるようです。この予備試験は首都圏や京都、大阪といった関西の一部地方で熱心な受験生が多く、それ以外の地方だと予備試験には消極的になるといった傾向があります。そして、予備試験に対する熱心さと最終的な司法試験合格率には正の相関関係があるのではないかと個人的には思います。弁護士・検察官・裁判官は全国どこでも需要がある職業ですが、本気でこれら法曹といった職業を目指すのであれば、『首都圏またはそれに準ずる場所への進学を考えた方が法律家という夢の実現には近そう』という結論が導かれます。幸いにも、ここ聖稜大学法科大学院は首都圏には校舎を構えているので、そういった意味では聖稜大学は恵まれていると言えるかもしれませんね」

 ここまできて喋り一辺倒だった桐生は、一度水を飲んで小休憩を挟んだ。そして、水を飲み終えた桐生は再び講釈を始めた。

「司法試験と同様に、予備試験を突破するのにもどうしても独学では限界があります。少なくとも、多くの人にとってはそうでしょう。なので、予備試験突破にも予備校費が少なからずかかるというわけです。皆さんも大学入試という場面では少なからず予備校の世話になって、仮に司法試験や予備試験を受験することになるとしたらまた予備校の世話になるのかとうんざりする人もいるかもしれませんが、予備校に費用を投じることで自分で合格に必要な情報を精査する手間を省くことや実践的な問題演習を必要十分重ねることにより、独学よりも効率的に合格に近づくことが出来ます。司法試験予備校の費用も決して安くはありませんから親御さんに頭を下げる人の方が多数派になるかもしれませんが、これを自己投資と割り切るかは皆さんの判断に委ねたいと思います。大事なのは、『皆が利用しているから何となく自分も』といったような消極的な姿勢で予備校を選択しないで下さい。今時はYouTubeなどで一部講義を視聴できることも多いでしょうから、実際にいくつか予備校のサンプル講義を視聴してみて自分に合ったものを、この先生の講義であれば学習を継続できると確信を持ったものを選ぶようにして下さいね。大学に入学した時点で年齢的には大人とみなされますから、冒頭の繰り返しになりますが予備校や、あるいは法科大学院のカモにならないように、自分で最低限の情報を収集したり、周囲に相談するといったことを忘れないようにして下さいね」

 一息ついて、桐生はあることを思いだしたかのように次のことを述べた。

「さて、皆さんの中には『どうして目の前にいる桐生という教員は、大学のオープンキャンパスで司法試験予備校のことを勧めているのか』と疑問に思っている人もいることでしょう。『大学教員であるならば、もっと大学という学問の場をアピールすべきではないか』と。念のため言っておきますが、私はどこかの予備校関係者でも予備校の回し者でもありませんよ。一方で、弁護士資格を有しており弁護士事務所も一応経営している特任教授ですから、純粋な大学畑しか歩んでいない大学教授達とも立場は異なります。なので、そういった特殊な立場にいるからこその注意点を皆さんにお伝えできればと思っているのです。大学というのは学問を学ぶ場所、つまりは真理を探究することが目的の一つとなる場所です。そこでは、ある種の経済的合理性から離れたことをすることも許されています。世俗を離れることでより真理に近づける仙人みたいなものでしょうか。一方で、実社会で生活するための学びというものがあります。各種の資格試験であったりとか、公務員試験なんかもそうと言えるでしょう。こうした種類の学びというのは、とにかく効率性と合理性、いってしまえば事務処理能力が要求されるものです。この事務処理能力というのを純粋な大学教育だけで養成するのは困難です。なので、予備校に通って別途資格試験に必要な事務処理能力を訓練する必要があるわけです。この真理を追究する勉強と、事務処理能力向上を目的とした勉強を混同してしまうことが、司法試験などの難関試験になかなか合格できない理由の一つだと思うのです。自分は司法試験という、より高度の事務処理能力を磨く勉強をしているつもりでも、独学では自然と真理を追究する勉強へと方向が傾きがちになることは珍しくないです。こうした間違った勉強をしてしまわないことが司法試験受験を考える上で私が予備校を勧める理由です。法科大学院はどちらかといえば真理を探究する側の教育機関なので、事務処理能力は別途自分で養成する必要があるのです。大事なことなので、今のうちから皆さんにこうしたことをお伝えした方が良いと思いました。」

 桐生はオープンキャンパスという場面においても普段の講義やオフィス・アワーと変わらない態度で学生達に正直なことを伝えるように努めていた。

「今回はあくまで、司法試験を受験するという一種のキャリアについて掘り下げて説明しましたが、一般的な就活や他の公務員試験についても同様のことが言えます。純粋に学問を追究する場で皆さんの個別具体的な就職先に関する情報やノウハウを知るのには自ずと限界があることが分かるでしょう。一口に大企業といっても業種や職種、勤務地によっても給与や待遇も変わってきますし、同様に公務員といっても国家公務員なのか地方公務員なのか、はたまたどの職業としての公務員なのか、ゴールをハッキリ具体的に認識できていないとそこに至るまでの対策を間違えてしまうこともよくあることです。皆さんにとっては志望する大学の具体的なゴールを間違えて対策してしまうと不合格になる、といった方が伝わりやすいでしょうか。こうした皆さんがよりよく生きていくための知識は、天から授けられるようなものではなく、自分から動かねば得られないようなものです。皆さんは、まず大学受験という場で自分に必要なものを知り、取得するための訓練だと思って日々受験勉強に励んでいただきたいものです。こうした訓練をしたことは、後の人生においても必ず役に立ちます。願わくば、この聖稜大学で皆さんと再会することを楽しみにしていますよ」

 こうして、桐生のオープンキャンパスでの講義は終了した。オープンキャンパス講義の終了後、桐生は質問の時間を設けた。大多数の聴講生はそそくさと講義室を離れていったが、何人かが教室に残り、桐生に質問をすることになった。

 まずは、一人の女学生が桐生に質問することになった。

「私は、将来的に独立したキャリアを目指そうと弁護士を志望している者です。ですが、周囲に法律に明るい者はおらず、私が弁護士になるのに反対する人も少なからずいます。『弁護士は男社会だから女はやっていけない』とか『女性が社会進出して高い地位に就くと結婚できなくなる』とか。余計なお世話という感じなのですが、実際に私も経験していない以上こうした言葉の方が本当なのではないかと不安になってしまう日も正直あります。そこで、先生に本当のことを教えて欲しいと思ったのですが、実際のところ女性が弁護士を目指すのに不利なことはあるのでしょうか」

 そう質問されて、桐生はこのように答えた。

「なるほど。その年でそこまでハッキリ自分のキャリアを見据えているとは立派です。一方で、今後弁護士を目指すことに不安も覚えていると。まずは、不安を払拭することから始めましょうか。『弁護士は男社会だから~』の下りですが、数十年前ならいざ知らず、法科大学院制度をはじめとした司法制度改革によって、女性弁護士を始め女性の法律家というのも随分増えました。それに伴って、女性でも働きやすい環境になったことは事実と言えます。弁護士も民間で働いていることには間違いないので、下手に女性を不遇に取り扱っていることがばれようものなら直ちにコンプラ違反という悪評がついて回ることになりますからね。男社会ということでいうならば、むしろ検察官の方がまだその風潮が残っていると聞いたことがあります。もっとも、現在ではまだマシな方にはなっているのでしょうが。弁護士を目指しているということであれば、もし自分が弁護士になってどこかの弁護士事務所で働くことになった場合、職場の環境がどうしても自分に合わないようなら独立して自分にとって働きやすい環境を自分で整えてしまうということも十分できると思いますがね。あと、どうしても司法試験受験生の受験率・合格率を見ると女性は少数派という数字が出ていますが、これはそもそも全体として女性の出願者が相対的に少ないからであって、司法試験委員の側で女性を不遇に取り扱おうとしているということではありません。かつて、とある医学部入試で女性や浪人生の配点を不当に低く扱うといった事件が報道されましたが、司法試験においてはそうした得点操作は行われません。そもそも、司法試験の論文試験などは個人情報は伏されて答案の内容だけで採点されますし、公平性を確保するために複数人で採点しますから、なかなか現実に特定個人を有利・不利に扱うのが難しいのです。昔、司法試験の問題が一部の受験生に漏洩したという問題もありましたが、漏洩させた側には東京地検特捜部の任意同行が待ち構えているので、そうしたリスクを取るようなことも滅多にあるものではありません。そういうわけですから、女性であることを理由に司法試験の受験が不利になるということはないのでそこは安心してください。逆に言えば、女性であることを言い訳にはできないということでもあるのですが」

 桐生は時々余計なコメントを挟みつつも、女子学生の質問に丁寧に返答を返していく。こうした一対一の質疑応答こそが桐生という教員の本領が発揮される場面なのであった。弁護士資格を持っていることは伊達ではないのである。桐生の返答はまだ続いていく。

「次に、結婚などのステータスについてですが、結婚するかしないか、子供をもうけるか否かといったことはこれは昨今は個人の選択が尊重されるので一概にどうこう言えたことではありません。ただ、ここでどうしても考えざるを得ない現実のデメリットとして、司法試験の受験を選択するとなると、貴重な若い時間を浪人することによって何年か浪費してしまうリスクがあるということです。どうしても司法試験や予備試験は難しいですから、浪人することは珍しくないとはいえ、女性の場合はその点悠長に考える余裕はあまりないのも事実です。女性というのはどうしても労働適齢期と出産適齢期が重なってしまうという事情がありますから。その適齢期を浪人生活で潰してしまうのは得策とは言えません。なるべく浪人というリスクを回避するのならば、学部生の内から予備試験を本気で受験して、予備試験の結果を見て改めて将来の進路を考え直すというのはどうでしょうか。学部生ならば、新卒での就活や公務員試験に舵を切り替えることも比較的容易です。今の貴方は司法試験に合格して弁護士になることしか目が向かないと思いますが、人生は何が起こるか分からないもの。もしかしたら、大学に合格してから、あるいは、大学入試に向けて勉強している最中に自分の興味や関心が変わることも珍しくはありません。現状の目標のために頑張ることは素晴らしいことは言うまでもありませんが、その過程で新しい目標に出会うことだってあり得るしそれも素敵なことです。まずは本気で目の前の課題を突破することに全力を注いで、その都度目的を再確認するというのはどうでしょう。先程の私の講義では法科大学院についてあえてあまり良い印象を与えるようなことはしませんでしたが、法科大学院に進学してからでも進路選択するにあたって遅いということはありません。法科大学院に進学すると司法試験に合格することばかりに目が行きがちですが、法科大学院から公務員試験に転向したり民間就職をする人も一定数います。とにかく、結果を出し続けていけば周囲もあまりうるさいことは言わなくなるでしょう。目標が実現できるように頑張って下さい。私から言えるのはこれくらいですが、大丈夫ですか」

「はい、丁寧に答えて下さってありがとうございました。頑張ります!」

 こうして、最初の質疑応答は終わった。自分の質問待ちをしている学生達も他人の質問への回答を熱心に聞いているようだった。次に質問してきたのは、垢抜けない印象のある青年であった。

「僕は地方から上京してこのオープンキャンパスに参加しました。私立はこの聖稜が志望なのですが、出来れば地元の国立大に進学して、その地元の法科大学院に進学して弁護士になりたいと思っています。弁護士としても地元で働き続けたいと思っています。先程の先生の講義を聞くと、地方は弁護士を目指すには向いていないという印象を受けたのですが、地方では他にも何か弁護士を目指す上でデメリットがあるのでしょうか」

「地方からわざわざ来て下さりありがとうございます。地方のデメリットといいますか、どうしても首都圏と地方では予備試験に関する熱量が違うというのが挙げられますね。そして、この熱量の違いは受験生の『当たり前』の基準を、ひいては司法試験受験のモチベーションに少なからず影響を与えます。どういうことかというと、『予備試験という難関試験を経て司法試験合格を目指すのが当たり前』という環境にいるのと『とりあえず法科大学院を修了して司法試験合格を目指すのが当たり前』という環境にいるのとでは、どちらが本当に司法試験の合格率が高くなると思いますか?当然、前者ですよね。では、どうして予備試験に関して首都圏と地方ではここまで受験に意識の差が出てしまうのかといえば、私が思うに予備試験の試験会場が極端に限定されていることが少なからず影響を与えていると思うんです。予備試験は短答試験、論文試験、口述試験と進んでいくわけですが、試験が進む度に受験会場が限定されていきます。短答試験の会場でだいたい主要7都市に限定されます。四国や沖縄の予備試験受験生は短答試験を受験するだけでよその地方に宿泊遠征費を要求されるわけですね。論文試験になると4都市に減るわけです。最後の口述試験は法務省管轄の施設が会場となり、ほとんどの地方受験生が遠征宿泊費を捻出することが強制されています。予備試験は実施会場の面で首都圏に在住していることが極めて有利な試験となっているわけです。そうした試験会場の偏在が、法科大学院生の間で勉強の意識に格差を生じさせているのではないかと私は思っています。予備試験の会場くらい全国でもっと拡充すべきだと私は思いますね。公平な受験機会を確保してやることが試験主催者の最低限の責務だと思うのですが。まぁ、そんなことをここで愚痴ってもしょうがないですね。そういうわけで、より合格する可能性の高い環境を得るという意味で、地方よりは首都圏に進学する方が司法試験というキャリアを考える上で重要と言いました」

 桐生は、講義だけでは十分に説明しきれなかった大事なことをこうして質問に来た学生には分け隔て無く補足説明を加えることにしていた。それはオープンキャンパスにおいても変わりは無かった。予備試験について桐生なりの考察を加えつつ首都圏と地方における受験意識の格差を詳しく説明していく。

「また、司法試験予備校についても首都圏や地方では格差があります。首都圏ではいくつも司法試験予備校が校舎を構えていますが、地方には司法試験予備校の校舎が無いことも珍しくありません。地方在住の受験生はオンライン一択になるのが現実です。オンラインで首都圏の受験生と同レベルの講義が受けられるのだから問題はないかというと、決してそうとも言い切れません。疑問に思ったことがあったとしても校舎の無い地方の受験生の場合、疑問に対する解答が得られるまでにタイムラグが生じることがあります。校舎にいる講師に直接質問できる環境とはわけが違います。また、オンラインのみで受講となると対人関係が孤立してしまいがちです。自分でSNSなどを活用して受験生仲間を作れるというのであればまた話は変わってくるのでしょうが、直接的な人間関係がないとどうしても人間はおかしくなってしまうものです。先程の環境の話にもなりますが、周囲の目がないとどうしても自分に都合の良い情報だけを好んで摂取するようになり、逆に必要だけれども自分にとっては受け入れがたい事実を避けるようにもなります。何より、地方と首都圏では司法試験受験生の時間は平等ではないのです。オンラインの受講といっても多くの場合はリアルタイムで共有されるものではなく、首都圏の校舎で行われた講義を録画編集したものを後で郵送するという形で提供されるものとなります。なので、同じ講座を取ったとしても、校舎のある首都圏と地方でオンラインで受講している受験生とでは1週間ほどのタイムラグが生まれます。論文試験の添削も地方の場合は答案を郵送するかメールにファイル添付という形に限定されるので、リアルタイムで添削される首都圏の受験生と比して数日タイムラグが発生することになります。こうしたタイムラグが積み重なっていくと、本番当日は全国どこにいても同じ日にやって来るのに地方の受験生はいくらか周回遅れを感じても不思議ではないでしょう。大学受験レベルであれば全国に需要がありますから予備校の講義をどこでもリアルタイムで・校舎で受けられることに不思議はないのかもしれませんが、司法試験という場面においては、首都圏か地方かでも予備校選択の幅がだいぶ変わってきます。そういうわけで、本気で法曹を目指すのであれば、首都圏に進学することを勧めています。本当はどの地方に在住していたとしても平等に質の高い法律教育を受けられるようにするのが理想なのですが、いかんせん現実はそう甘くはないのです。地方で現実的に司法試験受験を考える上で考えられるデメリットと言えば、そんなところでしょうか。地元で弁護士になることにこだわりがあるというのであれば、地元の大学や法科大学院に進学すれば、後に地元で弁護士として就職するにあたっていくらか人間関係があることで有利になることはあるでしょうがね。あくまで地元で勉強することそのものを否定するわけではありませんが、その場合は自分で受験に適した環境を作らなければ合格から遠ざかるということは頭の片隅に入れておいて下さい。これは大学受験でも同様のことが言えますが。長くなってしまいましたが、大事なことは常に自分を意識の高い環境下に置くということです。そんなところでよろしいでしょうか」

「はい。わかりました。具体的なアドバイスありがとうございます。もう少し自分の大学の選択について考え直そうと思います。」

 垢抜けない学生は自分の中にあった疑問がすっかり解決したようであった。司法試験において地方との受験格差も見て見ぬふりは出来ないことであると改めて桐生は思い至っていた。そんな桐生は次の質問で思わず意表を突かされることになる。質問してきたあのは、内気そうな女子であった。

「えぇっと、私は一応、法学部志望の者です。まだ将来のこととか全然考えられてなくって、弁護士になるとかハッキリした目的は今のところは無いんですけど、何となく法学部の雰囲気がかっこいいなぁと思って、法学部を志望しています。ただ、成績が全然法学部の要求する偏差値に届かなくって、担任の先生からは他の学部に変更することを勧められています。でも、私は法学部を諦めたくないので、何とか法学部に進学できるように勉強を頑張りたいと思います。全体的に得意科目というのも無いんですが、大学の先生から見て、大学受験で合格するために、まず何から優先的に勉強した方がいいと思いますか?」

 普段司法試験受験生のことばかり見ていたから、そもそも司法試験より前の大学入試について質問されるのは桐生にとっては新鮮であった。桐生自身は大学入試から20年近く時間が経過しているので、現在の大学入試に対して詳細なアドバイスをできる自信は無かったが、それでも大学入試において受験生に求められる本質は変わらないだろうということで、こうアドバイスをすることにした。

「貴方の具体的な成績の状況が分からないので、具体的にこの科目から優先的に勉強しなさいということはできませんが、全体的に得意科目が無いということでしたら、まずは日本語をキッチリ論理的に読む訓練を、具体的には国語の現代文の対策をすることから私は勧めます。問題文も基本的には日本語で書かれているわけですから、出題者の意図を正確に把握できていないとどれだけ知識を詰め込んだところで正解を得られないことになります。そんな状況で勉強を積み重ねてもハッキリ言って時間の無駄です。逆に言えば、キッチリ出題者の意図をくみ取る訓練ができていれば、知識の量自体は少なくてもその場の推論で正解を導き出すこともできます。大学入試だけでなく、公務員試験や、司法試験でもこの出題者の意図を読み解く訓練というのは有用です。その出題者の意図を読み解けるようになる訓練というのが、日本語の文章を論理的に正しく読み取るということなのです。大学入試ということであれば、予備校を使わなくとも書店の参考書コーナーで大学入試の現代文の参考書も豊富にあるでしょうから、自分に合うものを選んでみるというのが現実的だと思います。あとは、大学入試の科目に要求されているかは不明なので絶対にこうしろと強く勧めることはできませんが、できれば数学の勉強もした方がいいとは思います。といっても、法律学で三角関数の公式を使うだとか、微分・積分の計算をするとか、数学そのものの知識を使うということではありません。何故法律を学ぶにあたって数学の勉強が有用なのかといえば、数学という言語を使って相手を論理的に説得する訓練になるから数学の勉強を勧めているのです。大学入試の二次試験において数学が課される場合、答えそのものというよりは答えを導く過程が重要とされています。答えの数字が合っていたとしても答えを出すまでの過程に誤りがあれば点数に直結しないということです。同じことは司法試験の論文試験にも言えます。数学という言語を用いて相手を納得させるだけの、言い換えれば点数が入る表現の練習をすることは、法学部に進学した後でも必ず役に立ちます。そういうわけで、得意科目が無い状態で大学入試の勉強を何から始めるべきかといえば、私であれば国語と数学という風に答えますかね。付け加えるのならば、大学受験という場面においていうならば、英語の比重も大きいと思うので、可能な限り英語の学習にも時間を充てるべきだと思います。あくまで私のアドバイスは抽象的なレベルに留まるので、具体的な試験科目などの確認や対策については自分でやってくださいね。頑張って下さい」

「分かりました。ありがとうございます。大変ですけど、精一杯頑張ってみます」

 なんとか満足してもらえたようで桐生は安心した。大学入試を目前に控えている高校生にとっては大学入試の攻略に役立つコメントを講義の中でしておいた方が良かったかと個人的に反省していた。いや、大学入試については散々高校や家庭、大学受験予備校などで嫌というほど聞かされているはずだ。そうであるならば、オープンキャンパスという日くらい、大学入試からは離れた情報を提供するのも悪くないはずだ、オープンキャンパスに来た学生もそれを期待しているはずだ、と桐生は自己弁護に走った。

 そうこうしている内に、男子学生が最後の質問にやってきた。彼にはどこか遠慮しがちな様子が見受けられる。

「あのぉ、実は僕じゃなくて、祖父の進路についての相談なのですが、それでも大丈夫でしょうか」

 祖父の進路相談?一瞬面を喰らったが、桐生は

「えぇ。大丈夫ですよ。ただ、祖父の進路相談と言われても具体的にどんな問題があるのかよく分からないもので、もう少し詳しく説明してもらってもいいですか」

 何だか面倒臭そうな話になりそうだなと桐生は内心思った。勿論、そんなことは決して態度に出すことはしないが。

「はい。僕自身は経済学部志望で、法律には正直言って特に興味はないです。まして司法試験なんて自分には縁のない別世界の話のように思えてしまって。すいません。法律に興味あるのは僕の祖父の方なんです。祖父は既に定年を迎えて退職して年金で暮らしていますが、数年前に一度裁判員に選ばれたらしいんです。仕事一筋だった祖父は当初自分が裁判員として裁判をすることに否定的でした。そんなことは専門職である裁判官がすればいい、素人の自分に何が出来るものかといった感じで。それが、いざ裁判員をやってみると予想以上に裁判を巡る過程が面白かったのか、『定年退職したら裁判官になる』って言い始めたようで。当初は冗談だろうと思っていたんですが、実際に退職して年金暮らしを始めると、全国の法科大学院の資料請求をし始めたんです。『司法試験の合格率を考えると東大の法科大学院辺りが望ましいが、自分が合格できる大学院ではない。もっと自分の学力にあった法科大学院はないか』といった様子で。祖父が法科大学院を調べ始めるまで親戚一同誰も法律業界に詳しくないので、司法試験に合格するまでどれだけ経済的な負担がかかるか具体的にもよく分かってなくて。預貯金を切り崩せば数年はなんとかなるって息巻いてるんですけど、老後に蓄えておいた資金をいきなり法科大学院につぎ込むって言われた祖母は寝耳に水といった感じで。下手をすると、離婚問題にまで発展しかねないと戦々恐々なんですよ。個人的には祖父がこれから裁判官を目指すっていうのがどうも現実的ではないような気はしてるんですが、知識がないのに下手に説得しても聞く耳持たずなわけでして。そこで、両親から、『オープンキャンパスに行くのなら、法学部の先生に祖父のことについて相談してみてくれ』って言われまして。正直、予備試験なんてものがあること自体この講義を聞いて初めて知りました。勿論、祖父が予備試験なんてものを知ってるわけがありません。先生、一体どうすればいいでしょうか」

 話を聞いて、桐生はどこから話したものかと考えあぐねていた。そもそも、当事者がいないのであればここで話をしたところでどれだけ効果があるものかと思っていたのだ。だからと言って、適当な返答で言葉を濁しても、せっかく自分の本来の志望先でもない講義を最後まで聞いてくれた目の前の学生に失礼な気がするとも思っていた。そんな時、ふと思いついたことがあった。

「もしよかったら、そのお爺様と直接対話することは出来ませんか。電話とか連絡先はご存じないですか。よろしければ、直接私が説明したいのですが。」

 予想外の返答に学生は面喰らっていた。まさか、法学部志望でもない自分のためにそこまでしてくれるのかと思ったのだ。あっけにとられていたその学生は、

「スイマセン、自分は直接は知らないです。でも両親だったら知ってると思うので、まずそっちに確認してみますね」

 そう言って、両親に祖父の連絡先を聞くことにした。両親から祖父の連絡先を聞いた彼は直接祖父の電話番号にかけることにした。運良く繋がったようで、桐生が彼の代わりに話をすることになった。

『お電話変わりました。私、聖稜大学法科大学院で教員をしております、弁護士の桐生と申します。本日は、聖稜大学のオープンキャンパスにいらしたお孫さんから貴方が裁判官を目指していると伺いまして、直接お話しをしたいと思い、こうしてお電話を差し上げました。』

 桐生は電話越しに軽く挨拶を交わした。そうすると、電話の向こうから

『おぉー、法科大学院の先生ですか。わざわざお電話くださりありがとうございます。こうして法科大学院の先生とお話しできて光栄です』

 と声がした。桐生の最初の印象は、受け答えに問題はなさそうだから認知症の気配はないということを確認した。その上で真実をどう伝えるべきか必死に頭を働かせながら、考えながら会話を続けることにした。可能な限り電話越しの相手を怒らせるようなことは流石の桐生もしたくなかったからである。本当はそこまでしてやる義理もないはずだが、それにしてもここまで頭と気を使うのは久しぶりだなと桐生は思った。

『ありがとうございます。さて、裁判官を目指されているということでしたが、失礼ですがご年齢はおいくつですか』

『私は現在は66歳ですが、裁判官を目指すのに年齢って関係ありましたか?確か司法試験には年齢制限はなかったはずですが』

『えぇ。司法試験の受験資格自体に年齢制限があるわけではありませんが、裁判官となるには年齢が一種の重要な要因となりますので。…例えばの話ですが、貴方のお子さんあるいはお孫さんが35歳を過ぎてから急に公務員になると言い始めたとき、貴方ならどう思いますか』

『えぇ?それは、考え直せと忠告するんじゃないですかね?確か公務員試験って年齢制限があったはずでしょ?30歳くらいが受験資格の上限であるところが多かったはずですが』

『それと同じことを今貴方はしようとしているんです。確かに、司法試験の受験資格自体に年齢の制限はありません。ですが、裁判官を目指す場合となると話が変わってきます。司法試験に年齢制限が無いのは弁護士を目指す者も受験するからであって、司法試験の実態としては裁判官登用のための国家公務員試験というのが本当のところなのです。裁判官になるにふさわしい人間かどうかを選抜するのが司法試験という試験の本質なのです。そして、他の公務員試験と同様に、任官条件には年齢が絡んできます。大体他の公務員と同様に、司法修習が始まるまでに30歳以下というのが一種の暗黙のボーダーとでも言うべきでしょうか。まず、それが一点目。二点目に、裁判官は司法試験合格後に行われる司法修習で優秀な成績を修める必要があります。普段の修習の起案はもちろんのこと、司法修習の最後に行われる二回試験という試験でも優秀な成績を修める必要があります。優秀な司法修習生に現職の裁判官から任官の声がかかるというわけですね。そして、現状の貴方の司法試験に向けての準備段階といいますか、情報収集という点で他の優秀な受験生に大きく後れを取ってしまっていると思われます。予備試験という試験について聞いたことはありますか?』

『いえ、初めて聞きました。その予備試験が司法試験なり裁判官と何か関係があるというのですか』

『大いに関係あります。予備試験というのは、言ってしまえば法科大学院を修了しなくても司法試験の受験資格を得られる試験のことです。現在の司法試験制度において、優秀な学生というのはまずこの予備試験の合格を目指して法律学習を進めています。その予備試験のことを一切知らないまま法科大学院だけに意識が向いているというのは、司法試験受験以前の情報戦で他の司法試験受験生に大きな後れを取っていると言わざるを得ません。』

『…』

 電話越しからでは相手が驚きのあまり声を出せずにいるのか、それとも怒りをどうにかこらえているのか、はたまた悲しんでいるのか、ハッキリとした様子は分からなかったが、それでも桐生は淡々と説明を続ける。

『それと、これは仮に貴方が裁判官になれると仮定した場合の話となりますが、裁判官の勤務実態というものについて御家族の協力を得られるかという話も見て見ぬふりをすることはできません。というのも、裁判官というのは転勤というものが付き物です。ずっと同じ裁判所で仕事をするというものではありません。ずっと同じ場所で裁判官として仕事をしていると地域との癒着が起こり公平な裁判ができなくなるという可能性を防ぐために、定期的に裁判官を転勤させることで裁判の公平性を保とうという趣旨なのですが、貴方が裁判官として転勤する場合、御家族はどのように生活するかキッチリ考えていらっしゃいますか?持ち家があるのならばその持ち家をどうすべきか、単身赴任という形を取るのか一緒に家族と移住するのか、そもそも転勤ということについて御家族は了承済みなのか…といったことです。奥様がいらっしゃるという話は伺っていますが、貴方が裁判官を目指すにあたって奥様とどこまで本気でお話をされていますか?』

『…正直に申し上げますと、自分が裁判官になることだけにしか意識を向けておらず、裁判官になった後の生活というものを具体的にそこまで考えても、まして家内と話し合いをするということはしていませんでした。司法試験合格に向けて勉強していれば、自分は裁判官になって全てが上手くいくと思っていましたが、現実は私の想像以上に厳しいものだったのですね。』

『もっと言ってしまえば、裁判官には定年というものもあります。基本的には65歳が一般的な裁判官の定年、長くても70歳が限界といったところでしょうか。仮にこれから最短ルートで貴方が裁判官になれたとしても、貴方が裁判官として仕事ができるのはわずか1年程度ということになります。あえて厳しいことを申し上げますが、社会人を経験されてもなお御自分のその後のキャリアについて深く正確に調べ上げることができていらっしゃらない現状を鑑みると、ただの現実逃避とみなされても文句は言えないと思います。このまま貴方が裁判官になることを目的に闇雲に法科大学院進学を考えることは控えめに言って自殺行為に等しいとさえ言えます。この法科大学院進学が貴方の家庭を壊すきっかけになる可能性も極めて高いです。以上のことから、個人的に貴方が裁判官を目指して法科大学院に進学することはオススメしません。老後の資金を法科大学院に投じようとしているとかで、そのことが原因で離婚のリスクも生じているとか。』

『離婚ですか!?いやぁ、流石にそれは言い過ぎではないですか?…いや、今までの話を聞いているとそういうことなのか…?』

『私はお孫さんから離婚の可能性があるという話を聞いただけです。なので具体的にどこまで離婚の可能性があるのか断言はできかねますが、もし今まで仕事にかまけて奥様をないがしろにされてきたというのであれば、貴方が闇雲に法科大学院進学に拘るとなると、いよいよ愛想を尽かされたとしても不思議では無いと推察します。先程、奥様と裁判官になることについて話し合いをしたことが無いとおっしゃっていたかと思いますが、まずは今まで自分を支えてくれた奥様に感謝と謝罪の意を伝えるべきかと思います。老後のキャリアについてはそれから考えても遅くは無いと思いますよ。』

『…そうですか。言われてみれば、確かに家内のことはほとんど意識の外にあったような気もします。だから法科大学院のことしか考えられなかったとも思います。流石に、今更離婚してまで裁判官になろうという気概はありません。…なかなか事実を受け止め切れていないところはありますが、裁判官を目指すことはやめておこうかと思います。そうすると、老後の生活はどうしたものか。何だか勉強しようという気も薄れてしまいましたが、どうすればいいのでしょう』

『あくまで、貴方の年齢で裁判官を目指すというのが非現実的という話であって、法律を勉強すること自体は否定しません。法律に関する資格であれば例えば弁護士以外にも行政書士や社労士などもありますし。ただ、御結婚もされている以上、貴方だけの人生ではありませんから、奥様や他の御家族とも上手く関係を維持したまま次のキャリアについて話し合いをすべきだとは思いますよ。もし御自分のキャリアについて上手く想像できないようでしたら、逆に奥様に今後どうしたいか聞いてみるのはどうでしょう。もしかしたら、本当は奥様の方に何かやりたいことがあるのかもしれません。もし奥様に何かやりたいことがあるのなら、今度は貴方が奥様を支える・応援するというのはどうですか。そばにいる貴方だからこそできることもあるはずです』

『…家内のやりたいこと、ですか。そんなこと想像さえしたことも無かったです。…思えば、家内と話し合いをすることさえ長年無かったような気もします。大体いつも二言三言必要最低限の会話で終わってしまっていたような気がします。…そんな家内に甘えていたんですかね。先生の言う通り、色々家内と相談してみます。家内が本当はどう思っているのか、ちゃんと聞こうと思います。ありがとうございます』

『いえ、お役に立てたようで何よりです。それでは失礼します』

 桐生がそう言うと、相手の通話が途切れた。相手が自分の当初思い描いていた夢を否定されて激昂したらどうしたものかと内心ヒヤヒヤしていたが、聞き分けの良い相手で良かったと桐生は心底胸をなで下ろした。

「…というわけで、どうやら無事に解決したようですね。本当は相談料5千円くらい取りたいですが、オープンキャンパスということで特別に無料ということにしてあげましょう」

 桐生はつまらない弁護士ジョークを披露した。そんな桐生なりのジョークなど意に介さず、男子学生は尊敬のまなざしを桐生に向けていた。

「いえ、どうもありがとうございました。いやぁ、まさか祖父の意識をあそこまで変えることができるなんて、流石弁護士っていうんですかね。…何だか弁護士って言う仕事に魅力を感じてきちゃいましたよ。志望学部を法学部に変えようかなぁ…?」

「私の姿だけを見て安易に弁護士を目指そうというのはオススメしませんよ。収入面だけでいえば、弁護士という職業は昔ほど稼げるわけではありませんから。どこでどういう弁護士として働くかにもよりますが、単純に弁護士の数も増えてその分仕事の取り合いが起こっているんです。仮に弁護士を目指すのであれば、弁護士になるまでの労力に見合う収入が得られるか、弁護士業務にそもそも興味関心があるのか、一度落ち着いて考えてみることを勧めます。勿論、弁護士だけでなく他の学部に進学して他の職業を選択する場合でも同じことは言えますが」

「なるほど。参考になります。今日のお話が聞けただけでもオープンキャンパスに来た甲斐がありました。本当に、どうもありがとうございました!」

 そう言って、男子学生は去って行った。こうして、今年の聖稜大学法学部オープンキャンパスは幕を閉じたのである。

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「お疲れ様です。いやぁ、今年のオープンキャンパスはなかなか癖のある質問というか相談をする学生が現れましたね。まさか祖父の進路相談をされるなんて、流石の桐生先生でも初めてだったのでは?」

 そう言いながら桐生のTAである浅野が桐生に向かって話しかける。普段桐生のTAとして働いている浅野は桐生のオープンキャンパス業務にも駆り出されていた。オープンキャンパス会場の片付けも一段落し、物思いにふけっている桐生に声をかけたのである。

「えぇ。流石に初めての経験でどうなることかと思いましたが、なんとかなってホッとしています。」

「先生も仮にも聖稜大学法科大学院の教員なんですから、せっかくの法科大学院志望者である老人をその気にさせてウチの法科大学院に入学させるように誘導することもできたのでは?そうしようとは思わなかったんですか?」

「予備試験も知らない情報弱者を法科大学院に半ば騙して入学させても後で後悔するのが目に見えてましたからね。私はそこまで悪魔に魂を売り渡してはいないのです。もし彼が裁判官ではなく弁護士志望ということでしたら予備試験受験くらいは勧めていたかもしれませんがね」

「そういうもんですか。というか、先生って本当に法科大学院嫌いですよね。どういうモチベーションで普段教員として仕事してるんですか?というか、そもそもなんでそこまで法科大学院が嫌いなんですか?」

「機会があれば、そのうち話すことがあるかもしれませんね。少なくとも今日はそんなことを話す気分ではありません。単純に今日は疲れましたし」

「改めて、お疲れ様です。大学はまだ夏休み期間ですけど、先生ってオフィス・アワーだけは夏休み期間も設けてますよね。明日くらいは休みにしたらどうですか」

「司法試験受験を控えている法科大学院生が疑問に思ったことが出てきた場合にいつでもその疑問に答えられる状態にはしておきたいんですよね。それに毎年のことですけど、夏休み期間ということもあってオフィス・アワーを開放していても実際に来る学生は滅多にいないんですけどね。なので、今年も開店休業状態でしょう。まぁ個人的にはオフィス・アワーで忙しくなってくれる方が安心できるのですが」

 こうした桐生と浅野のやりとりも毎年のオープンキャンパスの恒例であった。

 様々な立場の違いはあれど、受験生にとっての特別な1日はこうして静かに過ぎ去ろうとしていた。
 

第3話


「今日は暇ですねぇ。全然学生がオフィス・アワーに来やしない」

自身の研究室で桐生は思わずつぶやいた。

「そういう時もあるでしょう。学生諸君も人に聞くばかりではなく自発的に過去問研究に取り組んでると信じることにしましょうよ」

 と、桐生のTAである浅野は答える。

「…本来、君もその学生のはずなんですけどね」

 桐生は浅野の発言に反応する。

「僕はもう予備試験ルートで司法試験に合格してるから今更わざわざ勉強しなくても良いんです。何なら公認会計士試験だって合格しましたし、行政書士試験も宅建も社労士も合格してやりましたよ。司法書士や税理士試験とかどうしようかなぁ。実は最近証券外務員1種試験とか気になってるんですけど」

「…その試験合格マウント、他の学生がいる前で絶対にやるんじゃありませんよ。無駄に法科大学院の空気を悪くしたくないんです。ただでさえ司法試験というプレッシャーのある法科大学院ではある種のタブーなんですから。私でもそれくらいの空気は読みますよ。というか証券外務員って、貴方銀行か証券会社にでも就職しようとしてるんですか?」

「まさか。就職はしたくはないですよ。単純に個人的な知的好奇心が証券外務員試験に向いてるだけです。マネー・リテラシーを身につける上では悪くないのかなぁと」

「就職する気も無いのに資格だけ持っててもどうなんですかね。使わない資格を取得するための勉強する時間があるのならその時間を労働に充てた方がマシな気がするのは私の気のせいでしょうか」

「別に働くためだけに資格の勉強をするわけじゃないでしょう。僕みたいに資格マニアの生きがいにだってなってるわけだし。単純に勉強が楽しいんですよ。そうした個人の自由は尊重されてしかるべきでしょう?」

「君の日本国憲法の中には『勤労の義務』が欠落してるのでしょうか。即刻改正することをオススメしますよ」

「私見を述べさせていただくのならば、自由民主主義国家の憲法に『勤労の義務』なるものが規定されていること自体が憲法の根本規範に抵触する気がするんですよね。そもそも『勤労』ってなんですか。会社か国家もしくは地方公共団体に雇われて働くことだけを指すのですか。別に世間一般でいう『労働』をしなくても金銭を得て生活する方法はあるわけですし。少なくとも生きている以上嫌でも消費税は負担してるわけですから、納税の義務以上の義務を履行してやる義理はありませんね。だいたい、大学を出たら定年まで働くっていうのが一種の思考停止ですよ。僕らの世代が十分な年金をもらえる保証もないし、色々なリスク管理を踏まえて働かなくても、あるいは働けなくなっても一定の生活費を得られる方法を模索した方がよっぽど建設的だと思いますよ。もし僕がワンチャン政治家にでもなるとしたら、こうした理由から日本国憲法27条1項後段を削除することを公約に掲げますよ。我が国には『勤労の権利』はあっても『勤労の義務』なんてものは無いんだってね」

「…ああ言えばこう言いますね。そういうことは一度でもまともに所得税や住民税でも納められるだけの労働所得でも得てからいってみてはどうですか。君も年齢だけで言えば立派な社会人なのだから、社会人として恥ずかしくない収入を自力で得てから言いたいことを言いなさい。やるべきことをやってからやりたいことをやるのが大人というものですよ」

「存外、つまらないことを言いますね。ウチにはウチの事情があるんで、世間一般で言う労働観念って言うのは僕には当てはまらないものですよ。少なくともウチはまだしばらくプラプラと腐れ法科大学院生でいられるだけの経済的余裕はありますからご心配なく」

「君は少しでも親のすねをかじり続けることが恥ずかしいとは思わないのですか。親御さんのすねも無くなっちゃいますよ」

「アハハ。生憎、恥ずかしいとは思いませんね。むしろ、何でも一人で自立できるというのが傲慢だとは思いませんかね」

「ふむ。これはなかなか貴重な意見ですね。ですが、皆が皆、君のように経済的に余裕があるわけではないんですよ」

「まぁ、経済的に余裕があることと実家との関係が良好かは全くの別問題なんですけど」

「…?」

 ここで、初めて桐生は目の前にいる浅野という人間の本質に触れかけた気がした。そういえば、彼をTAとして雇ってみてから短くない年月が経つが、彼の生い立ちを深く追求したことはなかった。というより、彼自身が自分の話を積極的にする方ではなかった。

 桐生光一のTAを務める浅野秀一郎は聖稜大学法科大学院に在籍してはいるが、その経歴はいささか通常の法科大学院生とは異なっていた。彼は大学の学部生活において休学や留年といったことを繰り返し、卒業までに10年以上の年月を費やしていた。休学や留年といった理由も病気や事故、家庭の事情といったことではなく、大学生という人生のモラトリアム期間を可能な限り引き延ばすためといった理由であった。そういうわけで時間だけは有り余っていたから、生まれた時間を読書や映画・演劇鑑賞、旅行などに費やしてみたりもしたが、それでも時間は有り余ってしまうので一念発起して片っ端から資格試験を受験した。昔から勉強は得意な方であったので、宅建、行政書士、社労士試験と次々に合格していった。そして、長い学部在学中に予備試験ルートで司法試験まで合格してしまったのである。それでも時間は余ってしまったので公認会計士試験までも受験して合格してしまった。

 そうこうしているうちに大学の学部に残留する方法もなくなってしまったので、更なるモラトリアムの延長のために聖稜大学法科大学院へと進学した。聖稜大学法科大学院に進学したのは桐生が在籍していたからである。とある年度の司法試験合格祝賀会で偶々出会ったことがきっかけであった。桐生は簡単に学部生時代の浅野の身の上話を聞いてこう浅野に告げた。

「もし君が法科大学院に進学するというのならば、ウチの法科大学院に来て下さい。そこで私のTAとして働いてもらいます。諸々の交渉は私が引き受けましょう。長らくモラトリアムに慣れすぎると、いざという時に社会に出られずに困ってしまいますから。アルバイトさえしたことがないというのは客観的な君の年齢から判断していささか人生のバランスが悪いですから、まずは肩慣らしに私のTAとして私の法科大学院教員業務のサポートをして下さい」

 別に働きたいわけではなかった浅野としてはこの提案に面食らう反面、自分のような人間にわざわざTAという仕事を割り振ろうとする桐生という人間に興味が湧いたので、こう返すことにした。

「先生は事務所も開業してるんですよね?働くということであれば、先生の事務所でパラリーガルか事務員として働くっていうのはどうですか?まだ司法修習には行ってなくて弁護士資格は無いのでその辺りが無難かとも思うんですけど」

 浅野の問いかけに対して桐生はこう返した。

「事務所勤務については私の顧客に万が一のことがあった場合に責任を負いかねるので現時点では私の事務所に君を雇うということはしません。どちらかというと、各種の試験に合格した君の実績は法科大学院のTAという形でこそ活きると思うのです。私の講義に必要なレジュメの印刷とかそういう雑用的なこともしてもらいますが、何より私のオフィス・アワーに答案添削をしに来たり予備試験の口述対策をしに来た場合に君にサポートをお願いしたいのです。法科大学院生諸君に年齢が近い君の知見の方が有効なこともあるでしょう。それに、君のモラトリアムを延長したいという願望にも叶っていると思うのですが、どうでしょうか」

 どうやらこちらの願望を可能な限り最大限尊重してくれるらしい。そういうわけで、浅野は聖稜大学法科大学院に進学することにした。勿論、1年長く在籍することになる「未修」コースにわざと入学し、そこからわざと留年や休学を繰り返している。そういうわけで、法科大学院入学から5年以上経過しても未だ法科大学院2年生だったりする。浅野は周囲に自分の情報を積極的に開示することは無かったが、それでもどこからか噂は広まっているようで、聖稜大学法科大学院では浅野は独特の地位を築いていた。といっても孤立していたり、ましていじめを受けているというわけではなく、むしろ好意的な立ち位置にいつつも決してどこかのグループの中に入るわけではないという孤高の地位を確立していた。中には浅野のことを「聖稜法科大学院の仙人」と称する者もいるようで、浅野は聖稜大学法科大学院生の自主ゼミにいくつか携わって他の受験生の受験指導や答案添削をしたり、聖稜大学法学部生の予備試験に関するサポートも手厚く行ったりしていた。いわば、「桐生のオフィス・アワー出張版」として機能していたのである。

「どうやら今日はオフィス・アワーに人も来なさそうなんで、今日は僕の質問に答えてくれません?」

「今更君が私に司法試験のことを聞く必要は無いでしょう」

「試験のことではないですよ。先生自身のことについて聞きたいんです。将来の僕の進路の参考になればと思いまして」

「…オフィス・アワーで個人的なことは開示するつもりはないのですが、進路相談と言うことなら、まぁ」

「ありがとうございます。率直に聞きたいのは、先生はどうしてウチの法科大学院で教鞭をとることにしたんですか?弁護士として働き続けた方が収入も多そうだし、法科大学院で教鞭をとるにしても、例えばもっと司法試験合格率の高い法科大学院で教鞭をとったりしないのかぁ、と思ったもので」

「…ふむ」と、桐生はどこから話したものかと考えあぐねていた。しばらく黙って自分の中で考えを整理して、ようやく桐生は口を開けた。

「そもそも私が弁護士を目指したきっかけというのは、幼心ながらに普通のサラリーマンや公務員とは違う、特別な何かになりたいと思ったからなんですね。幼かった私は、この世に弁護士という職業があることを知ってから、弁護士というのは現実に存在するヒーローのようなものだと思っていました。そんな幼い心が抜けきれないまま私は進学だけは順調に進めて司法試験にも合格し、弁護士という資格も得ました。私の中の弁護士というヒーロー像のメッキが剥がれ始めたのは、現実に弁護士として様々な仕事をするようになってからです。刑事弁護に法テラスでの法律相談、遺産相続問題から交通事故案件、個人や法人の債務整理、離婚問題等々…いわゆる典型的な町弁と言われる仕事に忙殺されていきました。そうしている内に気付いてしまったんです。こうした仕事は別に私でなくとも、『弁護士』という肩書きを持っていれば別に誰がやってもいいものだと。私は弁護士になればこの世に私にしか出来ない仕事があるものと信じて疑っていなかったのですが、現実には誰でも代えの効く仕事だったというわけですね。そうすると、私はどうしてわざわざ法律家という、客観的に見れば茨の道を選んでしまったのか疑問に思ってしまうようになったんです。それでも、依頼人から感謝の言葉をもらえた時には『この仕事をやり遂げて良かったな、自分の選択は間違ってなかったのだな』と思えていた時期もあったんです。」

 桐生の、おそらく人前では初めてするであろう身の上話を浅野はただ黙って聞いていた。桐生は話を続ける。

「自分の事務所を持つようになった私が現役の町弁業務から離れて現在法科大学院での教員業務に専念するようになったのは、自分の中にあった漠然とした疑問が自分の中で可視化された時でした。きっかけは、ある個人の債務整理の依頼を受任したときです。その債務者の詳細は伏せますが、言ってしまうと私の法学部時代の同期だったんです。彼は数少ない私の友人でした。彼も私と同じように弁護士を目指していましたが法科大学院は別々だったのです。彼の実家は経済的に貧しく、大学を卒業するまでの学費をこさえるのにも相当苦労したそうです。勿論、奨学金という名の借金も少なからずありましたよ。それでも弁護士になるという夢を諦めきれなかった彼は、法科大学院に進学すれば弁護士になれると信じてさらに奨学金を借りて法科大学院まで進学したそうです。私が当時彼について知っていたのはそこまででした。別々の法科大学院に進学してからも彼とは定期的に交流していたのですが、私が先に司法試験に合格してからは連絡も取れなくなってしまって、時間だけが経ってしまいました。債務整理の依頼人となった彼と請負人となった私が再会したときに改めて彼の法科大学院以降の進路を尋ねました。彼は法科大学院を修了することは出来たものの、結局司法試験に合格することは無くそのまま司法試験の受験資格を無くしてしまいました。これまで司法試験の勉強を通して法律を学び続けていたのだからと、今度は司法書士試験や行政書士試験、宅建、社労士試験などにも挑戦していた時期があったそうです。ですが、司法試験の不合格というレッテル張りが悪い方向に働いてしまうものなのか、結局彼はこれらの試験に合格することも無く時間だけが過ぎてしまい、気付けば30歳を超えていたそうです。公務員試験を受けようにも年齢制限に引っかかったり、一般就職するにしても職務経歴が全然無いのでまともな就労先を見つけるのに苦労したとも言っていました。何とか彼の就職先は決まったは良いものの、その時には既に奨学金の返済金額も大きなものとなり、またご実家の借金も合わさってどうにもこうにもならなくなったそうです。そういうわけで、思い切ってウチの事務所に債務整理の依頼に来たというわけです。『恥を忍んで友人に最後の希望と思って相談することにした、もしこれで駄目なら自殺していたかもしれない』と、彼はそう言っていました。そんな彼の姿を見て私はこう思ったわけですよ。社会的弱者を救済する法律家の卵とも言うべき法科大学院制度は、自分の学生を社会的弱者に陥れるリスクを孕んだ危うい制度なのではないかと。法科大学院制度は当初司法試験合格率70%を超えることを目指すとのたまっていたのに、現実は50%にも届きさえしない悲惨な状況を生み出していることに関係者は何も思うことは無いのかと。法科大学院は彼にまともな指導をしてきたと、高い学費に見合うだけの教育をきっちり提供していたと言えるのかと。法科大学院は高い学費を学生である彼に負担させておきながら、彼が法科大学院を修了したら何も支援を働きかけなかったのかと。彼が社会的弱者となった時、法科大学院は彼を助けようとはしなかったのかと。私は何故彼がそんなことになっていることに気付いてもやれず、まして今まで助けようとも、何か力になろうとも思えなかったのか。今まで自分が見えていなかった、あるいは見て見ぬふりをしてきたものが一気に見えるようになってしまったんです。」

 現行の司法試験制度は受験資格自体に制限があるだけではなく、受験回数にも制限がかかっている。法科大学院を修了してから、あるいは予備試験に合格してから5年かつ5回以内(現行の司法試験制度は幾度か細かい修正がなされているが、当初は5年以内かつ3回まで)という制限があった。もし受験資格を喪失した者がもう一度司法試験受験を望む場合は、もう一度法科大学院に入学し直すか、再び予備試験合格を目指す必要がある。

「…話の途中でスイマセン。その友人さんは、司法試験の受験資格を無くす前に司法試験予備校には通ったりしなかったんですか?純粋に法科大学院の講義だけで司法試験に合格するなんて、現実には少数派であることは馬鹿でも分かるでしょうに。あと、法律の勉強してたからってやたらに司法書士とか行政書士とか方向性がバラバラな資格試験を受けてて、本気で合格する気があるのかって失礼ながら思っちゃいましたよ。あえて失礼を承知で言わせてもらうとするならば、その友人さんは努力の方向性を間違っていたのではないですか?」

 確実な努力を積み重ねることができ、現実にいくつもの資格試験に合格した、経済状況をはじめとして環境にも恵まれた強者である浅野はある種の残酷な真実を告げた。その容赦の無い浅野の物言いに対して態度をたしなめるわけでもなく、桐生は話を再開した。

「…確かに、君の言う通り彼は努力の方向性を間違えていたのかもしれません。法科大学院での受験指導をしても思うのですが、どうにも司法試験という茨の道を進むことを選択した割には努力の仕方を間違えている者が少なからず見受けられるもので、なんとも歯がゆい気分になります。全然勉強しないのは論外だとしても、何百・何千時間と勉強しても結果が身に付かない残念な勉強をしている人がいることも事実なのです。彼もそんな残念な勉強をしている一人だと、君の目には映るのかもしれません。君にとっては予備校さえ使えば効率的に問題が解決するとそれで片付いてしまうのでしょうが、当時まともな司法試験の受験対策を予備校費にかけようとすれば100万円は下らないものでした。それほどの資金を工面することは彼の経済状況では不可能なものでした。なので、彼は受験資格が無くなるまで独学に拘って勉強を続けてきました。また、司法試験の浪人生活が長引くにつれて段々周囲から孤立していった彼は、判断能力も歪んだ方向に行ってしまったと語っていました。彼が司法試験不合格後に他の法律系の資格試験に拘っていたのはそのせいだと。彼の通っていた法科大学院が正直に『ウチの法科大学院では平均的な法科大学院生を司法試験合格に導けるだけのメソッドはありません。法科大学院生は各自で司法試験合格に必要なメソッドを別途予備校を利用して身につけて下さい』とでも白状していれば彼の人生もまた違ったものになっていたでしょうに。国家が当初の司法試験合格率70%超えを謳っておいて創設した法科大学院がこの体たらくというのは、詐欺も同然ですよ。なのに誰も法科大学院制度を断罪しようとしないし、することも出来ない。だったらせめて、彼のような人間を出さないように、法科大学院制度の内側に入り込んで彼のような悲劇を生み出さないように徹底的な受験指導をしてやろうと心に誓ったわけです。甘い幻想を抱いている法科大学院生諸君に残酷な現実を突きつけて、誰かの夢を壊すことになっても構わないとさえ思いました。後でより悲惨な生活を送ることになるくらいなら、この法科大学院を地獄の終着点にしてやろうと思ったわけです。そういうわけで、私は法科大学院の教員に専念することを決めました。そしてそのためには、当初から優秀な学生が集まるトップ層の法科大学院ではなく、中堅以下の法科大学院の方が理想的であるとも思いました。幸運にも、私がOBであるという縁から聖稜大学法科大学院で教鞭をとることが叶いました。そうして、現在に至るというわけです。私から話せることは、こんなところでしょうか」

 まさかここまで正直に自分のことを開示してくれるとは浅野は予想だにしていなかった。普段から必要最低限以上の会話はしているし、何度か飲み会の機会があって桐生と話したことはあったが、それでもここまで話してくれるのには、何か理由か目的があるのだろうか。浅野は嫌な予感がしていた。

「さて、ここまで私のことを話したんです。自分のことを話すのは、飲み会でもそうそう無いですよ。今度は、君のことについて聞かせて下さい。君はどうして、そこまで各種の資格を持ちながら、その資格を使って、いや、資格を使わないにしても一般的な就職をして社会人になることを拒み続けるのですか」

 そういうことか、と浅野のは思った。嫌な予感は的中してしまった。ただでは自分のことを話さないだろうとは思っていたが、どうやらこれはこちらもそれ相応の自己開示をしなければならないらしい。誰もオフィス・アワーに来ないものだからと油断していた。普段桐生のオフィス・アワーに来訪する学生はこんな複雑な気分を味わっているのかと今更ながら浅野は思い知った。だが、気付いた頃にはもう遅いのである。

「腹を割って話そう、ってことですか。良いですよ。話してる内に自分の人生設計もいくらか方向が見えてくるかもしれないし。」

 今度は浅野がどこから話そうかと考えを巡らせていた。

「…僕の両親って、どっちも高級官僚なんですよねぇ」
 ゆっくりとした口調で、自分のことを話し始めた。慣れないことをしているせいか、普段よりもゆったりとした口調であった。

「両親は目の前の仕事に必死というか、反面で自分の子供の教育には無関心というか、良くも悪くもあんまり構ってもらった記憶が無いんですよね。その割には世間体を気にしてるっていうか、とにかく客観的にはやたら教育にはお金をかけてもらったんですよ。これでも小さい頃にはピアノとかテニスとか習い事いっぱいやってたんですよ。自分は音楽もスポーツも全然興味ないのに無理矢理やらされて。おかげで音楽やスポーツは全然身につきませんでしたね。ただ、幸か不幸か、勉強だけは適性があって、自分自身も勉強が好きになれて。幼い頃から学習塾へ行ってそれで学業成績だけで言えば問題ないどころか順風満帆といった感じで。首都圏の教育熱心な家庭なら当たり前にやるだろうなって言う進学校の小学・中学・高校に通うことになって。それで大学進学までは問題なく人生設計が上手くいったんです。ただ、このまま大学を卒業して就職して、定年まで働く人生っていうのに何か意味が見いだせなくて。実家は経済的に余裕がある方だったので、可能な限りモラトリアム期間を引き延ばそうと大学を休学したりわざと留年したりしたんです。ところが、どういうわけか両親は自分が留年や休学することに対して特に何の反応も示さなくて。時間だけはあったんでとりあえず目に着いた資格試験の勉強に励みましたよ。おかげで予備試験ルートで司法試験も合格したりしましたけど。でも、資格を取っても実際にその資格を活かして働こうという気にだけはどうしてもなれなかったんですよね。資格って、結局その資格さえ持って仕事してればその人の持ってる具体的な『個性』って要求されないじゃないですか。そういう没個性的なものに成り下がるのかなって思ったら急に社会に出る気がしなくなって。そうこうしてモラトリアムを引き延ばしていく内に段々社会に出るのが嫌になってきて。というか、正直に言うと段々社会に出て行くのが怖くなってきて。今までは試験に合格さえすればそれでよかったんですけど、仕事するとなると対人能力が大事になってくるのにその肝心の対人能力が自分には欠けているってことに気付いちゃって。受験勉強ばっかりにかまけて対人能力を身につけることを怠ってきたといいますか。あぁ、自分は一体何のために勉強してきたんだろうなと。社会に出るための資格なのに社会に飛び込む勇気も無いなら意味ないじゃんって思って。そこからは就職っていうのからは逃げるようにとにかく他の資格試験の勉強に逃げるようになったり、大学院生の肩書きを得て無駄にモラトリアムを引き延ばそうとしてみたりしている…って感じですかね。バイトさえTA以外やったことないですよ。先生がTAに誘ってくれなかったら本当にぞっとしてますよ。かろうじて社会性が自分の中にあるのは先生のおかげだと思ってますよ本当に」
 話の整合性だとかそういうことは気にせず、浅野は思いついたことを一気に語った。

「…君はどこか危ういところがあると思っていましたが、そういう事情があったのですか。端から見れば恵まれているだけに、なかなか君の悩みというのは理解されなかったでしょうね」

「あれ?『甘ったれたことを言うな』とか言われるのを覚悟してたんですけどねこっちは」

「君が望むならそういうことを言ってやってもよかったんですけどね。まぁ、これでも一応弁護士でもあるので、まずは相手の話をきっちり聞いて理解してみることを第一にしているものですから」

「あぁ成る程。先生とのやりとりを通じて自分が弁護士になろうとしなかった理由の一つが何となく見えてきました。自分は実務家として他人の話を聞くことにそこまで関心が無いんです、正直なことを言うと。まして、当事者の問題を解決しようとか、そういう志っていうのが全然湧かないんですよ。なんで自分みたいなのが司法試験に合格しちゃったんですかね。もっとちゃんと志のある人が合格すべきなのに」

「試験に合格すること自体が悪いってことはないですよ。極論、モテたいっていう動機で弁護士を目指す人を悪く言える人がどれだけいますかって話ですよ。試験に合格できる実力があることと、実際の実務の仕事に適性があるかどうかはまた別の話ですから。特に弁護士という職業に就く人は学生から社会人を経験することなく弁護士として自立する方が多数派なのですから、あまり気にせず実務を経験してみては…といっても君の場合は参考にはならなさそうですね。私の見る限りTAとしては問題が無く働けているように見えるのですが、そんなに社会に出るのに困難な事情があるのですか?」

「就職って、最終的に面接っていうのがどうしても避けられないじゃないですか。アレがどうしても無理で。理解が出来ないんですよ。志望動機って言われても、『食ってくために仕方なく』か『この仕事が好きだから』以外に答えようがないって思いません?正直に答えたら即『社会不適合者』の烙印を押されるし、上手く取り繕った社交辞令を述べようもんなら『それは弊社で無くても良いことですよね。何故弊社に応募されたのですか』なんて詰めてくるし。『知るか馬鹿たれ!!』って言えるもんなら言ってやりたいですよ。大体こっちが長く働きたいと思っても会社の方がいつまで長く続いてくれるかも分かったもんじゃ無いのにどの面下げて『すぐに辞めるのではないですか』だの『ストレスが生じた際に貴方はどう対処しますか』なんて聞いてくるんですかね。『そんなもんその時になってみないと分からん!不確定な未来に絶対なんて無責任なことをのたまう奴はバカか詐欺師のどっちかだろうが!!』って言ってやりたくなっちゃって。そんなことを考えてたら、ますます一般的な就活をしようっていう気が削がれちゃって。もう職歴が無くても資格だけで問答無用の採用決定、資格があれば面接は本当に文字通りの社交辞令のやりとりだけで内定率99%保障っていう世の中にでもなってくれたら、こっちも就職活動がしやすくなるんだけどなぁ。正直、先生の言う通り仕事は任せられればキッチリこなす方ではあるので能力自体にはさほど問題は無いと思うんですよね。少なくとも事務処理能力に関しては各難関資格試験合格って言う実績から一定品質が保証されていると思うんですよ僕の場合。ただ、就職活動における面接っていうある種特別な技能が要求される場面で極端に弱くなっちゃうんですよね。」

「…一度ハローワークで就職支援について相談してみることをオススメしますよ。君のような若者が何とか就職できるように面接の訓練もしてくれますし。それが嫌ならいくつか転職サイトかアプリでも登録してみては如何ですか?」

 一通り浅野の身の上話を聞いて、桐生はまず無難なアドバイスを送ることにした。彼のように一部の能力が突出している者は意外とどこか一般人では躓かないところで躓きがちなので、その認識を改めさせることを試みた。

「でも正直、経済的に困窮してるからすぐに働かないといけないってわけでは無いんですよね。経済的にはまだまだ全然余裕はあるし…ってこんなことその例の先生の友人に聞かれたらぶっ飛ばされそうですけど。ただ、経済的な理由とかで働くモチベーションは湧いてこないんですよ。いや、違うな、こうして先生と話してて分かってきた気がします。自分は、働くというか、仕事をして生きること自体が嫌なわけでは無いんです。ただ、今更誰かに雇われるような、誰かの下に付く生き方をしたくないんです。いざという時には資格を使って独立できるわけだし。もしくは、起業して自分が社長になって誰かを雇う立場になるとか、誰かの上に立つか、せめて対等の立場でいたいんです。こういう、仕事をすること自体には否定的ではないものの、一般的な雇用関係には付きたくないというわがままなヤツに向いた進路相談ってどうですかね?」

 ここまでのやりとりを経て、ようやく浅野という一個人の姿がハッキリ見えた気がする。桐生はそう思った。確かに、彼はおとなしく誰かの下に収まるような器ではない。むしろ、積極的に人の上に立つのが最適だろう。そうであるならば、進路相談も少し例外的な修正を加えても良いかもしれないと桐生は思い始めていた。

「…せっかく試験に合格したという経験を活かすのであれば、例えば教育系YouTuberになるとか、そういった方向のキャリアは考えてはいないのですか?あまり他人に勧められた進路ではないかもしれませんが、ある意味君には向いているような気もするのですが。ウチの法科大学院でいくつか自主ゼミの指導経験もあるでしょう。そうした経験を生かせると思ったのですが」

「勿論YouTuberっていうのも自分の進路の一つとして一応考えはしましたよ。でも、やっぱりYouTuberとして食っていくっていうことを現実的に考えると相当ハードル高いかなぁって思っちゃうんですよね。一般的な就職活動するよりよっぽど大変というか、下手な労働者よりよっぽど働いてるっていうか。YouTubeに投稿するネタはあっても実際にそれが評価されて金になるかってことまで考えるとモチベーションが続くかなっていうのも不安で。…実を言うと、こっそりYouTubeに動画投稿はしてるんですよね。主に法律系資格試験の真面目なヤツを。でもそういうのって、エンタメ系の動画と違ってなかなか上手く再生数は稼げないんですよね。詰まるところ、今の自分の実力じゃあYouTubeで食ってはいけないんです。だからといって、自分にエンタメを提供できる才能はないし、そんな気も起きないしでどうしたもんかと思ってるんですよ」

「そういえば、実家って裕福なんですよね。資産運用はしていないのですか。一般的な労働が無理ならせめて投資でもして使えるお金を増やしてみるというのも人生設計の一つとしては考えられると思うのですが」

「資産運用自体はしてるんですよ。両親もしてますけど、自分でも銀行とか証券口座を保有して資産運用してます。確かに、食っていくことだけ考えれば無理して働く必要って無いんですけど、でも生き甲斐っていうか、自分が『生きてる』って実感を持つためには何か社会と繋がって稼いでるっていう実感が欲しいんですよね。まぁ、自分が社会と繋がりたいからといって社会が自分を欲しているかという自信は全然無いんですけど。」

「…いささか社会に対する認知が歪んでいるような気がするのですが。あるいは、自尊心が正しく育まれていないというか。では、やりたいことっていうのはないのですか。この際『社会人だから○○すべき』という議論は一度脇に置いておくとして、なにか趣味とかそういうのはないのですか。やりたいことから自分のなすべきことが見えてくるかもしれませんよ君の場合は」

「やりたいっていうか、ぶっちゃけて言えば『高等遊民になりてぇ』とは思いますね。今でもそんな感じですけど、できれば死ぬまでみたいな。でも、ただの高等遊民ってだけじゃあ何か違うっていうか。『ただ働きたくないだけでは?』って突っ込みはなしですよ」

「…高等遊民については君の場合はある意味叶ってしまってるようなものなのでいったん保留しましょう。高等遊民以外で何か興味あることとか、やってみたいことって何かないのですか。あるいは、長時間・長期間続けていても苦痛にならないものとか、やってて楽しいものとか」

「うーん…あ、そういえば文章を書くっていうことは興味ありますね。小説は書いたことないですけど、エッセイ的なものとか。一時期、やたら詳細に日記をつけてた時期があったんですよ。勉強するのも好きですけど、同じくらい読書するのも好きですね。そうだ!この法科大学院のオフィス・アワーの様子をモデルにした小説を書くっていうのはどうですか?…タイトルは、『正直オフィス・アワー』なんてのはどうですかね?」

「タイトルセンスはもう少しなんとかならないものかと思いますが、少しでも興味があるならやってみてはどうですか。試験対策と同じで、『実際にやってみなければ何も分からない』ってことですよ。実践することの大切さは何より君が一番知っているはずでしょう。」

「そうですね。それじゃあ、もし小説が完成したらまず最初に先生が読んでくれませんかね」

「小説の添削は専門外なのですが…。そもそも、君の小説を読む前に私にはやらねばならないことが山ほどあるんですよ」

「きっと先生が満足するような出来のものを作ってみせますよ。気長に待ってて下さい。」

「締め切りを先延ばししてはいつまで経っても作品は完成しませんよ。これも試験と同じですが、今年合格、もといデビューするつもりで作品を早く完成させなさい。君が本気でその小説を作る気があるならね。完成した答案もとい作品が、唯一評価される価値のあるものなのだから」

「分かりました。…試験勉強って存外人生に必要なことを育む訓練なんだなって先生とのオフィス・アワーで改めて実感した気がします。それじゃあ、僕はこれから作品制作に取り組みますので、この辺で」

「次回以降のオフィス・アワーへの立ち会いは忘れないで下さいよ」

「分かってますって」

こうして、本日のオフィス・アワーの時間は終了した。オフィス・アワーの成果が出たのか、ハッキリとした未来を見通せるものは誰もいない。しかし、誰かにとっての大きな一歩となったことは間違いない。

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※この作品はフィクションです。実際の人物・事件・団体とは関係ありません。また、作中の司法試験制度は今後の法改正によって変更される可能性があります。正しい司法試験制度に関する情報は御自分で法務省のHPを確認することを推奨します。各種法律も同様に最新のものを確認することを推奨します。

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