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満たされること、満たされないもの、満たされたい私。

 一度満たされてしまうことを覚えたら、きっと私は、動けなくなってしまう。


 いつも、何かを書こうと思う時は、だいたい、時間がなかったり、気分が落ち込んでいたりすることが多くて、余裕がある時や、前向きな気持ちの時には、書くことよりも、他のことをしていることが多い。

 必然、私が書くnoteや、ツイッターの詩は、暗く、後ろ向きに、よくここまで沈んでいられるなと、僻みと妬みがすごいなと、思うようなものが出来上がる。

 なるべく最後には、前向きになるように、そうでなくても、横ばいくらいになるように、気持ちを上向かせて書いているつもりではあるけれど、ツイッターではそうもいかず、鬱々とした言葉たちが、そのままの形でいる。

 その書いたものが嫌なのかと言えば、そうではなくて、自分の書いたものは、概ね愛しているのだけれど、それはまた別のこととして。


 たぶん私は、満たされていると、書けないのではないかと、思った。


 本当にささいなことなのだけれど、仕事が終わってから、書くとしたら、だいたい、車の中か、食事をとる前であることが多い。満腹になると、途端に、書きたくなくなってしまうから。

 食欲が満たされて、満足してしまうのか、食べてさえいればいいというような、我ながらどうかとは思うけれど、どういうわけか、書く気にならなくなってしまう。食べることは生きることではあるものの、さすがに、単純すぎやしないかと、自分に問いかけてみるのだけど、しょうがないじゃんね、の一言に尽きてしまった。


 そんなひょんなことから、考える。

 私が書くのは、足りないものを、埋めるためなのかもしれない、と。


 書くことを再開したのは、以前のnoteにも書いたけれど、友人のすすめがあってこそなのだけれど、1か月も過ぎて、自分の書いている時を思い出すと、ほぼ必ず、何かを求めているときだったような、気がしている。

 欠けているものを、満たされないものを、なんとか埋めようとして、うたったり、語ったり、曝け出したりして、だからか、いつも、どれを見ても、自分のことばかりを書いていて。

 今の自分に足りないものを欲しがって、埋めて欲しいとねだり、慰めてくれと語る。

 そんなところを見ていると、つくづく嫌になる自分の性格がありありとでていて、それでも、作ったものたちは愛おしくて。あれはもしかしたら、足りない自分を埋めるためのピースだからか、それとも、身を削って生み出した私自身だからか。

 きっと私は、満腹になったら満足してしまうように、他の何かで満たされているとき、自分が望むものがそばにあるときには、書くことをしないような気がしている。

 もっといえば、そこにある「満足」に甘えてしまって、前に進まず、その「満足」が萎れて枯れてしまうまで、立ち止まってしまうのだろう。そしてなくなった「満足」を、また同じ方法で手に入れようとして、前に進まず、廻々とまわり続けているんじゃないかと、思う。

 そこまでわかっているなら、なんとかすればいいのだけれど、その、満足の甘い汁は、どうにも、我慢のできない私を、惹きつけて止まない。

 苦しくても、進む力。辛くても、立ち向かう力。そういうものを、素直に羨ましいと思うし、いつも、無意識にでも、逃げること、避けることばかり選択している自分を、情けなく思う。


 そして今、そう思う自分を埋めたくて、このnoteを書いている。


 こんなことで埋まりはしないし、何の解決ももたらさない、いわゆる現実逃避なのだろうけど、こうして、書くことで満足を得ようとして、言葉を並べる私は、やっぱり同じところで足踏みをしているのだろうか。

 それでもやっぱり書くことは楽しくて、文字を打つ、この感覚も、文字を書く、あの手ごたえも、手放すことはできそうにもないから。


 行動するためには、エネルギーが必要で、だけれど、過剰に摂取すれば、消化しきれずに、重く鈍くなる。特に私は、何事にも、満たされないくらいが、丁度良いのかもしれない。

 腹六分目で、餌をぶら下げて、生きれば、もっと努力するようになるのだろうか。多分、手に入らない餌を見て、私は、不貞寝するんだろうなと、想像の自分に、呆れ果てながら、今日も生きていくのでした。

 

 文筆乱れてお目汚し。失礼致しました。

 本城 雫

いつも見ていてくださって、ありがとうございます。 役に立つようなものは何もありませんが、自分の言葉が、響いてくれたらいいなと、これからも書いていきます。 生きていけるかな。