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(2)死生学が必要な理由〜死生観の宗教からの独立〜

「死にたいように死なせてあげたい。ホスピスの医者としてはそう考えるのですがね。こういう死に方をしたいというイメージがない人ばかりなんです。生き方ばかりじゃ最後は役に立たないんですけれどね」(永六輔『大往生』)

現代における死に関する問題は、目に見えない形で生活の中に姿を現しているようだ。日頃から生死に関わっている人、関心を持つ人がそうした問題に気づき、声を上げている。死生学はそうした人たちによって、ようやく一つの学問分野として認知されつつある。

少し話は逸れるが、現代の日本において生死に関する話は煙たがれる傾向にあるように思う。煙たがれるほどなくとも、大小の差はあれ尋常ではないという評価がなされがちであると言えよう(これについては、生死に強い関心のある人なら共感してくれることだろうと思う!)。あたかもその話が、自らを攻撃してくる刺々しいものかのように、あるいは、少しの刺激で崩れてしまいそうなヒビの入ったガラス玉かのように、慎重に、十分警戒しながら扱うべきものとして認識されているようだ。

その原因の一つに、「死生観という言葉が、あたかも宗教性を孕んでいるように解釈されている」ことが挙げられよう(日本という国において宗教的な発言は、政治的発言と同じように少し変わった意味合いで、注目されがちなものである)。しかし、死生学が追い求めているものはそうした死生観ではなく、宗教から全く独立した形での、新しい死生観である。

死生観教育は、確かに宗教が伝統的にかかわってきた領域に近いのかもしれない。それは、宗教も生き方と死に方を考え、提供してきたからである。だからと言って、死生観教育が決して宗教的とは限らない。むしろ、人類の多くの文化・文明・哲学というべき智恵から多くのヒントや観点を取り入れながら、宗教に偏らない形の死生観教育は可能であるばかりでなく、望まれているように思われる。(Stevenson, 1995)

あらゆる宗教界において、死生観はかなり検討されている。信者はそれまでの先人たちの知恵、またその蓄積を頼りに自らの死生観を振り返り、人生について内省することができる。

他方で、無神論者(非信者)たちはどうであろうか。自らの人生を振り返ったときに、拠り所がなく暗闇を手探りで進もうとしていないだろうか。「これまでの人生が正しいものだったのか」「そもそも正しい人生とは何か」など、あるとき突如現れた大きな疑問に対処する武器を持ち合わせていないが故に、ただ呆然と立ち竦む他ないのではないだろうか。こうした現状に、死生観教育がもたらすものは何か。

死生観教育は死や死別という人生の大事な課題を取り上げることによって、逸脱行為や精神的な病を予防できる。ワクチンの予防注射は重くて危険な病原菌を適宜に軽度、子供に与えることによって、本物の病気に対する免疫力をつける。不完全な比喩であるが、死生観教育も、重くて危険な精神異常に及ぶ死別・喪失体験を、適切でごく軽い程度、子供に与えることによって、本物の死別に出会った場合、それに対応するだけの心構えと相談能力を用意できるのである。(島薗・竹内『死生学1』
あえて言うならば、教育の意義のほとんどは、将来のための「準備」であると言えよう。的確な情報収集と円滑な人間関係を可能にするために国語を学び、家計・商売・買物などに使う前提で数学を学び、旅行・貿易・研究などに使うであろう前提で外国語を学ぶのである。しかし何よりも確実で心に刻まれる体験は、人との死別である。100%確実にやってくる死に対して、学校で取り立てて何の教育も行われなかったのは、かつてはその体験的教育は家庭や地域社会に必ず存在していたからである。(島薗・竹内『死生学1』)

さらに私から補足をする。

社会の中で活動する企業(組織)運営ための学問が「経営学」であるとすれば、社会の中で活動する個人のための学問が「死生学(個人的領域まで落とし込んだ経営学=私が以前「人生学」と名付けたもの)」である。つまり死生学は、スピリチュアルな虚学的側面を持つ一方で、経営学のように戦略性を追究する実学的側面も持っている。※しかし、死生学のこうした実学的側面に注目している論述に、私は未だ出会っていない。故にこうして、自らの言葉で書いているのである。

死生学がカバーしようとしている現象や問題は多岐にわたり、現象や問題にアプローチする方法もまことに多様である。すでに長い伝統を持つ学問分野と比べると、その輪郭は不鮮明で雑然たる集合体の印象を避けることはできないのは当然である。では、この新たな学問の対象と範囲をどのように輪郭づけていくことができるだろうか。今後、徐々に立ち現れてくるであろう死生学の姿を現段階で予見しておくこともあながち無駄ではないだろう。(島薗・竹内『死生学1』)

死生学は発展段階にある。私はその発展の一助となりたい。なぜなら、その行為が有意義なものであると考えるからだ。現代に蔓延る目に見えない社会問題を解決へと導く重要な学問であると信じている。

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