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哲学ファンタジー 大いなる夜の物語 謎その1

謎その1 どうして日常はつらいのか?

ほら、またネチネチ言ってる。よくもまあ飽きもせず、毎日ああやって不機嫌をまわりにまきちらせるもんだ。家に帰ってから後悔することはないんだろうか。

ご機嫌ななめなのは、お天気屋の先輩、村松玲奈(むらまつ れいな)。後輩にはひそかに「お天気お姉さん」と呼ばれている。

一方、さっきからネチネチお説教されているのは、僕の同期の石戸夕璃(いしと ゆり)。僕の家のわりと近くに住んでいて、小学校は同じところに通っていた。低学年のころまでは、近所の子どもたちで集まって遊ぶこともあった。でもいつの間にか、話すことも会うこともほとんどなくなった。それがこの会社に入ってみたら、偶然、石戸さんも同じ会社に就職していたので、それをきっかけに打ち解けて話すようになったのだった。

僕は草野春人(くさの はると)。この会社で働き始めて、今年で二年目。正直なところ、もうやめたいと思っている。仕事は年がら年中忙しいし、まだ慣れないことがたくさんあるし、慣れたところで立派な人になれるわけでもない。

それよりも、ああやって、石戸さんのようないい人が怒られるのを見る毎日には、もううんざりしてしまった。僕にも苦手な先輩はいるけど、それだけだったら僕がやめれば終わりにできる。でも、石戸さんもこの会社で頑張っているから、僕がやめると何だか彼女を裏切って置きざりにすることになるような気がして、やめるにやめられない。

石戸さんにしてみれば、僕がやめても、悪く思うことはないかもしれない。たぶん僕が、石戸さんのことを勝手に心配しているのだ。僕がこの会社をやめてしまったら、石戸さんに何か大変なことがあったときに、助けてあげられないと思っている。それが本心だろう。

石戸さんは、子どものころからそうだったけど、つかみどころのない不思議な感じの人だ。小学校の写生大会で、学年全員で菖蒲園に行ったことがあった。みんなは紫や白の絵の具で、菖蒲の花を描いているのに、石戸さんだけが木陰に座って、一本の木を描いていた。その姿をよく覚えている。

二人で話していても、石戸さんはよく不思議なことを言う。つい最近も、オフィスのコーヒーマシンのところに立っている石戸さんに挨拶をしたら、

「もうすぐ皆既日食だよ」と言ってきた。

「もうすぐ来るのは皆既月食でしょ?月が地球の影で見えなくなるんだから」と僕が言うと、困ったような顔をして考え込んでしまった。

こういう石戸さんのことを、僕は面白い人だと思っている。けれど、「お天気お姉さん」のような先輩のそばでは、不機嫌の格好のはけ口になってしまうのだろう。

「ポリスチレンは資源ごみですよ!」と、コーヒーマシンのところにいる僕たちの間に割って入ってきたのは、先輩の国津恒(くにつ ごう)だった。後輩にはひそかに「区別さん」と呼ばれている。

「ポリスチレン?」と僕が言うと、

「あなたたちが手に持っているコップのことですよ。ちゃんと区別して、資源ごみとして捨ててくださいね」

「これって、紙コップじゃないんですか?」

石戸さんがそう言うと、「区別さん」はがっかりした様子で、

「あなたにはまだ教えていませんでしたっけ。すると、それをいつも可燃ごみとして捨てている犯人はあなたですね」と言って、白戸さんがコーヒーをすするそのコップか、あごの先のあたりを指差した。

「草野さんも、いい加減にポリスチレンくらい覚えてくださいね。あなたには何度も言っているんですから」

「区別さん」である国津さんは、ごみのことだけでなく、仕事のことでも何でも、とにかく〈区別すること〉をとても大事にする。

「です・ます調」で後輩と話すことについても、「私は、仕事上の問題、つまり『どの人にどのような指示や依頼を伝えるか』という問題を、『どんな語尾を使って話すか』という問題とは区別しているのです」とかなんとか言っていたっけ。

「村松さん駄目です!待ってください」

例の「お天気お姉さん」が、雑多なごみの入ったビニール袋を、そのまま可燃ごみの中にガサッと突っ込んでいったので、「区別さん」はそれを取り出して後を追っていった。

「お天気お姉さん」と「区別さん」は、同期どうしの天敵どうしだ。

僕は、とくに何も気にしていない様子の白戸さんを横目で見て、コーヒーを一口飲んだ。ため息が自然に口から出た。

僕だって、この会社に入ったときはとてもうれしくて、やめたいと思う日が来るなんて思わなかった。もしかすると、「日常」というものは、どうしたってつらいものなのかもしれない。たくさんの人が「非日常」を求めて沖縄に行ったりするけど、沖縄の人だって、「非日常」を求めて外国へ行ったりする。それに、結婚したばかりの友達は幸せそうだけど、何年か前に結婚した友達は、結婚生活の日常は大変だと、そんな話ばかりする。

誰もが羨むような「超セレブ」のような人でも、華やかな生活が日常になってしまえば、いろいろと悩みが湧いて出てしまうみたいだし。どうして日常というものには、悩みがつきまとうのだろう。

これって、大事な問題じゃないだろうか。だって、人生のほとんどは日常でできているんだから。日常がどうしたってつらいのなら、「人生はどうしたってつらい」ということになってしまわないだろうか。

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