見出し画像

『淳一』  〜1990年はじめての男〜 vol.7

部屋を出ていく僕に、淳一は「ごめん」と何度も呟くだけだった。

ドアを閉めると、風がものすごく冷たく感じた。
淳一に出会わなければ訪れることもなかった街を駅まで歩いた。
人のしゃべり声や車の音がうるさすぎると思った。

ウォークマンを取り出してイヤホンで耳を塞いだ。

淳一が好きだと言っていた『OLIVE』が流れてきて早送りした。
大好きな『Nervous But Glamorous』も、今はちょっとうるさすぎる。
『One More Kiss』が流れ、ああ、これだな、と思った。

純粋なのは磨かぬダイヤとあなたに恋した日
One more kiss to me 
Please once again
もう一度あの口づけでどうかあたしを抱きしめてよ

涙があふれてきた。

何度も、何度も、繰り返し聞いた。

電車の中で嗚咽を漏らさないように、うつむきながら息を潜めた。
だけど涙は小さな瞳を音もなくつたい、やがて、床にこぼれ落ちた。

噂には聞いていたけれど、失恋とは、こんなに悲しいものか。

死にたい人の気持ちが、ちょっとわかるような気がした。

家に帰るといつものとおり母が怒っていた。
どんなに怒ったところで金曜の夜は必ず外泊をする息子に、よくも、まあ、こんなに毎回怒れるものですね、と関心していたけれど、今夜は、母に、今日という日が僕の人生で一番悲しい日だ、ということを伝えたいほどだった。

無言のまま、イヤホンをつけたまま、うつむいたまま、自室へ向かった。

自分の部屋さえ冷たく感じた。
ベッドに座りこみ、イヤホンを外した。
階下のテレビから大勢の人の笑い声が聴こえた。
この世の全部が大嫌いに思えた。

今頃、淳一は何を思っているだろう。
自分がしたことをひどく悔いているかもしれない。
「やっぱり、もう一度やり直そう」
もしかしたら、そんな電話がかかってくるかもしれない。
淳一には、うちの電話番号を教えてあった。

布団を頭からかぶった。
「ご飯食べたの?」という母の声は無視した。
眠りに落ちてしまいたかったけど、聴覚が、電話のベルを聴き逃すまいと冴えていた。

だけど日付が変わるころ、電話なんて来ないものと察した。

淳一は悔やんでいるどころか、今頃、ワタルを部屋に呼んで楽しくやっているのかもしれない。
いくら17歳でも顔があれじゃあなー、なんて、笑い合っているのかもしれない。

イライラしてきた。

急激に、イライラしてきた。

布団にくるまっていても凍えそうだったのに、嘘みたいに暑苦しく感じた。
淳一とセックスしている時みたいに汗ばんでいて、気持ちが悪くて、思いきり布団を蹴り飛ばした。
部屋の冷たい空気を深呼吸したら、綺麗な水を飲んだように生き返った気がした。

苦しい思いをしてでも、淳一を喜ばせようと頑張ったのに。
付き合おう、と言ったのはそっちのくせに。
あんなに、さらっと簡単に僕を捨てる、だなんて。

勝ち負けでいうところの負け。

そう思った。

ものすごく悔しい。

そう思った。

それから、いまさらだけど、文通ってどういうこと?

そう思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?