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木戸孝允が伊藤博文に不信感を募らせた話

いまはむかし、日本の近代において江戸幕府の倒壊とともに明治維新が成し遂げられた。その中心人物に、長州藩出身の木戸孝允がいた。

彼は桂小五郎という名でも知られる。倒幕か恭順かで揺れ動いた長州藩の藩政を巧みにコントロールしつつ、取り締まりの厳しい京都に潜伏して情報取集に努めるなど活発に働いた。

彼は長州藩の若手志士たちのよき兄貴分でもあった。伊藤博文や高杉晋作、井上馨、山縣有朋らの面倒をよくみていたし、何かあれば相談にも乗った。伊藤や井上が維新後に重要な職に就けたのも、木戸の尽力によるところが大きかった。

なかでも伊藤のことは弟分のようにかわいがった。伊藤は足軽という、武士階級でも最下級の身分でありながら、明晰な頭脳と卓越した語学力、老練な交渉力を武器に頭角を現し、新政府における長州藩の地位確立におおいに貢献した。

伊藤の才能を愛した木戸は、彼が新政府でも重要ポストを担えるよう動いた。その甲斐もあって伊藤は下級武士出身ながら兵庫県知事というポストを与えられた。

兵庫には列強の船が出入りする神戸開港場があり、管轄権限は兵庫県にあった。語学と外国との折衝、紛争処理を得意とする伊藤にうってつけの要職であったが、抜擢の影には木戸の信頼もあった。

その後も伊藤は大蔵省の会計局長になるなど、順調に立身出世を果たしていく。木戸も伊藤の活躍に目を細めた。目をかけてきた弟分がこれだけ偉くなり、うれしくないわけがなかった。

そんなふたりの間に、暗い影が差し始める。きっかけは、維新の功臣たちを中心に結成された岩倉使節団の海外視察だった。

渡米・渡欧の目的はほかでもない、幕末に交わされた不平等条約の解消を目的とする列強各国との協議である。このメンバーに、特命全権大使の岩倉具視ほか、木戸孝允、伊藤博文、大久保利通らが名を連ねた。

余談だが、このときの一団には、当時六歳だった津田梅子もいた。梅子は十一年の米国留学を経て帰国し、女子英学塾(後の津田塾大学)を創設する。帰国後は一時期英語の家庭教師として伊藤家に住み込んでいた。

意気揚々とアメリカに乗り込んだ岩倉使節団だったが、いきなり出鼻をくじかれるようなことが起こる。アメリカ側と条約改正について交渉する予定だったのが、「委任状がないとはじめられない」と門前払いを食らい、協議不可となったのである。近代国家として立ち始めたばかりの日本はこのとき、痛烈な洗礼を浴びてしまった。

わが祖国の未熟ぶりに伊藤は赤面し、大久保とともに委任状を取りに戻るため帰国した。伊藤と大久保は約半年かけてアメリカに再渡航するも、結局いろいろな障害が起こり、再交渉は果たせなかった。

木戸は岩倉らとともに伊藤と大久保の帰りを待つ間、異国の地で不自由な成生活を余儀なくされた。とくに英語が話せず、現地の人々とまったく意思疎通が取れないことにおおきなストレスを抱えたのだ。待たされた挙句交渉もできない結果に終わったことも、おおいに不満であった。

木戸の憂いはそれだけではなかった。伊藤や大久保などは、アメリカの風俗に触れてはただ感激し、日本もはやくこのように開明的にならねばならぬとしきりに説いた。アメリカの成熟ぶりを誉めては日本の遅れを恥じる同行者たちに、木戸は少なからず反発の心を抱く。

木戸が帰国後にしたためた手紙には、次のような趣旨のことが書かれている。

「欧米の文明開化は一朝一夕に成ったものではなく、長い年月を要してゆっくり育まれたもので、その根は大変深いものがある。対していまの日本が目指す開花と称するものの多くは、皮膚上のことに過ぎない」

要するに、日本は欧米の進んでいる部分の表面をなぞろうとするのみで、これではかたちばかりの近代化に終わってしまうだろう、と警鐘を鳴らしているのだ。

また、「日本には日本の、長い年月をかけてゆっくりと育んできた歴史と伝統があり、その根っこの上に違う幹を取り付けたとしてうまくいくのか」という疑念もあったのかもしれない。

伊藤は違った。欧米の先進的な文化・文物を積極的に取り入れることで、日本もはやく近代国家の仲間入りを果たさなければならない、という考えだった。木戸と伊藤は、欧米視察を機に見解の相違が明らかになった。伊藤の考えは相いれないと思ったのか、木戸は徐々にこの有能な後輩と距離を置くようになる。木戸が急に自分のもとを離れていくのがありありと分かった伊藤は、そのときの複雑な心境と困惑を手紙に書き残している。

やがて木戸は明治政府の示す方針と政策についていけなくなり、職を辞して自宅に引きこもった。精神も少なからず患っていたと言われる。その後は復帰することなく、西南戦争で死んだ西郷の後を追うように息を引き取った。最後まで新政府の行く末を案じていたという。

伊藤博文はその後、憲法の起草や国会の開設といった近代国家作りの根幹に関わる事業を中心となって推し進めた。そして日本で最初の内閣総理大臣になる。草葉の陰の木戸は、どのような思いでこのときを見つめていただろうか。

伊藤が総理大臣に就任してから六十年後、日本はアメリカとの戦争に敗れた。それは、取り付けた幹がぐでんと倒れた瞬間でもあった。



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