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”著名人の死から考えたこと”ー私は死ぬのが怖いし、でも「死にたい」ってなっちゃう人の気持ちもわかる。

 土日に仕事をしなかった分を取り返そうと早起きしようと思っていたが、起きたのは10時。「決して落胆はしないように」と自分自身に慎重に言い聞かせ、無理やり近くのファミレスに行った。土日に来ていた3通のメールのうち、1通返すのに1時間以上かかった。内2通は未だ返信できていないのに、昼前にはファミレスを後にした。空は秋晴れで美しかった。

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 昼食は、夫がチャーハンを作ってくれた。それに甘え、「今日はもうしんどいから諦めよう」と思い、ゴロゴロしながらTwitterやYouTubeを見ていた。でも特に内容は覚えていない。

 なんとなく心のエンジンがかからず私は困っていた。

 今日は月曜日なのに思ったように体が動いていない。昼ごはんを作れず、夫に頼ってしまった自分が情けない。「今日は諦めよう」と決めたくせに、往生際悪く「今日未だになにも達成できていない自分」を認めようとしない自分が憎い。私は私をまた責めている。
 こうやってつらさが募ったとき、「死にたい」は、突然やってくる。

「幸せ」を噛みしめるたび、それは永遠じゃないと思い知る

 昨日、有名女優が亡くなった。悲しいと同時に、改めて「死」について考えるきっかけになった。
 「順風満帆に見えたのになぜ…」「再婚もして赤ちゃんも生まれて、幸せなのに…」などと多くの人が悼んでいるようだが、私は違う感想を持った。亡くなった有名女優の気持ちが、少しわかる気がしたのだ。

 「幸せそうに見える」のは一側面だけであって、その人にはその人の地獄がある。その人にしかわからないつらさがある。たとえば現代で幸せの象徴とされている「結婚」や「出産」がライフイベントにあったとしても、関係ない。物事や人は、必ずしもパブリックイメージ通りのものではない。

 仮に、「幸せ」だったとする。でも、繊細な人ほど、「幸せ」を感じるたびに、その「幸せ」の行く末を想像してしまう。「幸せ」を噛みしめるたびにそれは永遠に続くものじゃないという思考を、先回りして思い知る。「幸せ」はいずれ壊されるものだと知っているからこそ、「幸せ」を知るのが怖い。「この幸せがずっと続けばいいのに」と願う反面、見たくない、聞きたくない。顔を背けたい。

 だから、なぜか、生きるのが嫌になる。

死ぬのが怖くて、人生のコマを進めるのが怖くなるときもある

 最近、私は「生きることは、死に近づくことである」という普遍的な事実が受け入れられなくなってきた。それは、自分が入籍し、妊娠をする適齢期にあるからだと思っている。
 妊娠適齢期だからか、子どもについて考え、人生を考えるようになった。
 同時に子どもを産むことに抵抗があることに気づいた。子どもが嫌いなわけではない。人生のコマを自分が進めるのが怖いのだ。
 自分が母になれば、私の実母は祖母になり、エンディングへコマをすすめることになる。守るものが増え、私は子にとって唯一無二の存在になれるが、それはときの流れを意味する大きな出来事にもなる。自然な流れで死が迫ってくる。
 最近は、もうこのまま、一生、私は「子」のままでいたほうがいいのだろうかとすら極端に考える。母になるのが怖い。祖母へとなりゆく実母が怖い。実母が老いていくのを見たくない。
 子を産めば、幸せ。孫ができれば幸せーー。だけど、その分、面と向かって考えなければならないものができる。

 「幸せ」は「死」への恐怖への裏返し。「死」への恐怖のピークは、「生きること」の嫌悪。だからか、「幸せ」なイメージを持つ人・持たれている人こそが、死を考えてしまう。

 多くのコンテンツで、未来をいいものとして描いているのは、印象操作だと思っている。「どの道筋を通ってもつらいものが待ち受けているのなら、どうせなら生きるのをやめたい」と、私は思ってしまう。

 こんなことを考える理由は、私自身が定期的に生きるのをやめたくなってしまうからだ。今日がそうだった。

精神的ドーピングして、なんとか生きてる

 私は、死ぬのが怖い人の気持ちも痛いほどわかるし、「死にたい」ってなっちゃう人の気持ちもめっちゃわかる。

 私は今、好きな人と結婚して、ありがたいことにお仕事もいただけていて、生きてて、ごはんとかおいしく食べているからたぶん「幸せ」なんだと思う。それで、やっぱり、「幸せ」が失われることが怖い。夫は今32歳だけど、夫と死別するシーンを想像して、普通に泣いたりする。

 そういうキツイときは、生きるために精神的ドーピングをすしてなんとか生きている。表現は精神的オーバードーズでもいい。好きなものや行動や夢中になれるエンタメを浴びて、そのときばかりは「生きること」「死ぬこと」を考えずに済むようにする。走ったり、好きな文章を書いたり、ヒロアカのこと考えたり、ももクロのライブ映像を見たりする。この最低な世界を生き抜くためには、生きるためのドーピングが必要だ。

 そして、自分が老いて寿命が近づいたときのことが怖いから、将来への精神的な蓄えをしている。「死」について考え、自分の意見を明確にする。「生きる」を楽しむための方法を模索する。来たるべきときにどっしり構えられるように、死生観について逃げずに考える。

 これが、いまのところ、私にとっての生きるということ。

 あと、これが今日食べた、おいしかったチャーハンです。

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今度一人暮らしするタイミングがあったら猫を飼いますね!!