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甲羅が邪魔で(短編小説;4,600文字)

「睡眠障害ですか?」

 部屋のソファにかけるなり、彼女は、手にしたファイルから顔を上げ、コーヒーテーブル越しに言った。
 首から下げた名札には、『臨床心理士 亀井砂絵』とあった。── 『さえ』だろか、『すなえ』だろうか? それに、『亀井』とは ── 何かの巡りあわせだろうか? いや、むしろ ── 何かの呪い?

「はい……眠れないんです。……いえ、正確に言えば、眠るのが怖くて」
 充血した目でわかったのだろう、亀井砂絵は軽く頷いた。
「── リラックスして、一度、深呼吸しましょうか」
「はい」
「怖い ── 夢でも見るのですか? それとも、……」
 彼女は僕の目を覗き込んだ。
 カウンセラーは会社に週1で来ることになっており、今回初めて面談アポを取った。睡眠障害が仕事に支障をきたすほどひどくなったからだ。
 その部屋は、小ぶりの会議室を転用したもので、事務机がひとつに、ソファとテーブルから成る応接セットが置いてある。

「夢自体は……怖くないんです。ただ、苦労が多くて……」
「苦労? 話してもらえますか?」
「はあ……しかし……」
 亀井砂絵は30代半ばぐらいだろうか。おそらく職業的にそうしているのだろう、口もとにほのかな笑みを漂わせている ── が、目は笑っていない。
 体つきは標準的だが、胸が大きく、白衣の一番上のボタンが傾いている。
「その、……カメに……」
「亀? ── 爬虫類の?」
「……いや、やっぱりいいです」
「夢に亀が出てくるの?」
 口調が変わった。この職業の流儀なのか、事務的モードから友人モードに遷移した。それまでそろえていた赤いスカートからのぞく足を大きく組んだ。
「……はい……まあ」
 続いて、ハッとしたように胸の名札に目をやった。
「あ……違います。ホントなんです……夢に出てくる話は……」
 亀井砂絵はまだ疑いを捨てていないようだったが、ともかく、話を進めようとした。
「どういう夢なの? ……亀に襲われるとか?」
「いや……そうじゃなくて……」
「話してよ……聞きたいわ」
「……でも……変な夢だし……」
 亀井砂絵はちょっといたずらっぽく声を上げた。
「わかった! 性的な夢なのね? ……話していいのよ。私、夢分析の講義も受けてるから、わかるかもしれないわ。夢の30%ぐらいが、実はエッチな夢なのよ。あなただけが特別じゃないから」
「……はあ、じゃあ」
 そう言われても、話しにくいことに変わりはなかった。
「夢の中で、僕は亀なんです。いわゆるリクガメで、砂浜のような場所を歩いています ── ノシ、ノシ、という感じで」
「ノッシノッシね、いいわあ、亀らしい感じ出てる!」
 亀井砂絵は胸の前で小刻みに拍手した ── これもカウンセリング・テクニックなんだろうか?
「それで……」
 再び言いよどんだ。
「それで?」
 亀井砂絵は前傾角度を強めた ── 白衣から胸のふくらみがのぞく。
「歩いていると、いつも前に亀が ── 別のリクガメが歩いているんです」
「お友だちもいるわけね」
「いや……その……その亀、メスなんです……もちろん、見た目ではよくわかりませんが、たぶん……」
「ははあ……」
 亀井砂絵は意味ありげに笑みを浮かべ、腕組みをした。
「いや、わかる、わかる。……いえ、恥ずかしいことじゃないわ。亀、というのが珍しいけど、たぶん、何か ── いえ、誰かのメタファーなんでしょう」
「はあ……」
「……で?」
「そのう……前を歩く亀を追いかけます……いつものことですが」
「……で?」
「追いついたら、亀の背後からのしかかります」
「ま、そうでしょうね。……で?」
「邪魔なんです」
「何が?」
「甲羅ですよ」
「甲羅? ……そうかな?」
 亀井砂絵は首を5度ほど左に傾けた。
「先生は亀になったこと、ないでしょう? だからわからないんです。あんな邪魔なもの、何でついてるのかな……」
 彼女は小さく首を振った。
「カウンセリングに戻りましょう。おそらく、その夢は現実世界の問題を反映しています。女性関係で悩みがあるのね……何かその、女性へのアクセスがらみでうまくいかなかった経験があるんでしょう?」
「アクセスがらみ……人間の、ですか? ……いや、特にありません。それに僕、これまで女の人と付き合ったことはありません。……あ、誤解があるといけないので、男の人ともありません」
「ホント? あなたは……28歳か……ふうん、それでまだ、ど……あ、いえ」
 彼女は僕の全身に素早く目を走らせた。
「……でもこの夢、繰り返し見るんでしょ?」
「はい。眠ると必ず……だから眠るのが怖くて……」
「あなたの無意識下の何か……何かを反映しているはずなのよね」

 亀井砂絵はしばらく考えていたが、
「ま、いいわ。分析より解決が重要だし……。夢の問題は現実世界で解決しましょう」
 そう言って立ち上がった。
「甲羅が邪魔なら、脱がして ── いえ、剥がしてしまえばいいんじゃない? それからゆっくり、メス亀さんと仲良くする……」
「いや、僕、調べました ── 亀の甲羅は、脊椎や肋骨と癒合した皮骨なんで、剥がすことなんてできません」
「いいのよ、いいのよ」
 亀井砂絵は白衣の袖を脱ぎ、軽く畳むと背中に載せ、ソファ脇の床で四つん這いになった。
「ハイ、私、亀です。あなたも亀になって!」
 肩越しに振り返って促す。
「なれって、一体……どうやって」
「ほらほら、これが甲羅」
 背に載せた白衣を顎で指す。
「私の後をついてきて、甲羅を剥がすのよ ── ほうらほら」
 呆れた ── 亀に扮するカウンセラーにではなく、安易な設定の『甲羅』に。
「そんなペラペラの甲羅なんて存在しませんよ。もしそれが甲羅だったら誰も苦労しません」
 そりゃそうね、とあっさり立ち上がり、部屋を見渡した彼女は、壁に立て掛けてあった折り畳み椅子をつかみ、背負ったまま再び四つん這いになった。
「これでどう?」
「……うーん。ま、ギリギリ『甲羅』かな」
「じゃ、あなたも亀になって! 早く!」
 仕方なく、彼女と同じ姿勢をとり、トコトコ進むその後をついていった。そして、立ち止まったタイトスカートの腰に行き当たると、その腰を両手で捉えようとした ── 顔に折り畳み椅子のフレームが当たりそうになる。

 やはり、『甲羅』が邪魔だ ── 夢と同じだ。

「さ、亀から甲羅を剥がすのよ! そして、そのイメージをしっかり脳裏に焼き付けるのよ!」
 亀井砂絵が叫んだ。
「は……はい」
 おそらくはその姿勢のせいだろう、『甲羅』はけっこう重かったが、なんとか脇にどけることができた ── そして。

「おい、何やってるんだ!」

 頭の上から怒号が降ってきた時、僕は『甲羅』を剥がしたメス亀の腰に両手で取りつくところだった。
「え?」
 振り向くと、いつ部屋に入って来たのか、強面こわもてで知られる営業部長が睨んでいた。

「あ、もう次の面談時間?」
 いつの間にか亀井砂絵は立ち上がり、両手の埃をはたいている。
「ハイ、じゃあ、今日はこれで終わり、これでもう同じ夢は見ないはずよ。まだ何か問題があったら、また面談アポを取ってね!」
 ズボンのひざに埃を付けたまま部屋を出る僕を、営業部長はずっと睨み続けていた。

**********

「……なるほどね。それで前の会社に居辛くなって、転職したってわけ?」
「はい、そうです」
「気が小さいのね。……で、夢の方はどうなったの? 今日の面談はそのことなんでしょ?」
「はい、……って! どうして先生がこの会社にいるんですか?」
 僕の目の前には3か月前と同じ、白衣を羽織った亀井砂絵がいた。
「あの会社には毎週木曜に行ってるの、この会社のカウンセリングは火曜。偶然ね」
「僕はあの後、営業部長に呼ばれてたっぷり油を搾られたんですけど、先生の方は問題にならなかったんですか?」
「ぜーんぜん、だって、カウンセリングしてただけだもん!」
「はあ……」
 力が抜けた。
「それより、質問に答えなさいよ。ねえねえ、夢はどうなった? メス亀の甲羅を剥がして仲良くなれた?」
「うーん……まあ……」
「はっきりなさい! 現実世界で行動した通り、夢の中でもできたでしょ?」
「甲羅を外す、ということに限れば……確かに……」

 リクガメになって砂浜を歩く夢は相変わらずだった。そしてやはり、前をメス亀が歩いていた。僕は彼女(?)に追いつき、邪魔になる甲羅を両手でつかんで ── といっても亀の手なので、カウンセリング・ルームでのようにはいかなかったが ── 横にずらし、なんとか剥がすことができた。
 甲羅を外すと、その下には、ピンク色の柔らかい肌が息づいていた。
 その肌に触れようとした、その時である。
 僕の体 ── 亀の体 ── は横に吹っ飛び、甲羅を下にひっくり返った。
 仰向けで両手両足をばたつかせながら見ると、ひと回り大きなオス亀がこちらを睨みつけていた。

(営業部長だ!)

 部長亀は足で空を掻く僕を鼻で笑うと、甲羅が外れたメス亀の背後からのしかかろうとしていた。
(やめろ!)
 ── 自分が叫ぶ声で、いつも目が覚めるのだった。

「……つまり、現実世界からの刷り込み作戦、見事成功したってことね!」
 亀井砂絵はうれしそうに拍手をした。
「……でも、あの時、部長サンに怒鳴られたのがよほどこたえたようね。夢の中にまで出て来るなんて!」
 その夢を見るたびに、あの日僕の次に面談に現れた部長とカウンセラーとの個人的関係を疑ったが、本人に尋ねるわけにもいかない。
「刷り込み作戦は成功だったかもしれませんが、事態は悪化しています。前はメス亀の甲羅が邪魔だっただけですが、今は突き飛ばされて砂浜にひっくり返ったまま、ただジタバタしているだけです!」
 前の職場の時と同じく、いや、それよりも悪化した睡眠環境のために、昼間の業務効率も落ちた。このままでは試用期間の終了と共に解雇されかねない。

「Let’s look at the bright side!」
「は?」
「景気の悪いことばっかり言ってないで、明るい方に考えたらどう?」
 亀井砂絵は立ち上がった。嫌な予感がした。
「いい? あなたも確認したじゃない! 現実世界での問題解決が、夢の成り行きにも影響するのよ!」
 彼女は僕の手を取って立たせると、カウンセリングルームの空いたスペースに引き立て、いきなり足をかけて倒した。
「いてて、何するんですか?」
「あなたは亀よ! 部長亀に突き飛ばされて砂浜に仰向けになってジタバタしてる亀、ハイ!」
 気圧けおされた僕は床に寝そべり、両手両足を宙にさまよわせた。
 彼女は、と見れば、既に亀になっているのだろう、あの時と同じ四つん這いになって、けれど今回はその頭を僕の左肩に押し付けてくる ── いや、顔を床につけんばかりに下げて、僕の左肩の下に頭をねじ込んでこようとしていた。
(そうか! ……ひっくり返った僕 ── オス亀の体を元に戻してくれようとしているんだ!)
 その努力に報いるため、僕も体の向きを変え、彼女が頭を挿入しやすくした。
 もうひと息でオス亀がひっくり返り、元の四つん這いに戻る、という時である。

「ちょっと、あんたたち、何やってるの!」

 甲高い叫び声に見上げると、目の吊り上がった女性の顔が宙に浮かんでいた。
 その顔には見覚えがあった ── この会社に転職した時、中途採用の面接に出てきた人事部長だった。
 僕の夢は、── そして現実世界も、 ── さらに複雑さを増していくようだった。

 ……やはり、呪われている……。



この短編を書き終えてから、あ、そうだ、とリクガメの動画を検索してみると……ありました、ありました。
やはり、苦労が多いようです……。

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眠れない夜に

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