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糸のいろ(短編小説;8600文字)

 <BSC社が開発した少子化対策の切り札……だけでなく>


 赤い糸は交差点で分岐していた。直進する糸は太めだが、目標までの距離は1856 mとまだ結構ある。一方の右折する糸はやや細いが、485 mと表示されており、しかも見ている間にも、484、483、……と減り続ける。
(……ちょっと疲れたな)

 今日は既に20分以上歩いていた。前方に伸びる糸の太さには気を惹かれながらも、道を折れた。途中から距離の縮まる速度が増した。
(── あのひとか)
 向こうから同じようにスマホを片手に歩いてくる、ボルドー色のワンピース姿に目をとめた。彼女もこちらに気付いたようだ。
(── 30代半ばぐらいだろうか)
「こんにちは」
「どうも」
 そしてふたりは見つめ合った ── 僕より10センチほど低い背、小づくりの顔だけでなく、柔らかそうに盛り上がった胸、こちらもややふっくらとした腰など、体型全体にも、さりげなく目をやる。
 街の中で初めて出会った男女がじっくり互いを見つめ合う ── そんなことはつい最近まで ── 少なくとも僕にはあり得なかった。
「お茶でも飲みながら話しませんか」
「いいですね」

 コーヒーの香りがただよう喫茶店で、話は弾んだ。弾む理由は明白だ ── ふたりの遺伝子のどこが惹き合ったのか、知りたかったのだ。
「── そうですか。女性で建築設計の仕事とは、珍しいですね」
「子供の頃から、ブロックを組み立てて何か作るのが好きだったんです」
「ふうん。立体認識能力が優れているんですね。立体認識って、言語認識に比べると、かなり遺伝性らしいですよ」
「そうなんですか。そういえば、母が地図を見たり道を憶えたりするのが得意でしたね。……あなたは?」
「僕は苦手です。子供の頃から方向音痴だし、絵も工作も苦手で、その代わり、作文は得意でした」
「じゃ、言語脳の方ですか」
「── たぶん」
「── で、《赤い糸》は」ようやく本題に入ってきた。
「── どれくらいになりますの?」
 彼女はためらいながら尋ねた。
「アプリをダウンロードしたのは、ほんのひと月前です」
「では、私は?」
「5人目です」
「では……まだ、そんなに?」
「そうですね。でも、あなたと話していたら、……かなり学習してきたな、と」
「私もなんです。登録したのは3か月前なんですけど、最初のふたりぐらいはどうも……。それで《糸》を信用できなくなって、しばらく無効にしてたんですけど……先々週から週末にふたりずつと会って、……そうしたらだんだん、……変な言い方ですけど『ツボにハマってきた』っていう感じで……」
「わかります、それ」
「……でも、おかしくありません? たった数人でそんなに学習するなんて」
 もっともな疑問だった。
《赤い糸》は、僕らの個人データだけじゃなくて ── もちろん、最重要視はするけど、ほかの ── 今どうなんだろう、何十万人か、何百万人か ── すごい勢いで増えているユーザーの全情報 ── ビッグデータ ── を使ってマッチング精度を上げるんだそうです。だから、あなたが休んでいた間にも、どんどん評価関数が正確になってきてたんですよ」
「そうなんですか! じゃ、サンプル数は6とか7どころじゃじゃなくて、何百万、いや、その相互作用だから何千万かもしれませんね」
「実は、だから僕は《糸》に、すぐには手を出さずに、会員が増えるのを待っていたんです。たぶん、サンプル数が少ない頃のユーザーは結構『外れ』を経験したんじゃないかな」

 さらに話は弾んだ。仕事のこと、家族のこと、趣味のこと ── あっという間に1時間ほどが過ぎ、店員の目が気になった僕たちは途中でコーヒーをおかわりした。
「……あの」
「あの……」
 彼女が言おうとしていることには、僕と同じ気配があった。
「体の……相性は……どうなんでしょうか?」
「私も……ちょうど私も……同じこと、考えていました」
 僕らは店を出た。

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