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「所有とはなにか」を読んで。

Amazon Kindleで見つけた瞬間にポッチとした。近年読んできた様々な書籍ともリンクする有益なものだった。「所有とはなにか」を簡単に紹介しつつ、「所有」について考えてみたい。

と言いつつ、このnoteより本を読んでいただいた方が良いと思うので、まずはポッチとしてください。あんまり書店では見かけないのでAmazonで買ったほうが早いと思う。

「所有」への疑問

私は近年、所有という概念に考えることが多かった。なぜか。まずはここを出発点としよう。

大きくわけて2点ある。

AIがイメージしたサブスクサービス

①サブスク時代の所有とは何か?という疑問


Netflix、Spotify、Amazon prime、kindle unlimited…私が入っているサブスクサービスだ。これ以外にも入っていた気がする。明細は怖いので見ない。

私は1983年生まれの40歳。中学~高校時代は90年後半から2000年代前半でCDやらDVD全盛自体である。やれ「GLAYだ」「ミスチルだ」「ラルクだ」「今月はどの新譜を買った」「これ貸すからそっち貸してくれ」毎日、教室のあちらこちらから聞こえてきた。

バンドをやっているK君はお父さんの影響もあり、ビートルズやオアシスなど洋楽のCDを持っていた。当然、一目置かれていたし、「彼の買ったスピッツってバンドはきっとかっこいいバンドなんだ」と思われていた。

ビジュアル系が好きなO君からはマリスミゼルを教えてもらった。

私はthe brilliant greenが好きだった。確かファースト・アルバムがB’zのベストと発売日が同じで、みんなそっちを勝ってた。ブリグリを持ってるのは私だけだった。

思い返すとあの時代は所有しているものが「アイデンティティ」となっていた気がする。ビジュアル系が好きな人、メタルが好きな人、アイドルが好き人。CDラックを見ればだいたい人となりが分かる。錯覚だったかもしれないが、確かにその感覚があった。


AIが描く中学生のCD貸し借り

今はどうだろう。もちろん、「あの人は◯◯が好き」はある。しかし、サブスクで届く情報は誰でもアクセス可能だ。「あのバンドがいいよ」と言われれば、わざわざタワレコに行かなくても親指をスワイプすれば聴取できる

サブスク時代において、「所有」はどんな意味を持つのだろう。

②資本主義から逃れるために


資本主義の外に出るためには何をすればいいのだろう。もう一つはこの単純すぎる疑問からだった。何も共産主義に傾倒しようとか前進チャンネルを登録しようとかそういうことじゃない。
私はカメラが好きだ。ネットを調べるとやれ、高画素だ連射性能だ10bitだと性能インフレの波に飲まれてしまう。もちろんスペックを見るのは好きだし、メカを触る楽しさは分かる。一方で昔から使っているフィルムカメラでも今でも写真を頼んしでいるおじさまがカッコいいんだ。これが。
NIKONのfm2を大切に使っている先輩ニコ爺と話したことがある。「そのカメラいくらで売ります?」答えは「普通に売ったら3万とか4万じゃない?でも俺はこのカメラはずっと使ってるし、子供にも渡したいからいくら積まれても売らないよ」。これは資本主義の本質であり、アンチ資本主義とも言える行為なのではないか。
いったん所有権さえ手に入ってしまえば好きに使っていい。逆に言うと一度所有してしまえば、いくら積まれても売らなくていい。売らない権利を獲得できる。一見するとこれは資本により人もモノも流動する社会から独立する行為に見える。サブスクはむしろこれとは逆でNetflixのような会社が所有するコンテンツを個人である私が享受する行為である。一度気に入っても会社の事情によって明日には見られない可能性もある。

サブスク時代の所有についてモヤモヤと足りない頭で考えていた時、「所有とはなにか」という武器を得た。本の紹介に入ろう。

本書は複数の著者が自身のフィールドで考えた「所有」についての論考を寄せた一冊だ。

本書紹介

◯第一章「所有と規範 戦後沖縄の社会変動と所有権の再編」

哲学者の岸政彦さん。岸さんといえば東京の生活史というたいへん分厚い本が記憶に新しい。
この章はいわゆる上記したような単純なモノの所有権ではなく沖縄という自治権の所有者が変わってきた、変わってしまったということを地域の新聞から「所有権の解体と再編」を論じている。
正直にいって、この章は読んだ時あまりピンとこなかった。話としては面白いのだが、私が欲していた所有権とはやや異なるものだったからだ。沖縄の自治の話に興味は湧かなかった。しかし、一冊読み終えるとこの章が重要な意味を持つことに気づく。

所有権をはじめとする基本的な人権が上から保証されないところでも~

所有権は国家や自治の主たるものから与えられる・保証されるという当たり前を再確認する。つまり、国家や自治の主たるものによって所有権は取り上げられるし変容するのだ。

◯第二章「手放すことで自己を打ち立てる タンザニアのインフォーマル経済における所有・贈与・人格」


文化人類学者の小川さやかさん。「チョンギンマンションボスは知っている」は名著だ。

タンザニアは小川さんいわく単に所有することに価値が薄く「贈与」「交換」「保険」などで他社との関係性に強く規定されるそうだ。タンザニアは経済的に不安定だ。経済活動が不確実だからこそ、「所有」するのはなく他者との関係を築くためにあえて流動性の高い社会が形成されている。

◯第三章
「コンベンション(慣習)としての所有制度 中国社会を題材にして」


梶谷懐さん著。この章では主に中国における土地の所有権について論じている。三権分置という制度についてここでは話そう。

所有権が農村集体に存在する農村の土地に対する農民の権利を、譲渡不可能な「請負権」と譲渡可能な「経営権」とに分離し、後者の流通を進めようとするもので、これまで各地の農村で実質的に進められてた土地流動化の動きを法制の上で正当化したもの

所有権と聞けば、普通の感覚でいえば一つであり、権利が分割されるものではない。しかし、土地が固定化することを良しとせず、制度として権利を分割したのた。これはアジアにおける所有権の弱さにあると梶谷は指摘する。

考えてみれば確かに。中国では当たり前のことで会社法人でさえ、国家がその気になれば国家のものとできる。個人の利益を守るという西欧社会の概念であり、アジアはその逆である。「アジア的所有権」は「弱い所有権」だ。

日本は「ヨーロッパ・アメリカ外で唯一西洋化し近代化した国」なので我々の感覚は西欧の「強い所有権」に近い。が、我々の祖父や祖母の感覚からするとアジア・中国的な「弱い所有権」に近いのかもしれない。

◯第四章
「経済理論における所有概念の変遷 財産権論・制度設計から制度変化へ」


瀧澤弘和さん著。この章はストレートに経済学から所有権に関する考え方の歴史を論じている。1章~3章の論拠を経済面から裏付ける。

特に興味深いのは土地を中心とした制度設計の潮流である。かつては市場を人の手によってコントロールできるようなものではないとされてきた。しかし、現代経済学は制度設計に柔軟である。社会主義ほどはいかないまでも経済の部分部分を設計することを是とする学者が多くなってきた。

ここから発生する面白い提言がposner and weylの財産権の再設計だ。


土地に対して適用されるのだが、ある意味サブスク時代の所有権として多様な知見に富む。

土地を所有している人は、その土地に対する自分の「評価額」を決定し、申告しなければならない。その土地に対する税額はこの申告額をもとにして決定される。より高い評価額を申告すれば、それだけ高い税金を支払わなければならないのである。できるだけ低い評価額を申告するインセンティブがあるように思われる。~中略~それよりも高い評価額を提示した人が出てきたときには、即座に所有権をその人に移転しなければならない~

随時、オークションが開かれているようなものだ。土地をもっとも効率的に配分していく仕組みで、サブスク時代の所有権っぽい!彼らは「所有」は独占であると主張する。

なかなか無茶苦茶…と思うかもしれないが、空き家問題はこれで解決する。タンス預金的なものも同等だろう。高齢化社会になればなるほど、土地や資産の流動性を高める必要性がある。一章や二章の沖縄やタンザニアとは逆である。つまり経済が不安定であればあるほど、所有権が弱い・強くする必要がある。しかし、日本を始めとした経済成熟期になると資産の流動性がなくなり、持てるものと持たざるもの、もっとはっきり言えば格差の拡大が問題であり課題となる。所有権の強弱によって経済の隆盛が垣間見えるのは面白い。また、それを考えると三章の中国がいかに例外的かという点にも注目したい。

第六章
「アンドロイドは水耕農場の夢を見るか?」


稲葉振一郎さん。
近代的所有権の基礎となっているヒト/モノを見直し、動物やAIといったヒト/モノでくくれない現代を再考する。

歴史的に見れば太古からヒトはヒト以外と切り離された存在だと捉えられた。ヒト/モノの境界性は実に曖昧だ。分かりやすくいえば奴隷制だ。奴隷は当時、ヒトではなくモノだった。そこには主/従の所有関係が発生する。現代でも境目が分からなくなる瞬間がある。例えば派遣社員。派遣社員は人だ。彼らを取り扱うのは人事…と思うだろうが、実は購買/渉外などの部が担務する企業が多い。つまり、ここで派遣社員は「人」ではなく労働力、モノとして扱われる。さらにインターネット、SNS上の我々はどうだろう。何度も再構した145文字と撮影から加工まで一日の大半をかけた写真。これらを所有するのは誰だろう。なるほど、あなたの手元にあるのだから一見してあなたのものに見える。著作権でも保護されているし。しかし、投稿時間やいいねの数やRTの数。管理しているのはプラットフォーム側だ。三権分置的いえば所有権はあるが経営権はプラットフォームに握られているとも言える。

さらに面白い点はジョン・ロックの指摘である。

ジョン・ロックは土地を耕すことが人間が自然から課された責務であるからだとする。このロックの考えが植民地の文脈に持ち込まれると、原住民が土地を最大限に活用していなければ他者が介入して効率化を図るのは当然だ、という考えに至る。ロックはさらに労働が所有権を作り出すとる。つまり土地そのものではなく労働という価値が所有権を生むのだ。これは現代の所有権にも大きな影響を与えているが、逆にも見える。現代の欧米型社会は所有権が強大になりすぎており、労働よりもモノが勝手に産む価値のほうが高くなっている。トマ・ピケティの21世紀の資本論にも通じる話だろう。

まとめ

では、いったんまとめよう。
所有権は所属する国によってその範囲が大きく変わる。経済的に未発達であれば、所有権は限定れる。簡単に強盗・泥棒でモノが盗まれてしまい、国家が保証してくれないからだ。
一方で経済が発展すればするほど所有権の強度が高くなる。国家が犯罪者を捕まえてくれるから。だが、強すぎる所有権が社会問題となることもある。現在の日本にある空き家問題やタンス預金のことである。
さらに所有権そのものが一党に帰属する中国のような国家もある。こういった国家は所有権を分割する、権利によって分けることが可能だ。

さらに、経済と国の体制と同じくらい重要なのがヒト/モノの境界線をどこに引くかである。奴隷制度がわかりやすい例であるが、一昔前の日本でも「自分の子供だから」「妻をどうしようが俺の勝手」のような家父長制でもヒト/モノの境界線が現代と違うことは分かるだろう。

現代の所有権


この本自体は現代の所有権について明確な答えを出すものではない。私も答えはない。
が、一つ、私なりのポイントを記して終わろうと思う。
それは私自身をヒト/モノどこで分けるか、である。

ホリエモンが以前、chatGPTについて語っていた。簡単なまとめるとこんな感じだ。
「chatGPTはシンギュラリティ。よくchatGPTに間違っているとか、会話が通じない、BOTみたいとか言うけど、お前らだってそうだろ。ほとんどの人間はBOTと変わらない」というものだ。


AIが考えるBOT


なるほど。一理ある。そしてホリエモンの発言に賛同する人間が非常に多かった。しかし、ここで気になるのはBOTのようなつぶやきはくまでスマホ上の人間であり、本当のBOTではないことだ。BOTのようなつぶやきをするアカウントの向こうには当然、リアルな人間が存在する。芸能人にクソリプをしたり増税クソメガネとネットでは呟いていても、家庭ではこの世界でたった一人のお父さんかもしれないし、職場では頼りになるサラリーマンかもしれない。
今の世界的覇権を握る企業はインターネットと通じて人の情報を掴んで、効果的に利用し大きな富を得る。そして、企業が求める情報は「インターネット上の人間」だ。
「インターネット上の人間」が「リアルの人間」の価値を超えてしまったのだ。情報化社会・サブスク社会の中でヒトの情報をモノに変えてネットにばらまく。それは莫大なビックデータとなり、さらなる価値を産む。ネットは個人の価値にレバレッジをかけてくれる。だからバズり方やネットの集客方法をみんなが気にする。リアルな自分よりネットの自分のほうが価値を産んでくれる。そう信じているからだ。

悪いことだとは思わない。原始時代には戻れないし、人間革命をしたいわけでもない。
しかし、今一度、自分の中のヒト/モノを再度見つめ直してみてもいいのではないか。

話はだいぶ戻るが、趣味を見つけよう、とはここに通じる。私にとっての趣味は身体性を帯びるものでなくてはならない。

  • カメラを持って外にでる。

  • 絵を描く。

  • 旅行をする。


AIが考えたカメラ写真旅行



趣味は身体性を帯びるからこそネットから自由になる。あなたが絵を描くのが趣味だとして。それをSNSにあげていたら、急に「ピカソより下手」と言われたらどうだろうか。まさにクソリプである。行為そのものに意味があるのであって、極論を言えば結果に価値はない。それが趣味だ。

身体・経験を帯びる趣味こそ、ネットから自由になる。ヒト/モノの境界線を曖昧にし、ヒトの感覚を取り戻す。過程に価値を産む行為はヒトにしか出来ない。

趣味って大事だよね、という凡庸な結論になった。趣味こそがネットで価値が増幅される情報火社会においてプラットフォーマーに所有されない逃げ道であるのではないか。

長々と書いたが、読みやすく示唆に富む一冊である。私くらいの脳みそでもウダウダと考えて時間を潰せた。気になったらぜひ手にとってみてもらいたい。

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