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せかいのふた

午前8時に目が醒める前、浅い夢を見た。
寒くて布団から出たくないはずだったのに、そうではなかったからだ。
突然やってきた麗らかな陽だまりに、思い出したのだ。
春の匂いはとても穏やかで、凍えていた木やビルが弛緩してゆくのを感じた。
季節の隙間は、世界のふたが外れる一瞬の綻びである。
これから世界に春のふたがされたら、私はまた何も思い出さなくなる。
だから今夢を見たのだ。

砂時計。
ペテルギウスはもうすぐ死ぬのだと聞いた夜が妙に明るかったのは、雪が積もっていたからだ。
ぼんやりと月を反射する夜は、すべてがとても静かであった。
雪を降らせきった空は清々しそうに深い紺色を湛えていた。
冬の冷たい夜に、誰かが死んだ。
その後、誰かが産まれた。
その真実を受け流して、雪の結晶のかたちを思い出していた。
降る結晶はかつて彼だったし、彼女であった。
まるでエジプトのピラミッドだと思った。

怠い体を起こして、壁の小さなしみを眺めながら水を飲んだ。
138億歳の宇宙は私の苦悩を知りもしないであろう。
まるで時間が浮遊したような気温に、本当の大地と宇宙を思った。
本当の空間は実は空虚なものである。
いつかはすべて失われるのだ。
全ての流転が、こんなに美しくなく、むしろ醜くあればよいと思ってしまった。

シャワーを浴びながら、少しずつ私が少なくなるのを知った。
夢が本当に夢であったか、自信がなくなった。
多分その人は泣いていた。
私が悲しませたのだ。
騙されたと思って生き残るのは、終身刑に似ている。

河川敷。
血と雨を交えたような極彩の桃色の花弁が、私を埋め尽くす。
そして鮮烈な緑が私を包囲し、瑞々しい青空に呼吸するのである。
しかし本当は桜の下には死体が埋まっていることを、誰もが知っている。
私はこれから騙される。
しかし今だけ、神様は眠っているから、思い出しても許される気がするのである。
世界のふたが閉じるまでの、秘密の夢を見たのだ。

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