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(企業編)東洋思想と西洋思想にみるリーダーシップの違い

大学院大学 至善館(シゼンカン)での学びをきっかけに、リーダーやリーダーシップについて考える機会が増えたので、今回は「東洋」と「西洋」におけるリーダーシップについて考えを纏めてみます。最後まで読んでいただけると幸いです。

至善館とは?
「人間性と社会性を兼ね備え、イノベーションと変革を牽引する経営リーダーを輩出する、独自の全人格経営リーダーシップ教育機関です。その目指すところは、20世紀を象徴する経営リーダーシップ教育のパラダイムであった西洋発のビジネススクール教育を出発点としながらも、21世紀を生きる私たちを取り巻く環境からの要請に真摯に向き合い、22世紀に向けて、日本そしてアジアから、世界のリーダーシップ教育のパラダイムシフトを実現すること(至善館公式HPより抜粋)」を目的とする大学院大学です。
私は現在、こちらの大学院の二期生として通学しております。
ご興味ある方は、以下のホームページ、もしくは気軽に個人的にお問い合わせください。現在、三期生の募集も行っております。
▼ご関心のある方はこちらより詳細をご覧ください。
大学院大学 至善館 オフィシャルホームページ


企業の雇用における⻄洋思想・東洋思想の考えの違い

まず、結論から述べると、東洋思想型のリーダー像と、⻄洋思想型のリーダー像の最大の違いは、「人格」をそれぞれの理想のリーダーの条件に含めるか否かであると思っています。東洋思想の場合、「修己治人」や「無為之大道」に現れている通り、人を治めるリーダーの条件において、「徳」という人格的な要素が根底にたっぷりと敷き詰められています。
一方で、欧米型のリーダー像のその根本的な部分には、やはりユダヤ教・キリスト教的一神教の世界観 が大きく影響していると思われます。一神教の場合、創造主と人⺠一人一人が「契約」をしているため、一 人一人の人間の性分は「創造主」から授かったものであって、「創造主」の被造物である人間同士の間でとやかくいう権利はない。なぜなら、その人の「性分」や「人格」は「創造主」である「神」により授かりしものであり、同じく被造物である他人(人間)がその「性分」や「人格」を否定することは、すなわち自分を創造した「神」を否定することにつながるからだと思います。そんな冒涜は許されない。よって、優れたリーダーの条件に「人格」的な要素を取 り込むことには違和感が生じる。なので、優れたリーダーは成果によって評価されるべきであって、成果を出すまで道のりにおいて現れてくる人格はあまり重視されないのではないでしょうか。(個人的にはトランプ大統領がまさに良い例かと思います。賛否両論ありますが。)

いま、コロナウィルス蔓延という有事の状況下、国・自治体のリーダーに対してみなさんが求めるものも、実は根底にはこうした理想のリーダーに求めるものの違いがあるのではないでしょうか?

この記事を書いているのが2020年7月3日で、二日後の7月5日には都知事選が待ち受けています。有事とはいうものの、マスメディアを始め、まだギリギリ耐えている感が国民感情として一般的である(既に耐えられる状況ではない方ももちろんいらっしゃいますが)からこそ、より保守的な投票が増えるのではないかと推測します。「あなたの言っている事はわかるけど、この事態で都知事経験のない人に急には任せられない」という保守的な気持ちがでやすいかと思います。みなさんはいかがでしょうか。

ところで、今回の都知事選に限った話ではないですが、選挙の際に、みなさんの胸の中にある、

「民主主義におけるリーダーはこうあるべきだ!」

というイメージには、人格的な要素は含まれているでしょうか?それとも機能役割としてしっかりと成果さえ出してくれれば構わないという気持ちの方が強いでしょうか?基本的には、「どんな政策」を話しているかよりも「どんな人が話しているか」の方に目がいっていませんか?

もし多くの方がそういった感覚をお持ちでしたら、ちょっと気をつけた方がいいかもしれないなと思います。なぜなら、当選したい人は一票でも多く票が欲しいので、有権者のメンタルモデル(この場合は有権者が投票の意思決定の際に影響を及ぼす要因)を常に分析しています。気をつけないと、思うツボになってしまいかねないかもしれません。

話が選挙の話にズレてしまいましたので、戻します。

東洋・西洋の雇用形態の違い

これまで話してきた特徴は、欧米型企業の雇用形態においても現れていると思います。つまり、年俸制が基本であり、契約期間内に求められる成果が出せるかどうかによって、その人物の価値は評価をされる。それは中間管理職であろうが、経営リーダーであろうが、変わらない。欧米の場合、自分よりもポジションが上の人間は、仕事における能力だけでなく「人格」的にも優れているべきであるという期待は、メンバーからは起こらない。このようにして、優れたリーダーかどうかは、「人格」よりも「成果」によって評価されるべきであるという態度になるのだと考えます。

他方で話を東洋に戻すと、東洋の雇用形態のベースは、いまだに「人格」にあるといっても過言ではないでしょう。採用においても「人格」が決め手となります。このことを裏付けるデータがありました。リクルート就職 みらい研究所が発行している「『就職白書 2019』-データ集-採用活動・就職活動編」の中でこれを見つけることができました。この調査は 2019 年卒の大学生・大学院生の新卒採用を実施した企業 1,307 社を対象に実施されました。この調査結果の一つである『企業が採用基準で重視する項目、学生が面接等でアピールする 項目』においては、「企業が重視している項目は「人柄」(92.2%)、「自社への熱意」(74.8%)、「今後の可能性」(66.9%)の順に高かった。」(注釈)という結果が出ています。この結果は、従業員規模・業種による差はほとんど見当たらないものとなっています。

(注釈:「人格」は人の本質、「人柄」は人の品格や性質という意味のため、「人格」の方がより深い意味を持つが、どちらもともに「徳」が作用していると考えるので、ここでは「人格」と「人柄」は同じ意味として筆者は解釈している)

儒教の影響が残る日本の採用現場

この結果は何を意味しているのでしょうか。これはつまり、日本企業は採用において、表層的な結果や能力よりも、その人物の「人格」を最も重視しており、この「人格」とは、儒教朱子学の影響を強く受けている日本 においては、「」を兼ね備えた人間かどうか、という尺度で評価をされる対象のものであると言えるのではないかなと考えられるのではないでしょうか。


ここまで新卒採用における例を見てきましたが、東洋思想の影響は、まだまだ企業文化の随所に根強く残っていると感じます。「君たちには後輩の手本になって欲しい」という使い古されたこのセリフも、この会社で働く姿勢として「手本」があるという前提に立っており、「手本」に求めれているのは業務スキルだけではなく、「人格的なもの」つまり「」的な要素も洩れなく組み込まれています。ここに、儒家思想の「」 の概念が現れていると考えます。つまり、従業員全員が目指すべき姿というものがあり、その姿に近づけるように日々行動することが、その会社における、正しい「」であるという考えです。自分自身も、商社で働いていた時は、その会社の理想の「○○マン」みたいな目に見えないものを追いかけていた気がします。


別の局面で考えると、新卒採用のシーンでよく聞かれる「磨けば光る人材が欲しい」という、この「磨く」 というプロセスこそが、東洋思想的な「」の概念の現れでもあるといえるのではないでしょうか。 「」から逸れずに、磨ききるためには、前提としてその人物が持っているべき下地は「人格」です。先述したリクルート社のリサーチ結果が表しているような、新卒採用において「人格」を重視している企業が多い理由は、実はこういった仕組みから説明できるのではないでしょうか。

ここまで東洋思想と西洋思想における、リーダーに求めるものの違いと、日本の採用現場に根強く残る儒家思想の影響をみてきました。次はリーダーに焦点をもう少し当てて考察していきたいと思います。


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