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「ファンは一人もいないほうがいい」坂本龍一に学ぶ、雑誌は余命をどう生きるべきか?

死んでも好きなあの雑誌➀

作家の佐山一郎さんと雑誌の未来を語るシリーズ。休刊を迎える雑誌が相次ぐなか、奇しくも坂本龍一さんの訃報に接することになります。不世出の天才を前に「休刊を時代だけのせいにしてよいのか?」という思いもわいてきます。余命わずかな雑誌の生きる道とは?
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三島由紀夫を超えた「文化英雄」坂本龍一の死

──インタビューとフォトセッション歴のある⼤物4⼈(明⽯家さんま、北野武、タモリ、⾼橋幸宏)の⼈物論を挟むことができたので、今回は4度⽬の「雑誌に未来はあるか︖」で⾏ってみたいと思います。101年続いた『週刊朝⽇』も5⽉末の休刊に向かってカウントダウン企画が始まりました。そんな中、今度は佐⼭さんと同世代の坂本⿓⼀さんも3⽉28⽇に亡くなられました。始まりと終わりが世の常とはいえ、最近は「始」よりも「終」のほうが優勢で気が滅⼊ります。
 
 ⾝を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。英語ではNothing venture,nothing have.と⾔うらしいけど、昔からよくわからない諺ではあります。活路の⾒出し⽅が⼆通りにとれてしまう。捨て⾝の戦法で⾏くべきなのか静観が良いのか。まあ、励ますときに⾔うのだけは確かなんでしょうけどね。
この頃は、久々の電話をする相⼿に対して「⼤丈夫、誰も死んでないか ら」と⾔ってまず安⼼させることが多い。気を遣うタイプだから、わざと明るい声出したりしてね(笑)。有名⼈の誰がご存命で誰が泉下の⼈になっているかについてもアヤフヤなときがあって弱ります。たまに新聞やテレビで「申し訳ありません。○○さんは、お元気でした」って謝ってる時があるよね。坂本教授についても世紀の⼤誤報でしたってことになってほしいけど、さすがに今度ばっかりは。
 でも世界的な⽂化英雄の死ということでは三島由紀夫超えをしたと思います。1970年11⽉25⽇⽔曜⽇の三島の⾃決の時、⾃分は⾼3でした。現代国語の先⽣が⾎相を変えて教室に⼊ってきたのを覚えています。坂本⿓⼀さんの場合は⼤学1年のときだったのかな。不謹慎な話になっちゃうけど、がんで良かったと⾔ってのける闘病中の患者さんもいるにはいるんです。パタッと逝っちゃうのではなく、時間だけはそれなりに確保できているという意味でね。
 
──余命を生きるという点では、週刊誌の現状を少しだけ想い起させるところがあります。
 
 約17年間、『週刊朝⽇』の書評陣30名の中に⼊っていたので、最後まで同じ船に乗っている印象があります。92年5⽉に休刊した『朝⽇ジャーナル』という船にも最後のほうの執筆陣で乗っていたから、倍悲しいというよりも悲しさが⼆分の⼀で済んでしまっている。悪ズレですね、明らかにこれは。
<右⼿に『朝⽇ジャーナル』、左⼿に『少年マガジン』(ないしは『平凡パンチ』)>なんてフレイズ通りの⻘春時代を送った者の⼀⼈である⾃分も、この3⽉で70歳。2万数千⽇⽣きたことになります。週刊誌に関して⾔えば、歴史的使命を終えた云々より、世代交代がうまくいかなかったことが⼤きいんじゃないですかね。あえて弁護すれば、次世代に媚びずにやり通したとも⾔えるけど、創造性不⾜だったことは否めない。『週刊朝⽇』は、ジャニーズ頼りの表紙を始めた段階で勝負が付いていたんじゃないですか。もう⼀つは2012年10⽉の佐野眞⼀⽒による橋下徹特集記事問題。あれでもう週刊誌が⺠主主義の砦でも何でもなくなってしまった。

『週刊朝日』4月21日号。5月末で休刊することが発表されている。

──週刊誌への思い入れという点で言えば、やはり、自分の世代は、『少年ジャンプ』ですね。学生の頃は『ぴあ』や『関西ウォーカー』などネット前夜で雑誌がまだぎりぎり情報源だった時代でした。
 
 ⾃分がメジャー週刊誌でコラム・デビューをしたのは、26歳。79年6⽉3⽇号の『週刊読売』なんです。無署名でしたけど、⼤舞台で4年半芸能コラムを書いて鍛えられました。もちろん報酬⾯でも助けられた。でも読売資本の割り切りはうんと早くて、2008年12⽉1⽇号で休刊にしてしまった。最後の誌名は『読売ウイークリー』になってたのかな。活字離れとインターネットの普及による広告収⼊の⼤幅減少というのが理由だったけど、昨今はこれにプーチンの戦争による物流経費と紙代の上昇も⼊りますね。年、235誌も創刊された雑誌創刊ブームが80年代にあったことがまるで嘘のようです。そもそも社員及びフリー編集者としてかかわった雑誌も全て休刊。だからもう完全に不感症状態です。「廃刊」が仮死語化してしまったのは、「WEBに移⾏します」──という便利な⾔い訳ができるからでしょう。だったら廉価でデザインの良いオンデマンドも追求してみてよ、と思いますけどね。
 しかしまあ、ここまで落ちると、逆にチャンスもあるんじゃないかな。要は焼け野が原からの戦後復興みたいなもんで、それこそ⾝を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり状態(笑)。やがて来る「空前の休刊ブーム」をきっかけにプログラミングの勉強をしようかと考えています。Y.M.O.の⾳作りに例えてみると、⼀挙に1978年まで遡るわけだから、周回遅れどころか実にもう45年遅れ(笑)。

少年時代と晩年。坂本龍一が思いを込めて送った葉書と手紙

──<Y.M.O.の⾳楽作りながら、ホロッと泣いちゃう時が⼆度あった>というタイトルで佐⼭さんが聞いた『スタジオボイス』1983年5⽉号の坂本⿓⼀インタビューをこの機会に読んでみました。ちなみに⼤島渚監督の『戦場のメリークリスマス』が⽇本公開されたのは、同年5⽉28⽇です。まさにトキオ・スウィング・エイティーズの時代ですね。
 
 こちらも若き⽇の教授のボソボソ声が聴きたくなって40年ぶりに読んでみました。⾃画⾃賛もバカだけど、闊達な雑談⾵でベタ起こしを活かしているからやっぱりそれなりの画期があったように思えました。教授が松⽥聖⼦ちゃんに、⼦供はどこの病院でおろすの、いま貯⾦はどのくらいなのと DJを務めていた『サウンドストリート』(NHK- FM)で聞こうとして失敗した話 と、最後のほうの天皇崩御時にクラシックと Y.M.O.だけは流してもいいよねで締めたあたりはずっと覚えていました。崩御の際に歌舞⾳曲は原則的に禁⽌になると噂されていたんです。でもそれから数年、昭和天皇は⽣きられた。
 
──登場する側のPR戦略の⼀つであったにしても、やはりインタビューを社会的なものとして双⽅が⼤切にしていたことが伝わってきます。
 リード⽂で、「都知事を⽬指して欲しい⼈物」と坂本さんを紹介していましたが、時を超えてとんでもない⽪⾁になっていてびっくりしました。
 
 それはこちらも同感。神宮外苑再開発に反対する⽴場で⼩池都知事宛のA4三枚の⼿紙を厳しい闘病中にもかかわらず病床から出したからね。「あなたのリーダーシップに期待します」に対して「ぜひ事業者である明治神宮にも⼿紙を送られた⽅がいいんじゃないでしょうか」。歿後も、再開発の⼯事を認可した張本⼈なのに、「お悔やみ申し上げま~す」の⾺⽿東⾵対応。おかげ様で⼈間の屑とはこういう⼈のことを⾔うのかと勉強することができた。同い年で嫌なんだけど、プーチン、習近平、⼩池百合⼦は僕の中で同列の扱いです。まだ知らない⼈が多くて驚愕するんだけど、そもそも東京五輪は、この神宮外苑再開発のための呼び⽔だったんです。背後にはもちろん、石原慎太郎と森喜朗。僕はそういう理解をしている。
 
──ちょっと気づいたのですが、⽇付と固有名詞があるものってやはりいいですね。ジャーナリズムの原義は毎⽇の記録(⽇記)で、雑誌はその2番⽬の形態と聞いたことがあります。試みに、この号の1万6千字ほどのインタビューに出てくる名前を挙げてみると、……松⽥聖⼦、佐野元春、渋⾕陽⼀、⼤貫憲章、細野晴⾂、ポリス、アリス、オフコース、村上⿓、松⼭千春、澁澤⿓彦、吉本隆明、川崎徹、ビートルズ、キンクス、ビートたけし、アルファ・レコード・近藤、坂本九、村上春樹、サンダース軍曹、加藤登紀⼦、⾼橋悠治……。
 
 なるほど。ジョン・ケージ、武満徹、⼀柳慧(とし)、ピナ・バウシュなんてあたりは出てこなかったですか。400字詰め原稿⽤紙で40枚を超えると、ちょっとした索引が出来ますね。これを⾒ても、たけしぐらいしか顔が浮かびそうにない⼤学⽣が多そうで困るんだけど。
 
──坂本九さんの場合は、別に親戚でもなんでもなくて、少年時代の教授がファンレターを出したお礼に暑中⾒舞いが来た。それを家で偶然⾒つけたというだけのお話ですが、ちゃんとご本⼈のコメントをもらっているところが⾯⽩いです。
 
 九ちゃんみたいに、世界で1500万枚以上売れた「上を向いて歩こう」を⽬指しましょう、と教授に妙なハッパをかけたことで名前が出てきたんです。
 
<その葉書、返してもらおうかなー、懐かしいから。『スター千⼀夜』(フジ系)でお会いしたけど、「昔、ファンレター出した」なんて話は出ませんでしたよ。(教授は)照れ屋なんだね>──なんてこと⾔ってもらっている。⽇航機事故で亡くなる2年前だから九ちゃんが41歳のときですね。良き⼈柄がしのばれます。

坂本龍一の追悼記事で別格だった週刊誌とは? 

──40年前の時点では、この頃は新聞も見ていない、社会的関心が全然ないと言っていて興味深かったです。「ファン、一人もいないほうがいいんだよね。ちゃんとレコードは売れたほうがいいけど(笑)」と言い切れるのがカッコいいと思いました。圧倒的な自信と繊細さとふざけ具合が絡み合って、まさにY.M.O.の楽曲みたいなインタビューで、むしろ今読んだ方が面白いくらいです。ありとあらゆるメディア、 SNSなどで追悼されていますが、紙メディアに限った場合、どんな印象を持ちましたか。
 
 『東京新聞』⼣刊の伝統ある匿名コラム「⼤波⼩波」(4.12)が、<坂本⿓⼀の分⾝>というタイトルで⾃殺した同い年の俳優・沖雅也の⽅がヨノイ⼤尉役の最終候補だったと書いていました。それを⾔い始めると、たけしのハラ・ゲンゴ軍曹やデヴィッド・ボウイのセリアズ少佐も3番⼿ぐらいで、⼤島監督が僕の友⼈のジョン・カビラにまで声を掛けていたフシもあるか ら、もう『戦メリ』のキャスティングは滅茶苦茶です(笑)。⾊々読んだ中では『ニューズウィーク⽇本版』4⽉18号がやはりずば抜けていました。同じ週刊誌ではありながらも、他のものとはかなり違っていた。表紙と⽬次を⾒た途端、何かもう有料の号外に⾶びつく感覚とでも⾔うべき事態に陥りました。

坂本龍一の追悼特集が組まれた『ニューズウィーク日本版』4月18号

──たしかにあの墓碑銘とも⾔える<芸術は⻑く、⼈⽣は短し>を添えた表紙写真と13ページに7本の記事を収めただけなのに、ものすごく全体像が掴みやすかったです。書いた⼈の⼈選もワールドワイルドで、やはり⽇本型週刊誌では掴みきれないというか振り切られてしまうというか。もっと⾔えば、発⾊の良くないあの紙質に合わないというか。
 
 ちょっと驚いたのは、『天才・坂本⿓⼀と40年間⾛り続けて』で語っているのが、40年前の教授インタビューに<アルファレコード・近藤>としてほんのちょっとだけ出てくる近藤雅信さん(V4 Inc.社⻑、ワーナーミュージック元常務取締役)だったこと。構成を担当した本誌記者の澤⽥知洋さんという⼈の問わず語りも秀逸でした。
 これから先もアーキヴィスト精神を掻き⽴てる坂本⿓⼀関連の記事や書籍が⾊々出ると思います。⾳源のコレクターにとっても1970年代半ばまで遡れる集め甲斐のある引き出しの多い⼈でした。さっきの三島の話に繋がるけど、なんと⾔っても互換性という点で世界最強なのが⾳楽ですよね。それを教授は⾝をもって⽴証してみせた。⽇本⼈が得意とする盆栽的な縮み志向も⼤切だけど、気宇壮⼤に、地球規模で受け⼊れられる互換性を意識したものとしての週刊誌のあり⽅をこの機会に再考してみたらよいと思います。

佐山 「教授」っていわれ方って、一時期嫌だったんじゃありません? 平気でいられましたか。
坂本 (笑)あんまり、どうでもいいって感じね……。ちょっと我慢すればなんとかなる……。
佐山 自分が取材された記事はファイルしているんですか。
坂本 う~ん……半分ぐらい。
佐山 良く書かれたものが中心?
坂本 いや、悪口の方。良く書かれたのをファイルするのってあんまりいいことじゃないと思うね。カッコ悪いってのは別としても。一連の書かれ方に合わせていくじゃない、自分を。

『スタジオボイス』1983年5月号/坂本龍一インタビューより引用

文/佐山一郎(さやま・いちろう)
作家・編集者。1953 年 東京生まれ。成蹊大学文学部文化学科卒業。オリコンのチャートエディター、『スタジオボイス』編集長を経てフリーに。2014年よりサッカー本大賞選選考委員。著書に『東京ファッション・ビート』(新潮文庫)『「私立」の仕事』(筑摩書房)、『闘技場の人』(河出書房新社)、『雑誌的人間』(リトルモア)、『VANから遠く離れて──評伝石津謙介』(岩波書店)、『夢想するサッカー狂の書斎 ぼくの採点表から』(カンゼン)、『日本サッカー辛航紀 ──愛と憎しみの100年史──』(光文社新書)など。これまでインタビューした人物は1000人を超える。

編/アワジマ(ン)
迷える編集者。淡路島生まれ。陸(おか)サーファー歴22年のベテラン。

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