#012-3 「駈込み訴え」/太宰治 読書ノート③〜人と人は「同じ」だけど「同じ」ではない.

Lectioの純文学の読書会にて先日,太宰治の「駈込み訴え」を読みました.読書ノートとして感想や考えたことを備忘録的に書きたいと思います.

前回②の記事では,「駈込み訴え」を読む前に聖書についての予習のために読んだ教科書の『NHK 100分 de 名著 新約聖書 福音書 2023年 4月』(若松英輔.著)も参考にしながら,聖書にも文学作品にも共通する言葉の隠喩(メタファー)表現について考えました.

どちらも言葉から実体的な意味だけではなく,見えないものを見ようとする言語感覚(非言語感覚)が重要だなと感じました.

今回は「駈込み訴え」の作品の中から,イエスとユダの世界観のズレについて印象的だった部分をノートにまとめておきたいと思います.

二人の世界観のズレは,例えばユダのこういう語りからにじみ出てきます.

あの人は、私の師です。主です。けれども私と同じ年です。三十四であります。私は、あの人よりたった二月おそく生れただけなのです。たいした違いが無い筈だ。人と人との間に、そんなにひどい差別は無い筈だ。それなのに私はきょう迄あの人に、どれほど意地悪くこき使われて来たことか。どんなに嘲弄されて来たことか。ああ、もう、いやだ。堪えられるところ迄は、堪えて来たのだ。怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。

「駈込み訴え」/太宰治 より

ユダは冒頭から「私の師」であるイエスの居場所を役人(旦那さま)に告げ口しながら「殺して下さい」と訴え出ます.

ユダの語りの特徴の一つとして,師であるイエスと弟子の自分とは同じ人間だ,という考えが強く表現されています.

「私と同じ年」
「人と人との間に,そんなにひどい差別は無い筈だ」

同じ人間な筈なのに,「どんなに嘲弄されて来たことか」というわけです.

しかしユダの語りを読むと,本当にイエスがユダのことを馬鹿にしていたり下に見ていたというわけではなさそうです.良かれと思って,尽くしてもイエスが簡単に認めてくれないことで卑屈な気持ちになっていることが分かります.

皆さまは,そんなユダみたいな気持ちになることはないですか.
ユダは小説世界にだけに住む特殊な人間でしょうか.僕はそうは思いません.我々の日常の風景の中でも,ユダ的な感性は当たり前のように遍在していると思います.

例えば,先生と生徒という関係で,生徒が先生から評価されないことで怒りのような憎しみを抱くこともあるかと思います.部活動や大学の研究室,何か習い事のお師匠さんと弟子の関係,あるいは社会人になれば上司と部下の関係でよくあるんじゃないかなと思います.

先生や上司から見れば,もっと成長してほしいとか,大事なことを謙虚に学んでほしいと願っていたとしても,生徒や部下からすれば十分努力しており,もっと認めて欲しい.

恋愛の場面でもよくありますかね.どうしても気に入られたい相手が全然自分をかまってくれない.追いかけているのは自分ばかりに思える.何とか立場を逆転させようとして意地悪をしたり,他の人と親しげに振る舞って見せつけるけれども,全く相手にされない.絶対に相手のことを手に入れたいと願うけれど,それが叶わない.それなら生きていけない.究極的にはユダのように相手の死ですら欲してしまう.愛憎は表裏一体だとよく言いますが.二つに共通する感情は「執着」ですね.

恋愛に関しても,ユダのユダっぽさが表れているシーンがあります.
ベタニアのシモンの家で,マリヤという女性がいきなりイエスの頭に香油をかけてやって,その後濡れた両足を自らの髪の毛で拭ってあげる,というシーンがあります.

高価な油をあえてこのように使う意味としては,おそらくこれから死にゆく覚悟でいるイエスの気持ちを察して,尊敬や勇気づけるような応援の気持ちからマリアの行動が生まれたのかな,と想像します.

イエスもそれを感じるから「この女を叱ってはいけない。この女のひとは,大変いいことをしてくれたのだ。」とか「私の葬いの備えをしてくれたのだ」とも言います.

でもユダにはそれが理解できない.あるいは理解したくない.二人が信仰に基づく共感で通じているのに対して,まるで単なる恋愛感情に流されているように見えるのです.ユダはこんなふうに語ります.

あの人はこれまで、どんなに女に好かれても、いつでも美しく、水のように静かであった。いささかも取り乱すことが無かったのだ。ヤキがまわった。だらしが無え。あの人だってまだ若いのだし、それは無理もないと言えるかも知れぬけれど、そんなら私だって同じ年だ。しかも、あの人より二月おそく生れているのだ。若さに変りは無い筈だ。それでも私は堪えている。あの人ひとりに心を捧げ、これ迄どんな女にも心を動かしたことは無いのだ。

「駈込み訴え」/太宰治 より

またもや出てきました.あの人と私は同じだ,という観念です.

「私だって同じ年だ」
「若さに変りは無い筈だ。それでも私は堪えている。」
「あの人ひとりに心を捧げ、これ迄どんな女にも心を動かしたことは無いのだ。」

ユダはどうやら自分をイエスに投影しているようです.自分がイエスに恋をしているから,イエスもまた他の誰かに恋愛感情を抱く人物のように見えるわけです.

僕はこういうとき,作品の声が聞こえるような気持ちになります.
作品が問いかけてくるわけです.

「ユダが言うように,イエスとユダは同じ人ですか?」
「人と人とは同じなんですか?」

こんな問いが聞こえてきませんかww
僕には聞こえて来るんですね.

読者がこういう問いを受け取って,それに応えようとする時,そこに「正解」はありませんね.どう考えたって自由です.
ただ,適当に応えて結構というわけではなくて,僕の場合は自分を知るチャンスだと思ってじっくり考えます.その自問自答を通して自分のアイデンティティを知る機会になるのだと思います.

僕の場合,独断ですけれど「人と人は同じではない」と応えます.
イエスとユダは同じ人ではない.全く違う人間です.言い方をもっとはっきり変えると「人格」とか「精神の高貴さ」が違うと思います.年齢が同じとか若い男性だからとかは同じ人格の理由には全くならない,と考えます.

それはイエスとユダとを比較してどっちが精神的に優れているかを判断できる,ということとも少し違います.複数の人間のどちらが優れているかを判断できるとしたら,僕自身が両者に対してメタレベルに立った存在(神さまみたいに)ということになりますね.そんなわけないのです.

ですが,僕は個人的に概念として「精神の高貴さ」を想定して生きているという事かも知れません.イエスや仏陀が人の記憶に残って何かとてつもない影響を与えたとしたら,その原因としての精神的な価値があったと考えるとかそういう意味です.もちろんそれは主観的な人間観です.言ってみればその人間観を一つの仮説として持っているということです.

例えば,ガンジーとかキング牧師とかが差別や暴力と闘い乗り越えるために,非暴力というスタイルを貫いた.それは自分の命が犠牲となることも覚悟をした行動であり(もしそれが事実ならば),とんでもない無私の精神や意志や理念の力が働いているはずだ,と推論せざるを得ないということです.

「精神の高貴さ」って何かとよく考えます.学生時代から文学作品を読んだり,哲学書や自己啓発本を読むとき,あらゆる局面で都度考えます.一つの力学としては「自我」を乗り越えることが条件になっていると思います.

「#012-1 「駈込み訴え」/太宰治 読書ノート①」でも,一神教の神と日本的な世間との違いについて考えましたけれど,自我を世間との関係の中で満足させようとしているスタイルの中では,もっと大きな「義」のために行動する主体は生まれてこないのだろうなと思っています.

別にそれは一神教の「神」ではなくとも,日本でも「公」とか「天」とか「お天道さま」とか「仏」とかの概念と対話することで行動を生み出していった偉人がいるなとも思います.どちらにせよ「世間」から評価されることで得られる自我の満足という方向性では「精神の高貴さ」は生まれないだろうと思うのです.

でもそれは確かな正義がそこにある,という話というより,方向性として想定しているというくらいの意味なんですよねえ.それこそ,その価値は見えないものでして,確かめようのないもの,言葉にできないものの筆頭だなという気がします.この「駈込み訴え」という作品はそういうことを強く考えさせます.

現代人も,あるいは昔から,人は見えるものの価値に弱い.社会的地位がどうかとか年収がどうかとか.群れ社会のヒエラルキー的なものや数値化できるものを強く信仰する生き物でもあります.それは確実に力を持っているけれど,だからと言って目に見えないものに価値がないというわけでもない.でもそれは常に過小評価されます.

ユダは一度だけ,海辺を歩きながらイエスが丁寧に話をしてくれた場面を思い出します.

寂しいときに、寂しそうな面容をするのは、それは偽善者のすることなのだ。寂しさを人にわかって貰おうとして、ことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ。まことに神を信じているならば、おまえは、寂しい時でも素知らぬ振りして顔を綺麗に洗い、頭に膏を塗り、微笑んでいなさるがよい。わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかっていて下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」

「駈込み訴え」/太宰治 より

「寂しさ」という言葉が出てきます.この場面が僕の中でのハイライトです.
「寂しさを人にわかって貰おう」というのは世間や具体的な愛する人に承認されることを目的とした生き方です.

それはずっと心が渇いているような在り方だなと思います.仏教用語なら「渇愛」という事かもしれません.きっとそれを求めても終わりも満足もないです.

それに対してイエスの在り方は,寂しさを人にわかってもらえなくても「眼に見えないところにいるお前の誠の父」がわかって下さったなら良い,という信仰です.

これってすごいなと感心してしまいます.すごく意志的だけれど同時に孤独な道だなと思います.何故なら,見えないところにいる父とは当然姿形も見えないわけです.「わかって下さったなら良い」とは言いますが,果たしてそれは具体的な承認の声として聴こえて来るものでしょうか.

キリスト教文化の中の解釈については,僕は素人で正直よく分かりません.でも見えないところにいる父=「神」との対話は,自己内対話の形をとるしかないのではと思います.預言者は神の言葉を預かる存在と言われますが,具体的に声を聞くのとは少し違うのかなと思ってしまう.

自己内対話と言っても,自分勝手な解釈で考えるということとも違う.あくまで自己の中に「他者」を装置して,その理解できない他者との対話を試みることだと想像します.以前書いた「#011 『スマホ時代の哲学』 読書ノート」で考察した「ネガティブケイパビリティ」という概念とも通じる.

付け加えると,イエスは「寂しさは、誰にだって在るのだよ」とも言います.ここには自分自身も含まれていると僕は思います.イエス自身も寂しさを抱えている.それはおそらくユダと全く変わらないような寂しさです.

貧しくて,非力で,世間的な地位も財力もない.人々を助けたいと思うのに力は少なく,言葉を伝えてもほとんど理解してくれる人はいない.肉体的にも限界があり,それでも正しいと思う行動を継続している.弟子はいるけれども,本当に信仰を理解しているわけではない.針の穴に糸を通すようなわずかな希望を信じるような日々だなと,想像します.そして遠からず刑罰にかかって死ぬ運命が待っています.とっても苦しむだろうし怖いと思います.

そこで「寂しさを人にわかって貰おう」と願って満足しようとすることは,偽善者の行いですし,全ての信仰とか「義」を捨て去ることなんだなと思いました.半端なく孤独ですし耐えられないほど厳しい道だなと思います.


ここまで想像して思うことはこういうことです.
「精神の高貴さ」とは,人間的な「寂しさ」を持ち合わせていない存在だということではなく,むしろ逆です.全ての人々がデフォルトで抱えている「寂しさ」を,全く同じように抱えている人が,自分の主体的な意志と信仰によって「寂しさ」を乗り超えようとする努力のことだと思いました.

イエスとユダの在り方を読む中で,次第に見えてきた学びがここにあります.
人は皆「寂しさ」を根底に抱えて生きているという点で「同じ」存在です.ですが,信仰を主体的に意志することで「寂しさ」を乗り越えようとする在り方は,「寂しさ」にどこまでも流されて生きる在り方とは,全く違う存在なんだと思いました.

そして「駈込み訴え」で描かれている二人の関係を読むと,イエスにはそのこと自体がよく分かっているのに対して,ユダにはやはり分かっていないのです.イエスも自分のように「寂しい」のではないかと思っても,イエスの信仰と孤独の道は分からない,という苦しみが鮮やかに描かれています.

僕はそもそも,太宰治にとっての「神」についての考え方を知りたいと思って「駈込み訴え」を読むことにしたのです.その意味で正直驚きを禁じ得ません.神への信仰を生きるイエスと,あくまで現世的な価値観と内面に囚われ続けるユダとの,世界観レベルのズレがため息が出ちゃうくらい鮮やかに言語化されている,

ちょっと信じられませんね.
その余韻を感じつつ,この辺で.

もう一つ,引っかかる点があるのですが,もう少し考えてまた書きたいと思います.ではまた!

























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