名探偵はいない1

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【試し読み】

登場人物
八神 切人(やがみ きりと)
夏樹 恵(なつき めぐみ)
烏丸 洋介(からすま ようすけ)
黒木 晶(くろき あきら)
爽夏(さやか)


プロローグ

 湿った空気がねっとりと体に膜を張る。雨の日の夕方は、世界中が青に包まれてこの世の終わりを思い起こさせた。……墓場にはふさわしい。
 八神切人はずぶ濡れの体のまま、同じく色を濃くした墓石をじっと眺めていた。
 この下に、爽夏が眠っている。
 花束を握る手に力が篭る。家を出る前は整っていた形が、大きくゆがんでしまっていた。
 悔やんでも悔やみきれない、忘れても忘れきれない記憶。
「さあちゃん」
 墓には、すでに花が添えられていた。自分が持っているのと同じ、爽夏の愛して止まなかったエリカの花が。丸い花がすずなりについた、儚げな姿は、さあちゃんの印象そのものだった。
 手の花を先客に混じらせた。細い竹筒には入りきらず、残りは墓前にそのまま横たわらせる。雨が容赦なく花を打ちつけた。
 なぜこんな雨の日に来るのか。雨の日だから来るのだ。雨の日でなければならない。爽夏の葬儀をしたあの日も、同じように雨が降り次いでいた。傘くらいは差してもよいのかもしれない。だが、差してはいけない。傘なんて差したら―自分の弱さが、わかってしまう。
 エリカは鉢花だ。本来花束に向く種類ではない。それでも彼女が好きだったから、墓前への花はこれと決めている。この辺りの花屋では売っていないので、庭の鉢から頂戴してきた。
 先に墓参りをしていった人物も、同じように手間をかけてエリカの花を用意している。
 墓を訪れるのは、命日などとは無関係だった。花の季節、そして雨の降った日に、思い立つたびにここに来る。
 それだというのに、毎回、そこには花があった。
 こうやっていつもエリカの花があるということは、自分と同じように彼女の死を悼む人間がどこかにいるということだ。
 エリカ―彼女が愛して止まなかった花。しかし、その花言葉を思うたび、複雑な感情にとらわれる。
「博愛・孤独・裏切り……か」
 爽夏のことは、誰よりも理解していたつもりだった。だが、本当は何もわかっていなかったのかもしれない。誰にでも親切で、心優しかったさあちゃん。さあちゃんは、孤独だったのだろうか。
 俺のせいだ。きっと、俺のせいなんだ。
 八神は、どしゃぶりの雨を浴びながら、声を殺して泣いた。

 ○事件二日前

 一人の男が立っている。軍服を着て、頭に鉢巻を巻いた男だ。体格はよく、坊主頭で、眉間に深くしわを刻んでいる。目つきは鋭い。何か鬼気迫るものがあった。
 拳を握り、大きな声で何事か喚いているが、その声は大衆のざわめきに打ち消された。
 やがて男は、刀を腹に突き立てた。今までで、もっとも鮮明で、もっとも意志の篭った叫び。
「陛下、万歳―」
 赤い血が、男の腹から、口から、溢れ出た。
 そしてすべてが終わる。

 烏丸洋介の目は潤んでいた。まぶたの周りが赤くなる。長いまつげが濡れている。瞬きをすると、涙が頬にこぼれ落ちた。
 そんな先輩の姿を、俺―八神切人、高校二年、趣味は映画―は半ば引き気味に眺めた。
 薄暗い教室内で、スクリーン上にエンドロールが次々と流れていく。
 後輩の黒木晶は机に突っ伏して身動きひとつ取らない。
 ろうそくの火を吹き消すように画面が途絶える。
 烏丸部長が目元をハンカチで押さえながら立ち上がる。電気のスイッチを入れると、部室内が一気に明るくなった。
 それが皮切りだった。
「部長、あなた馬鹿ですか? アホですか? いったいどこの世界に大嶋元昭の裏ビデオ観て喜ぶ高校生がいるんですか!」
 黒木が噛み付いた。分厚い丸メガネに、耳が隠れるまで伸びた重たい黒髪。もやしのような肉体の、いかにも引きこもりかオタクっぽい新参部員。よくあの部長に反抗できるな……と感心する。見かけによらず血の気の多い一年生だ。
 席まで戻ってきた烏丸部長が、ハンカチを握った手で机を叩く。
「何だと、いいか? これは天才作家・大嶋元昭の一生をある著名な外国人監督が映画化した作品で、諸々の観点から日本での公開が許されなかった幻の一品だぞ。この芸術的価値がなぜわからん。わざわざこの俺が権力を駆使して独自のルートから入手してきてやったというのに……」
 ―今日観るのは裏ビデオだ。
 そう言われたときは耳を疑った。が、なんのことはない。部長は流通不可で入手困難なビデオを『裏ビデオ』を表現していたのだ。
「僕は大嶋の生涯に興味なんてありません。僕の愛読書は『足狩りサッちゃん』ですから」
 リュックサックから、鎌と人間の足を持ち微笑む女の子のイラストの描かれた本を取り出す。部長は切れ長の目に軽蔑の眼差しを浮かべた。
「なんだその不必要な暴力・性的描写にあふれた公害物質は」
「それは偏見です!」
「そんな低俗な大衆小説を大嶋文学と比べようとは神への冒涜としか言いようがないわ」
「大嶋なんてただの筋トレマニアじゃないですか! 筋トレだけでは飽き足らず軍オタに発展し愛国心たぎらせて割腹自殺……それがさっきの映画でしょう」
「ただの筋トレマニアではない、偉大な筋トレマニアだ。その程度の理解か。お前の感性の鈍さには反吐が出る」
「いいですか、映画って言うのは娯楽なんですよ? それなのに部長が持ってくる作品ときたら古典だとか社会風刺だとか心象風景だとか映像美だとか、小難しいことばかりでストレートに面白い話が一つもない!」
 眼鏡をぎらつかせながら黒木がまくし立てる。部長好み以外の映画も観たい、という点には、内心で同意した。
だが。
 今はそんな話をしているような場合ではない。もっと差し迫った問題があるというのに、この二人は実にくだらないことで議論を白熱させている。内心に苛立ちが蓄積されていく。
 部長がまた机を叩く。ティーカップがわずかに浮いて音を立てる。
「商業主義に乗せられた俗物め。映画は娯楽ではない、芸術だ!」
「映画は娯楽です」
「映画は芸術だ」
「娯楽です」
「芸術だ」
「いい加減にしてください二人とも! 映画が娯楽とか芸術とか大嶋が筋トレマニアとか、そんなことどうだっていいでしょ!」
 立ち上がり一喝する。普段、怒鳴ることがないので、二人も驚いたらしく、言葉のキャッチボールをやめた。烏丸部長と黒木の視線が自分に集まる。
 場が静まったところで、言葉を続けた。
「今、重要なのは、このままでは映画研究部が廃部になりかねないってことです」
「来年、新入部員がなければの話だろ? 俺には関係ないな」
 部長がわざとらしくそっぽを向く。俺たちの通う私立白鷺高校は、今年度に入ってから部員が三人未満の部活は廃部になるという学則ができてしまった。現在、映画研究部の部員はちょうど三人。さらに、部長である烏丸洋介は三年生なので、留年でもしない限り来年度にはいないのだ。もしも、部員が一人も入らなければ、即廃部である。今の映研部は、ぎりぎりの綱渡りをしているのだ。
 黒木が批難がましい顔をした。
「烏丸部長、自分が今年で卒業だからって無責任ですよ。自分さえ良ければ他がどうなってもいいんですか」
「自分さえ良ければ他人がどうなってもいっこうにかまわん」
 今しがた、大嶋元昭の割腹自殺に涙した男とはとても思えないな。心の中でため息を吐く。今日、これで幸せの妖精を何匹死に追いやったのかわからない。
「とにかく、今から部員獲得の策を練る必要があるんです。で、俺はずっと思っていたんですけど」
 言葉を切る。自分の横と前に座る男たちの顔をぐるりと見る。
「映画研究部って、映画を観る部活じゃなくて、映画を撮る部活でしょ」
 一瞬、狐につままれた顔をする二人。目の前の部長の顔に陰が入った。わずかに眉を寄せて目を伏せる。その様子に気をとられていると、隣からガタリと音がした。黒木が両こぶしを握り、仁王立ちしたところだった。
「そうですよね、僕もそう思っていたんですよ!」
 後輩の同意を受けて、勇気付いた。自分の考えは間違っていない、と確信する。絶対にこれはいける。俺もまた、椅子を蹴って立ち上がる。
「だから、これから一年かけて撮りましょう! 新入部員の心をわしづかみにするようなハイクオリティ映画を!」
「却下」
 にべもない一言に、思わず全身の力が抜ける。
「部長、なぜ」
 烏丸部長は紅茶の芳香の残るカップを持って、準備室のほうに歩き出した。こんな弱小の部活に、なぜ流し台つきの準備室があるのかはなはだ疑問だ。
 窓辺でふと立ち止まると、締め切られた暗幕を開く。梅雨入りする前の明るい日差しが部室に注ぎ込まれた。
「撮る側に興味はないんでな。放課後にシアター代わりの部室で映画鑑賞……それが日常生活に傷ついた俺の心を癒す唯一の手段なんだ」
「部長、クラスでいじめられてませんか?」
「だいたい映画制作なんて金もかかるし時間もかかるし面倒くさいし。やってられるか」
 烏丸部長がこういう反応を取るであろうことは予想の範疇だった。事前に彼を懐柔する手段は考えてきている。
「ならば、俺は今日限りで部活をやめます」
 部長の動きが止まる。準備室に向いていた身体を、こちらにひねる。
「部員三人未満の部活は即廃部。部長の心を癒す唯一の手段が絶たれてしまいますね」
「八神。お前、自分がどれほど残酷なことを言っているのかわかっているのか」
「烏丸部長、俺は本気ですよ」
 しばしの沈黙とにらみ合い。部長は、白い陶器の中で銀のスプーンを回しながら、微笑する。天の雲から蟻を見下ろすような高慢な笑みだ。目の光は剃刀になっている。
「―だがどうやって撮影する気だ? 十五年前のマリア像事件以来、映画研究部の所有する機材はすべて破棄されたはずだが」
 部長は窓の外をあごで示す。黒木が反応して首を伸ばす。俺は見なくても何を指しているのかわかった。中庭にあるマリアの首がない聖母子像のことだ。
 かつて、映画研究部が聖母子像の首を撮影道具の手製爆弾で吹き飛ばした事件があった。白鷺高校は、現在はかなり宗教色も薄れてしまったが、歴史あるキリスト教系の学校だ。とてもいたずらで済ませられる行為ではない。部員全員が処罰を受け、部は廃部になった。その後、同好会から再び部活として認められるようになるまで、六年を要した。
 地位を貶められた映画研究部には、カメラは愚か三脚のひとつすらない。生徒会から出される年間一万円という予算が、そのまま部活の地位を現している。ちなみに、毎年全国大会に出場する吹奏楽部には、六十万円が支給されている。演劇部は八十万円だ。
「ご心配には及びません」
 黒い学生鞄から用意していたものを取り出した。手中にある心地よい重みに陶酔しながら、シルバーのボディを部長に向ける。
「俺がデジタルビデオカメラを持ってるんで、それで撮影しましょう」
「そんなもの学校に持って来るな! 盗撮目的と勘違いされたらどうするんだ! だいたい、デジカメなんぞで映画が撮れるか」
 心底あきれたまなざしを向ける部長の言葉を受け、黒木が得意げに身を乗り出した。まるでそれが自分の手柄であるかのように。
「古いですよ部長。最近のデジカメは性能がどんどん上がって、フィルムとほとんど優劣のない高質な撮影が可能なんですよ。日本でもハリウッドでも今時は大半がデジタル撮影で……」
「もういい、黙れ」
 スプーンを回す手を止め、低い声で立て板の水をさえぎる。こんな氷より冷たい口調で拒絶されると、普通の人間は胸がしぼんでしまいそうだが、黒木は相変わらずハイテンションだった。この無神経さはある意味すごいと思う。
「僕のマイパソコンには従兄からもらったプロご用達編集ソフトが入っていますから、それで特殊効果をバリバリ使いましょう!」
「……まあいい。そんなに撮りたいのなら撮らせてやってもいいぞ? ただし条件がある」
 俺は手伝わんがな、と付け足しながら、烏丸部長はにやりと笑った。
「お前らを含めるとしても最低三人は役者がいろう。誰か一人でいい、明日までに役者を見つけてこい。そうすれば撮影を認めてやる。なんなら費用は俺のポケットマネーから恵んでやろう」
「金持ちの一人息子だからってめちゃくちゃ嫌味ですよ、それ」
 俺は呆れていた。と、腕を急に引っ張られる。黒木のおかっぱ頭が横に現れた。眉間にはしわがより、頬は張りつめている。
「やりましょうよ八神先輩。一人くらいなら連れてこれますよ!」
 黒木は本気のようだった。俺も、まさか本当に金を出させるつもりはないが、高慢な部長に一発叩き込んでやりたくなった。それに、どのみち役者は必要だ。
 部長は黒木の身長に合わせて身をかがめた。顔を近づけて眉を下げ、目を口端を吊り上げた。人を小ばかにするときの顔だ。
「ほうほう、いかにも友達少なそうなお前らが、進んでスクリーンにわが身をさらけ出そうなどという露出狂をなあ」
 反論したかったが、前半は事実だったので何も言えなかった。
「どんな相手を連れてくるのか、楽しみにしているぞ」
 烏丸部長は身をひるがえすと、準備室の中に消えていった。数秒後に水道水の流れる音がした。

 ○事件前日

「やっぱり、ヒロインですよ。可愛くてキュートなヒロインが必要なんです。ぱっと目を引くような、光り輝くような―とまでは言いませんけどね」
 教室前の廊下を歩きながら、黒木が力説した。昨日の話し合い(と言えるかは各々の意思に任せるが)で烏丸に出された条件。「役者を一人連れてくること」。性別に指定はなかったが、さすがに男ばかりの映画というのでは面白くない。ヒロインが欲しい。女子が欲しい。
「僕、女友達っていないんですよね。八神先輩、誰か知り合いに可愛い娘いませんか?」
「当てがない、こともない、が……」
 俺は言葉を詰まらせた。黒木が不思議そうな顔をして見ている。
 一人、いる。正直、自分が友達なんてやっていていいのか、と言うくらいに美人が。母譲りという砂金色の髪をしていて、瞳が赤みがかっていて……が、しかし。
 俺は天秤にかけなければならない。
 映画研究部の存続を取るか、彼女の心の平安を取るか。
 答えは、存外あっさりと出た。考えるふりをしてみただけだった。自分は昔から卑怯な男だった。
 隣にいる、おかっぱ頭の少年に目を向ける。
「美術室行くぞ」
 教室棟と、美術室のある特別教室棟は並んでいるが、渡り廊下が北側にしかない。俺の教室は一階の一番南側である。黒木の教室もまた、一階の一番南側だ。その上、美術室も特別棟の一階南端、映画研究部の部室は同じ位置の三階だ。つまり、端から端まで移動しなければならないのだ。移動による時間のロスが半端なものではない。
「しかし、毎度ながら移動が面倒ですよねー」
 俺が思っていても口に出さないことを、やすやすと黒木は声にした。
 渡り廊下のすのこを踏みしめて歩く。
「どんな人を誘うんですか? 美術部員なんですよね」
「夏樹恵って、金髪の女子。見たことないかな?」
 黒木の眉毛が持ち上がった。この後輩は分厚いレンズに阻まれて口ほどにものを言う目から感情を読み取ることができない。他の表情筋の動きからその腹を推し量る必要があった。
「夏樹恵って、あの夏樹恵ですか? 知ってますよ、ハーフの人ですよね。あの人ならたしかに見栄えがしますねー。でもちょっと気が強そうです」
 詳しいな……と思いつつ、フォローを入れる。
「いや、そう見えるけど、でもないよ」
「先輩、あの人と親しかったんですか」
「ああ。中学の時、同じクラスだったんだ」
 手短に答えた。「ほらついたぞ」、すぐに付け足す。
 特別教室棟は人気がなく、閑散としていた。
 美術室の扉に手をかける。このままノブを回せば済むものを、少し躊躇した。ふと、第一ボタンを外していることを意識し、胸を正す。五月も終わりが近づけば、学ランでは少々汗ばむ。詰襟のホックすら絶対に外さない烏丸部長を思い出し、さすが、何だかんだでお里が違うなと思った。八神家も土地持ちではあるが、四人姉弟の末にもなればそんな意識はつゆほどもない。旧財閥烏丸一門ご令息……烏丸家。気分が大きく沈んできた。
 もぞもぞしている俺を黒木がせかす。何をやっているんだと言わんばかりに肘でつついてきた。態度のでかい後輩である。運動部では絶対に生きていけないタイプだろう。
 仕方がなく、扉を押し開ける。甲高いきしみを上げながら空間に切れ目ができる。
 他の部員はまだ来ていないらしく、美術室には、一人しか生徒がいなかった。
 夏樹恵はこちらに背を向けて、油絵を描いていた。ソファに座る猫の背景に夕日に染まる宮殿がそびえる、摩訶不思議な絵だった。
「夏樹さん」
 邪魔になるのだろう、長髪を結んで、髪留めで上にとめている。そのため、後ろからでも耳にはめられたイヤホンがわかった。
「夏樹さん」
 さっきより若干大きな声を出す。キャンバスの上を滑っていた絵筆が止まる。イヤホンを外しながら、振り返った。ビー玉のような瞳を転がしてこちらに向ける。
 イヤホンからかすかにメロディが漏れている。
「何、聴いてたの?」
「秘密」
 さらっと返される。
「八神、どうしたの? 珍しいよね。あんたがわざわざ美術室にまで出向いてくるなんて」
 ブレザーが汚れないように着ている白衣を脱ぎながら、笑いかけてくる。大きな目をくりくりさせて、興味津々といった感じだ。俺もまた無理に目じりを下げてみせる。笑うのは苦手だし、人相が悪いので笑っても恐いだけだが、まあ、これが礼儀というものだろう。
「映画研究部で、今度、自主映画を撮ろうって話になったんだ。それで、夏樹さんにぜひともヒロインをお願いしたいんだけど」
「私がヒロイン? それってご指名?」
 夏樹さんの顔が華やいだ。目の前まで来て、自分を指差す。
 俺は大きくうなずいた。
「ああ。俺の中のヒロインは夏樹さん以外にいないんだ」
 ちらりと黒木のほうを見ると、口を半開きにしていた。見なかったことにする。自分は一年生の頃からずっと映画が撮りたいと考えていた。今はそのまたとない機会なのだ。後輩に馬鹿にされることも、嘘をつくこともいとわない。
 正直、俺にとって人生のヒロインは一人しかいなかったが、それは夏樹さんではなかった。
 そんなことは知らない彼女が、頬を赤らめて気分をよくしている。
「しょうがないなあ。コーヒーおごってくれたらいいよ」
「もちろん、そのくらいはするよ。映研の部室は台所つきだからね。食器棚にマンデリンの挽き豆があったはずだから、ごちそうするよ。アイスもあるし」
 部員が少なく、影の薄い部活に限ってやたらと設備がよかったりするものである。高校生離れした映画(主に部長好みの)を観ながらお茶会としゃれ込むのが今までの映画研究部のあり方だった。だが、これからは違う。体育会系よろしくみなで団結し、機材を担いで外に繰り出し、声を張り上げて撮影をするのだ。
「夏樹さん、美術部のほうは大丈夫なんですか?」
 イーゼルに立てかけられた身の丈ほどありそうな油絵を見ながら、黒木が聞いた。たしかに、美術部の活動があるのに、こちらの制作を無理に手伝わせるわけにはいかない。
 夏樹さんは手を蝶のようにひらひらさせた。
「平気、平気。急いでないし。それに、油絵具って乾くまで何日もかかることもあるから、暇つぶしになるわ」
 こちらとしても、四六時中彼女を借り出そうと考えているわけではない。初めに、どんな系統の話を撮りたいかの、出演者としての意向を聞いて、後は台本ができたら出演シーンだけ出張してもらう予定だった。
 問題ないだろう。
「じゃあ、さっそく部室に来てもらいましょうよ」
 黒木も乗り気になったようだ。夏樹さんは手を洗い、パレットの絵具にラップをかけた。後で帰ってきてまた続きをやるつもりらしい。
 映画研究部は三階で、美術室と同じ南の一番奥だ。手際よく片づけをした彼女を連れて、階段を登る。
「映画研究部のメンバーって、八神と黒木くんの二人だけってことはないよね? それじゃ廃部だし」
 胃がずしりと重くなった。口を変にゆがめながら、言葉をつなぐ。
「うん、あと一人、三年生の部長がいるんだけど……」
「へえ、誰? 名前聞いたらわかるかな」
「たぶん……名前くらいは、知ってるかな」
 無邪気に顔を覗き込んでくる彼女に、曖昧な言葉しか返せない。烏丸部長は放課になるとすぐさま部室に直行しているらしく、他の部員が訪れるころには椅子に座り悠々と紅茶をすすっている。今日もきっといるだろう。
 部室の前に来た。扉にはめられた曇りガラスでは中が見えない。ドアノブに手をかけたまま、硬直する。
「どうしたの?」
 夏樹さんは不思議そうな様子だ。首筋を人知れず汗が伝う。のどに言葉がつっかかる。
「実は、ちょっと問題が……」
「あー、もう。今日の先輩、おかしいですよ?」
 黒木に手を払われた。ドアノブを引っつかむと、何のためらいもなく引き開けてしまった。
 扉のすぐ横にあるビデオ棚。中のものの物色をしていた烏丸部長が、顔を上げる。誰かと目が合ったのか、目つきが変わった。彼に怯えの色が浮かんだところを初めて見た。
 次の瞬間、場の空気が澱んだ。全身から針のような殺気を発する人間がいたのだ。
 彼女の目は、もはやビー玉の輝きを失っていた。光の届かない世界をその瞳に凝縮して、烏丸を射抜く。「烏丸、洋介」
「まさか、あんたが映画研究部の部長だったとはね―」

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ここまで

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島田つき

長編小説

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