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食事を「ととのえる」ということ

 料理家の土井善晴先生が『情熱大陸』に出演した。そのためか、最近また「一汁一菜」が静かなムーブメントを起こしている(ように思う)。

 『情熱大陸』の中で、土井善晴先生の出版記念サイン会に訪れたサラリーマンらしき男性が「“一汁一菜”は音楽で言うところのロックだ」と興奮気味に話していた。
 料理が苦手、料理は面倒くさい、毎日料理するのは大変だ、と考える全ての人を救う、自由で革新的で、それでいて日本人の歴史と美学の詰まった思想。チェ・ゲバラの真っ赤なエプロンをつけ、おやじギャクを爆走させながら、Youtubeの生配信で型破りな(それでいてとびきり美味そうな)味噌汁をひらひらと手品のように繰り出す土井先生は、なるほど確かにロックンローラーなのかもしれない。

 そんなロックな「一汁一菜」という思想について、詳しくは先生の著書『一汁一菜でよいという提案』(グラフィック社、または新潮文庫)を読んで頂くとして、今回の本題は土井先生がその中で触れていた「食事をととのえる」ということについてだ。


 「お味噌汁、ご飯、香の物で、まるいお膳の中できれいな三角形をつくる」「こうして、食事をととのえる、ゆうことが大事なんです」
 ひとり暮らしを始めようとする若者に向けた配信の中で、出来たての味噌汁がよそわれたお椀を並べながら、土井先生はさらっとそんなことを言う。

 食事をととのえる。左手にご飯、右手にお味噌汁、向こうにおかずのお皿で三角形を作り、自分の手前に水平に箸を置く。何てことないことだ。誰にでも出来るし、10秒も掛からない。
 けれどこうして「ととのえる」かどうかで、食事が単に「栄養を摂取する行為」になるか「食事という文化」になるかが分かれると思う。

 例えば、箸。
 食事と自分とを隔てて箸を水平に置くのは、「結界」を意味している。なぜなら古来、食事とは聖なる命の宿った自然界の物を頂くという神聖な行為だった(今でもそうであるはずだが)。
 神社の鳥居や、しめ縄が分かりやすい例だが、結界を張ることで、結界の向こうにある存在に敬意を示すという習慣が日本人にはある。自分という「穢れ」と神聖なものを隔てる。簡単に踏み込まず、相手の領域を守る。あるいは、自分の立場をわきまえ、礼を示すということかもしれない。
 手前に箸を水平に置くことで、聖なる命と自分との間に「結界」を張る。そして「いただきます」と「礼」を言ったのちに初めて結界は解かれ、自然界の命を取り込むことが出来るのだ。

 茶道を習っていた時、同じようなことをしていた。教室に着いたらまず、足袋の代わりの白い靴下を履き、稽古中の先生と他の生徒さんにご挨拶する。茶室の入り口から先生の方に向かって正座をし両手をつくのだが、その時に、閉じた扇子を自分の手前に水平に置く。相手と自分との間に扇子で「結界」をつくり、相手に対する敬意を示す。
 これはお点前の最中も同じことで、客は亭主が入ってきて挨拶をするまで、膝の前に扇子を水平に置く。挨拶をした後は結界が取り払われ、そこから初めて客は、振る舞われたお菓子やお茶、亭主との会話を楽しむことが出来る。

 しかし、そんなことは余談である。私が「食事をととのえる」ことに感銘を受けた最大の理由は、その行為をすることで「心が込もる」からだ。
 「結界」の例で何を言いかったかというと、「礼」を持つ態度をとることによって、自ずから心が込もる。心を込めた結果が形として顕れるし、決まった形をとることで自然と心が入る。どちらが先でも構わないが、ここはカタチから、という話だ。

 心を込める、と言うと少し大げさだが「少し背筋を伸ばす」「ちょっと気を遣う」くらいの意味だ。例えば、ハサミを渡す時に刃の部分を自分に向けて渡すとか、ティカップの持ち手を左に、スプーンの持ち手を右にして添えるとか、脱いだ履物の向きを揃えるとか、そういうことと同じだ。
 ちょっとしたことだが、やるのとやらないのとでは、かなり違う。そうすることで自分が気持ちいい。相手や周りの人が気持ちいい。するとその場の空気が変わる。空気が変われば、自分の行動も変わる。動けばアイデアが湧いてくる。自分の行動が変われば当然、周りの人の反応や行動も変わってくる…。
 そんなことが積み重なれば、人生全体が大きく変わっていくことだって、十分にあり得る。

 「ととのえる」ということがいかに行動を変えてしまうかを、私は日々の食事の中で実感している。

 例えば、今日の私の朝食。寝起きでお腹が空いているし、料理をするほどの気分でもない。冷蔵庫には残りもののレバニラがある。これと、冷凍したご飯を解凍して食べれば良いかな、と、まず思う。

 その時にふと、「せっかくだから少し、ととのえよう」と思いつく。
 ご飯は左、汁物が右、その向こう側におかず、という三角形を目指すとすると、ご飯とおかずがあって、汁物が足りない。それならインスタントの味噌汁があるので、それをちょっと添えよう。レバニラはタッパーのまま温めて食べればいいかな…。そうだ、朝ごはんなら卵を食べたいな。すぐ出来るから目玉焼きにしよう。目玉焼きはお皿にとるから、せっかくだからレバニラもタッパーから出して、目玉焼きと一緒にお皿に乗せよう。

 なんか食事っぽくなったな。そうだ、一汁一菜の基本のひとつ、香の物。おかずはもうあるけど、さらにあってもいいじゃない。一汁二菜。いや、目玉焼きを入れたら三菜か。冷蔵庫に作り置きしてあった紫大根の酢漬けがある(といっても切った大根と塩昆布を「カンタン酢」に浸しただけだ)。ちょこっと添えてみよう。大根の赤にはブルーの小皿が映えるかな。
 ここまでしたら、お膳に並べよう。箸置きは可愛らしい白い陶器の鳩だ。ようし、できたぞ。ご飯、味噌汁、目玉焼き、レバニラ、紫大根の酢漬け。なんか素敵だ。素敵な朝ごはんだ。素敵な朝ごはんのある、素敵な朝だ。ちょっと嬉しい。何てことのないごはんが、とてもおいしい。

 なんということだろう。最初は残りものをタッパーから食べるだけだったはずが、ちょっと「ととのえよう」と思っただけで、ここまでちゃんとした食事っぽくなってしまった。料理をしたのは目玉焼きだけだったので、他はあるものを温めたりして、かかった時間は5分か10分くらいだ。

 これを、最初から「きちんとした食事にしよう」とか「おかずをいくつも用意して」「そのために手際よく準備をしないと」などと思うと、途端に億劫になる。面倒臭くなる。食事を楽しむ余裕なんてなくなる。少なくとも私は、それでは出来なかったと思う。

 今日は残りものを食べる。でもちょっと、ととのえようかな。それだけでいいのだ。ちゃんとした(ように見える)食事はあくまで、一汁一菜の基本形をもとにして、思いつくまま自由に並べた結果に過ぎない。
 だから「ととのえる」ということはトリガーである。食事を単に「摂取する」のではなく、「楽しむ」ことへ切り替えるためのスイッチだ。

 「ととのえる」プロセスで気持ちを込める。気持ちを仕上げる。そうしようと思うだけで、「ととのう」ために足りないものが分かる。
 これは豊かさだ。そして食べる人に対する敬意だ。きっとみんな照れくさいからそこには触れないけれど、敬意とは本当は、愛のことだ。大切な人に対する愛、自分に対する愛はもちろんだけど、ことに食事を「ととのえる」ことで示す敬意は、ありとあらゆる「いのち」に対する愛だと思う。

 一汁一菜の食事を用意するのに時間はかからない。ご飯が炊けていて、冷蔵庫にちょっとした漬物があれば、味噌汁だけを作ればよい。味噌汁だって、材料によっては5分も掛からない。
 ハレの日の豪華な食事ではない。忙しい毎日の中でとる簡単な食事だ。毎回うまく行くとも限らない。上の空で火が通り過ぎてしまったり、味が濃すぎたり、見た目が悪いこともあるだろう。
 けれどどんなに簡単に作ったとしても、たったひとりの食事でも、出来上がったら毎回、お膳の中に「ととのえる」。それだけで、美しいじゃないか。見た目がいいというだけではない。「ととのえようとする」その心が、その態度が、そして生き方が、美しいと思う。

 他人に伝わっても伝わらなくても構わない。やってみれば良く分かると思うが、「ととのえる」という行為によって最も恩恵を受けるのは、他の誰でもない、それをした当本人なのだから。

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