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視覚障がいがあるからこそ、視覚以外の全ての感覚を「面白がれる」

視覚以外の感覚を「面白がれる」

「こちらに近づいてくる足音を聞いて、その人の機嫌がかなり悪いことを察したんだよね」


以前、友人の紹介で、2016年の「リオパラリンピック」の閉会式でパフォーマンスを行った、視覚障害のある方と一緒にご飯を食べて、色々とお話をする機会がありました。

その時に彼が、本当に楽しそうにこんなことを言っていたんです。

「視覚に頼らないからこそ、
視覚以外の感覚の多くを面白がることができる」

彼は、足音を聞けば知り合いの誰が近くに来ているかわかるらしいんです。

それだけじゃなく、足音の変化でその人の機嫌の良し悪しも何となくわかると言っていました。

その他にも、周りから聞こえてくる音でどこの駅の近くなのか把握したり、街の雰囲気を感じとっているらしいです。

この話を聞いて、きっとこの人は視覚にばかり頼る僕らよりも、ずっとたくさんのメッセージを日常生活の中からキャッチしてるんだろうなと思ったんですよね。

だから、視覚に頼る僕らでは何も気にせず通り過ぎてしまうようなことも、面白がることができる。

視覚に頼らないことで、色々なものに対して「面白い」と思える感度が研ぎ澄まされてるんじゃないかと思ったんです。

「多様性理解」ってなんだろう

「パラリンピック観戦は、多様性を学ぶという教育的意義がある」

こんなセリフを、テレビで何度も耳にしました。
でもきっと、そんな単純なことだけで進むほど「多様性の理解」は簡単なものではないような気がします。

ネットの記事でも、車椅子の少年が地域の学校の校長先生から、
「君がうちの生徒と交流してくれたら、学ぶことがたくさんあるんだよ。」
と言われて、
「僕は教材じゃないし触れ合い移動動物園じゃない」
と疑問を投げかけるツイートをしたことが話題になっているのを見ました。

「多様性を理解しよう」なんて言って、障害を持った方との交流を特別なイベントのように扱っている時点で、きっと多様性理解への道のりはまだまだ遠いんだなと思います。

でも、僕は視覚障害を持つ方と一緒にお酒を飲みながら楽しく交流する中で、「目が見えないからこうやって世界を観てるんだ」という話を聞いて単純に

「それってめちゃくちゃスゴイな!」

と思ったんですよね。

その感覚は、小学生の頃友達が「俺、学校から家までボールを一回も落とさずにリフティングして帰れるよ」と言ってた時に感じた

「それってめっちゃスゴイな!」

と同じだったような気がします。

「多様性を理解しよう」なんて上から目線で言われるよりも、単純に「この人スゴイ!」って感じることから始める方が、結果的には「多様性の理解」に近づくのかもしれません。

全然上手く言えないんですが、僕が視覚障害を持つ方と話して感じたこの感覚は、ずっと大事にしていきたいなと、そんなことをふと思いました。

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