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Ⅱ 夕焼けとの対峙

弟が死んでから、ほとんど実家に通っていたので、1人暮らしの家はとても雑然としていた。わたしがしばらくいない間に、この部屋の気配も死んだ。

「すみません、散らかってるんですけど」

なんとか入る前にふたり座れる場所を作り、彼女を招き入れる。

「おじゃまします」

彼女がぺたん、と床へ腰を落ち着けるのを見てキッチンに立ち、お湯を沸かす。キッチンの暗がりから彼女をこっそりと盗み見る。

窓から射す光がやさしく彼女を包み込み、その場の雰囲気が、自然な出で立ちの彼女をすぐに受け入れた。そうやって弟の死後、私の両親にも馴染んでしまった彼女に、なんとなく抵抗を感じていた。

そして、同時に両親が自分ではなく、彼女に強い思い入れを抱いたの見て、何故だか安心してもいた。

紅茶のパックを出して沸いたお湯を注ぎ、彼女の向かいへ座る。 彼女は壁にかかったスーツをじっと見ていた。

「お姉さんはお仕事は何を?」

「介護の仕事をしていたんだけど…先月いっぱいで辞めたの」

彼女はまた、まっすぐな瞳でわたしへ目を戻した。目を伏せたのはわたしの方だった。

「仕事は好きだったのよ…
もちろん、お年寄りの生死に関わることが、悲しくないわけじゃなかった。でも弟があんなことになってから、それはわたしにとって、リアルで生々しいものになってしまったの。これ以上、続けることはできなかった。」

わたしは、ただじっと紅茶から立ち昇る湯気を見つめていた。お湯の中でパックがゆらゆらと揺れて、茶葉の染みを広げていく。

「あのスーツは…」

「仕事を探そうという意思はあるのよ、だからスーツを出しておくんだけど、スーツのぱりっとしたところとか、新しい会社のビルの匂いとか…そういうのにくらくらしてしまって、続かないの」

わたしは何とか微笑みを作って浮かべる。それは弟の死後、よく使うようになった、何の意味も持たない表情だった。

「わたし…自分では感情を出すのが激しい方だと思うんです。その分、意外と大学が始まってからもけろっと授業に出て、友達と会って学食でご飯食べて、ノート見せてもらったり、くだらないことしゃべったり…」

彼女はそこで言葉を切り、何かを思い出すように目を瞑る。窓からの光はいつの間にか沈み始め、太陽が彼女の頬をオレンジ色に染め上げる。その中に光を見つけようと、わたしはカップ越しに彼女の横顔を、息を詰めて見つめる。

「でもそうやって普通にしてて、友達とじゃあまたねって別れたあととか、ふいに帰り道が分からなくなることがあって。その間に路地の狭さとか、夕日の眩しさがどんどん迫ってきて息ができなくなって…わたし何でここにいるんだろうってこわくなって、ぐんぐん視界が狭くなって………だから、」

彼女が目を開いてコップを両手で包み、まっすぐわたしを見つめる。その思いつめた瞳に、今度は惹きこまれて、弟もこの子とこうして何度か向かい合ったのだろうか、と一瞬考えた。

「また、ここに来てもいいですか」

それが、わたしと彼女のはじまりだった。

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