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【科学者#013】多才すぎるがゆえ苦悩が多かった科学者【ロバート・フック】

多才な科学者と問われれば、色々な科学者がいると思います。
しかし、今回紹介する科学者以上に様々な分野の研究をした人は少ないのではないでしょうか。
そんな才能がありながら、性格上の問題があったためなのか、あまり生涯については有名ではない科学者ロバート・フックについてす。


ロバート・フック

フック

名前:ロバート・フック(Robert Hooke)
出身:イギリス
職業:数学者・物理学者(光学・力学)・建築家・天文学者
生誕:1635年7月18日
没年:1703年3月3日(67歳)


業績

フックの法則

フックは多くの業績を残しているのですが、まずはフックの名前がついている法則を紹介します。

フックの法則は中学校でも学ぶばねについての法則で、ばねののびとばねを引く力は比例するという法則です。

実はフックは、手先が器用で機械スキルが非常に高く色々なものを発明しており、フックは1660年に時計のひげゼンマイの設計に取り組んでいるときにフックの法則を発見したと言われています。


他の研究

フックは本当に多くの研究をしているので、一部ですけれども紹介します。

【弾性限界に関する法則】
物に外から力を加えたときに、ある程度の力だと元に戻りますが、力を取り除いたあとにもとに戻らなくなる限界のことを弾性限界と言います。
フックは弾性限界に関する法則を見つけ出しています。

【細胞の発見】
フックは弾性に関する実験をしているとき、コルクを顕微鏡で観察した際小さい部屋のようなものを発見します。
そして、その小さな部屋のようなものを生体の最小単位cell(細胞)と名付けました。


【天文学】
フックは天文学でも業績を残しています。

グレゴリー式反射望遠鏡を作り天体観測を行い、火星・木星の自転の観測をします。

さらに、太陽観測に用いる接眼鏡であるヘリオスコープを発明し、黒点を使用して太陽の回転を測定しています。


【建築関係】

クリストファー・レン

1666年にロンドンで大規模な火事あり、ロンドンの街を再建するプロジェクトがありました。
その時フックは建築家で数学者のクリストファー・レン(1632年~1723年)のチーフアシスタントを務めていました。


【科学者とのつながり】

レーウェンフック

研究の業績ではないのですが、フックはアントーニ・ファン・レーウェンフック(1632年~1723年)の業績を高く評価して、王立協会会員として招いています。


生涯について


フックの父親は、イギリス、ワイト島のフレッシュウォーターという場所の裕福な教会の教区副牧師をしていました。
さらに小さな学校を経営していて、そこで教師として子供たちに教えていました。

子供の頃のフックの健康状態はあまりよくなく、常に頭痛に苦しみ勉強が困難でした。

フックは観察スキルが非常に高かったのですが、これは子供の頃に植物、動物、農場、岩、崖、海、そして海のまわりのビーチなどをよく観察していました。

それと機械的スキルも高く、子どもの頃に機械のおもちゃの時計に魅かれて、自分で木の複製をつくって、それが十分動いたみたいです。

さらに、フックは科学の才能だけではなく絵を描くスキルも高かったです。

ピーター・レリー

はじめは絵を描くことで生計を立てようとしており、肖像画家のピーター・レリー(1618年~1680年)の見習いになろうとロンドンへ出ます。

しかし、色々あって最終的にロンドンのウェストミンスター大学に入学します。
大学ではラテン語とギリシア語を学び、幾何学を急速に理解します。
他にも、飛行機械の発明をはじめたり、オルガンの演奏を学んだりします。

その後は、オックスフォードのクライストカレッジに入学し、天文学や力学を学びます。


トーマス・ウィリス

さらに、医者であるトーマス・ウィリス(1621年~1675年)の解剖実験を手伝ったりもしています。


1661年にフックは最初の本である毛細管現象に関する本を出版し、その論文は同じ年の4月10日に協会で読まれます。

そして、1662年2月15日にロンドン王立協会が創設され、11月5日には実験主事に任命されます。

実験主事は、すべての会議で3~4つ実験する必要があり、しかも報酬なしで仕事を引き受けなければいけませんでした。
協会が繫栄したのは、フックのおかげだと言われています。


1663年には王立協会の実験主事のキュレーターとなり、この役職を14年勤めます。

はじめは報酬なしで行っていましたが、1664年には年間80ポンドで同意して給料を支払われます。
しかし、その後年間50ポンドになり、最後には年間30ポンドになります。

1665年からはロンドンのグレシャム大学の幾何学教授に任命されます。
大学から部屋があたえられて、毎週1回講義を行いました。
さらに、この年からロバート・ボイルのアシスタントになり、エアポンプの設計を改善したり、顕微鏡図譜(Micrographia)を出版します。
この顕微鏡図譜には、ノミ、シラミなどの昆虫や、コルク、コケなどの植物の生物学的発見も含まれているほか、無機物なども含めるとスケッチは合計で70点掲載されています。

ニュートン

1672年には、光の問題についてニュートンと論争をはじめます。
ニュートンとは長い間対立関係になるのですが、フックはニュートンに対して光についての研究を盗まれたと主張します。
フックは、幅広いアイデアを思いついていたので、研究を盗まれたと思い込んだのではないかと主張する人もいます。

1674年には惑星運動の逆二乗法則を唱えるのですが、この法則についても1686年に万有引力の発見についてニュートンと先取権を争います。

1677年には、フックは王立協会の幹事になり、王立協会の規約の草案を作ります。

フックは、多才ではあったのですが、性格上の問題から才能に見合うだけの地位につくことができませんでした。
そのため、余裕をもって研究を進めるためのお金の保証が得られなかったとのではないかと言われています。

フックの性格は、癇癪もちであり、けちん坊で、嫉妬を抱きがちだと書かれることが多いのですが、晩年はさらに気難しくなり様々な論争に首を突っ込みます。

そして、1703年3月3日にロンドンで亡くなってしまいます。


フックという科学者とは

フックは本当に多才で、様々なアイデアを持っていたため、様々な分野で活躍しました。
しかし、ニュートンとの論争を繰り返したり、王立協会の待遇が悪かったりと、フックを取り巻く環境によってフックの性格が歪んでいったのではないかと考える人もいます。

ニュートンとの論争では悪者として書かれる場合が非常に多いですが、その業績は輝かしいものばかりです。
しかしながら、知名度はニュートンと比べれるとかなり低くなってしまうのは少し寂しい気がします。

フックの素晴らしさが少しでも伝えることができたのなら嬉しく思います。

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