見出し画像

漂泊のアーレント

老人のエロティシズムとは、深くて、ひねくれていて、泥い。

そう書いたのは、かくいう私自身である。
ここでの投稿、「老人のエロティシズム」の最後に、そう記した。

人気のない私の投稿だから、そりゃあ、大した話題にもならず、それに内容もよく見れば、ただのエロおやじの戯言なので知られていないのは仕方がないが、私はそこで谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」を取り上げた。
自分は変態ではないか、とその時危惧した思いが、谷崎の存在で救われたことも、そこに記した。

エロティシズムと言えば大袈裟になるが、そこそこ年の行った男性諸君なら共感してもらえると思う。
フェチという言葉は少し怪しげな言い方だが、年齢によって、異性への興味の視線が変わるのは事実である。

大文豪、谷崎潤一郎はどう見ても、いや、その作品群から推察しても、どうやら脚フェチである。

私はどうだろう?
年相応に、谷崎の域に近づいているが、強いて言えば、おでこフェチである。

皆さまは無名のオヤジがどうあろうと知ったことじゃないだろうが、声を大にして言う。

私はおでこフェチだーーー。

それには経緯がある。ある女性を見たとき、私はその理知的なおでこに魅了されたのだ。

それがハンナ・アーレントである。


近年、東洋的な思想に傾きがちな私だが、西洋哲学も検証しておかないと片手落ちだと、学者でもないのに、律儀にそう考えて、学生時代になんとなくムードで買っていた西洋の哲学者の本を再読した。
ほとんどは上っ面の理解であったが、ハイデガーの思想には本気で少し引かれた。
その折、ハイデガーと師弟関係にあり、公私ともに深いつながりのあった女性哲学者を知った。
それが、ハンナアーレントである。

写真の彼女を見たとき、その美貌と少し憂いを帯びたまなざしは特徴的だが、何より私はそのおでこに釘付けになった。
何やら心の奥深い所が泥々してきた。

哲学者として、政治思想家としての彼女の仕事や業績に真摯に傾倒している方々からすれば甚だ不純だが、それから私の彼女への興味は始まるのである。

世界的に有名なアーレントだから、ここで私があれこれ言うのもおこがましい。

二十世紀の全体主義の惨禍の中で、ユダヤ人女性として、亡命知識人として懸命に生きた彼女の姿は、その業績とあいまって、カオス化してきた現代に生きる私たちにも十分魅力的だ。

彼女は常に真摯に考え続けた。
それは特に自分の外界にあるものに愛情深く向けられた。
西洋では常に頭の中に絶対的な神がいる。
神に相対化された人間はその思考にいつも制限がある筈だ。
その中でも、アーレントは真理を追究し続けた。

「全体主義の起源」でナチズム、スターリニズムという二十世紀に現れた二つの全体主義をめぐって、「人間の条件」ではその考えを引き継ぐ中で、そういう中で生きる人間が本質的にどうあるべきかを主張している。
それは言うまでもなく、ユダヤ人として、過去に味わった経験、ナチズムのなかでの迫害、収容所体験、亡命と、歴史的事実に翻弄され漂泊していった人生がなせるものではあるが、彼女は、そういう時にも客観的に世界を捉え、真理を追求する姿勢を決してくずさなかった。

「エルサレムのアイヒマン」では、ナチスの元高官アドルフ・アイヒマンの国際裁判を傍聴し、全体主義の惨禍のなか行われた「悪の凡庸さ」について持論を展開した。
それはユダヤ人組織や多くの知識人の反発を招いたが、西洋社会の中ではいつも重要視される、個人というもの、アイデンティティにとらわれることはなく、彼女の外界への発信はあくまで客観的な、世界への、地球への愛があった。
その業績は短い紙面では伝えきれない。
そして、それらが現代社会とどうリンクするのか?

一つだけここで紹介したい

興味深いことに、アーレントはもう半世紀以上前に、科学技術の政治的意味について考察しているのだった。
その中心にあるのは、近代科学のめざましい発展の裏にある危機への洞察である。

一つは、核物理学の発展がもたらした核兵器の脅威は言うまでもなく、人間世界や自然環境に対する破壊力の増大という物理的な危機であり、もう一つは、思考と言論の無力化という政治的な危機である。

これはいかにも今日的な問題を含んでいる。

かつてアーレントは「人間の条件」の中で、人間の不断の営みを、労働、仕事、活動/行為、と分類した。

それらが科学技術の発展と共に侵されるというアイロニー?

今日の危機は、科学が発展し、地球疎外がより進むにつれて、人間の「活動的生」を構成する労働、仕事、活動という三種の行為の区別や関係が大きく変容したことによって、自然と人間世界の境界が崩れ、人間の世界の安定性や耐久性が掘り崩されてきた結果だという。

核の連鎖反応を可能にした核物理学だけでなく、今日では、DNAそのものを人工合成し、新種の生命過程を創り出す合成生物学まで登場している。

科学技術とは私たち人間にとって一体何なのか?

科学技術はもはや従前の人間の倫理観では説明がつかないばりか、人間を脅かす人工知能においては、その地位さえ奪われるかもしれないという、本末転倒となっているのだ。

ハンナ・アーレントはそのようなことを半世紀も前に提示している。

どうぞ皆様方も彼女の仕事に直に触れて、それらが現代社会にもたらすものがなんであるかを考えていただきたい。

神という絶対的な存在がある西洋社会で毅然と人間の真理を探究し続けた哲学者へのささやかなオマージュ。
これは、女性としても眩しいほどに真っ直ぐに生きた彼女への、無名のおっさんからのラブレターでもある。

彼女の残した仕事が現代社会に何をもたらすのだろう?

スェーデンの少女グレタトゥンベリーが無邪気に始めた活動は、その萌芽かも知れない。
グレタはまさにこの混沌とした人新世の時代に、敢然とアーレントのいう、「公的領域」に飛び出したのだ。

それを受けて私たちはこれから何をすべきなのか?人間として・・・。

ハンナ・アーレントは今もまだ現代社会に生きる人間たちに、どう生きるべきかを、問いかけ続けている。

ところで、冒頭で述べたフェチの話。
私のフェチも極まって、ある時、パート先の若い女性スタッフに突然こんなことを言ってしまった。
「ねぇ、おでこ見せてくんない?」
できるだけさり気なく言ったつもりだが、物凄い形相で睨まれてしまった。
「それセクハラですよ!」
最近の若い女性はわざわざ前髪を作って額を隠すのが、可愛さの主流らしい。

ならばと、親しくしている、酸いも甘いも噛み分けた50代の女性スタッフに同じ事を言ってみた。
「嫌ですよ!」
同じ答えである。
「いいじゃない、減るもんじゃなし」
しばらくの沈黙があった。
(やはりこれは禁句だったのか?)
と、彼女はうつ向いたまま小さな声でこう呟いた。
「だってシワがあるんだもん」
その時、ほほを赤くした彼女は初めて告白された少女のように初々しかった。

どうやら私は自分のフェチの追求よりも、女心とデリカシーの勉強が必要なようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?