ごろごろすること

息子が、ぼうぼうに伸び放題になっていた庭の芝生を、きれいに刈ってくれた。前回に手入れをしてからかなり時間が経っていたために、かなり刈り込みにくい状態で、これまた大きく伸び放題になっていた庭木も含めて、かなりの時間と労力をかけて、きれいにしてくれた。学校での授業が半日で終わり、せっかく久しぶりに空いた午後の時間を、そんな重労働に使ってくれたうれしさやら、申し訳なさで、なんとなく私もそばで、彼に声をかけながら家事をする。

家族が何かを一生懸命している時、私はそのそばで、ゴロンと足を投げ出して、のんびりするという事が出来ない。彼らが、直したいものを修理したり、何かをせっせと磨いていたり、一生懸命お菓子を焼いたり、苦心しながら縫い物をしたり、そんな、何かに自ら進んで取り組んでいる時、私はそのそばで、何かに取り組まずにはいられない。
別々の事をするにしても、一緒の時間に同じ場所で、何かに取り組んでいるという感じが、私はたまらなく好きだ。ただし、そんな時間が我が家の中にたっぷりあるかというと、実はそうではない。
夫も子供たちも、私に比べると、いちじるしくごろごろとリラックスするのが好きであるし、それを当たり前としている。日本に住む人が、普通の生活として思い描くものに比べると、我が家族の生活は、ごろごろしている時間が、ずいぶん長いのだ。
私が忙しく、庭の手入れをし、ペンキの塗り替えをし、食事の支度だ、片付けだと、動き回っている時、我が家族はどうしているかというと、彼らは同じ時間に、何かに取り組みたいとは、全く思わないらしい。あくまでゴロンとして休んでいたり、楽しく余暇を過ごしている。私一人にさせている事に、悪いなあとか、気が引けるなあとかも、全くない。「手伝おうか?」の一言もない。見事だ。

アイルランドの学校は結構休みが多く、友達との約束とかアルバイトなどの用事がなければ、そんな休日はお昼まで、彼らは寝ている。学校が早く終わった日の午後も、ほぼ、のんびりしている。特に大学生である息子は、勉強を全て大学の中でこなしているのか、家で机に向かっているところを、私はほとんど見ない。
何か、学校で学んでいる事に関連したことを、時間を取って勉強したらどうかとか、何か資格を取ったらどうかとか、言いたい気もするけれど、私はあえて口をつぐむ。親に言われてするくらいの事なら、言われずともしているはずだ。しかも、言われた事をするのは、あまり気分のいいものじゃない。何といっても、自分の中から発生した、したいと思った事をするのが、気持ちいいのだ。
私の目には、ゴロンと寝ている姿がもったいなく思う時があるのは事実だけれど、のんびりごろごろするのを楽しむという事も、大切な事と思う。私が子たちのように、午前中いっぱい、ごろごろとベッドでのんきに過ごし、それを気持ちいいと思えるならば、私の人生は今よりもっともっと、リラックスした穏やかな時間がたっぷりあるという事だろう。調教され、しっかり働くサーカスの動物たちより、ごろごろひなたぼっこをしている隣の家の猫の方が、確かに幸せそうだ。

子供に叱咤激励、「あれすれば?」「これすれば?」の一つ二つ言いたい時、そのほとんどは、そっくりそのまま、自分に向けるとちょうどいい言葉である気がする。
「もっと勉強したらどう?」という時、本当は、勉強したら変化を生み出せるのに、していない自分がいないだろうか。
「きちんと片づけたらどう?」という時、本当は、片付けようと思っている場所がありながら、面倒で手を付けていない自分がいないだろうか。
「積極的に行動したらどう?」という時、本当は、踏み出せない一歩にまごついている自分がいないだろうか。
口から出る言葉の前に鏡を置いたら、私たちはどんな自分を見て、そしてどんなに自分を変えられるだろうか。

のんびりする時は、どこまでも、その時間を楽しむ子供たちだけれど、実は結構メリハリがはっきりしていて、やるべき時にはかえってしっかりと力を発揮している。試験にしても、一科目につき三時間なんていう長い時間をこなす時もある。私はそんな長時間の試験に自分のベストが出せるとは思えない。集中力が持たないというより、そんな量の知識を何も持ち合わせられない。知識が必要なかったとしても、その数時間で全てが評価されると思っただけで、クラクラとめまいがしそうだ。試験開始のベルが鳴ったとたんに、ただひたすら、魔法のような幸運を願うのみだろう。
娘はさほど長時間を勉強に費やしてはいないけれど、数学や理科系の科目が楽しいと言い、かなりいい点を取ってくる。間違っても、試験開始で幸運を祈るのではなくて、しっかり頭を使って、試験問題に取り組んでいるのだろう。
彼女は趣味のベーキングも手際よく、事も無げにこなす。突然スイッチが入るのか、夜中近くになってから、チョコレートたっぷりのクッキーを焼きだすこともあるくらい、やる気が出る時のその自発性には、エネルギーがある。頼もしい。
成人になった息子は、自由を謳歌して、なおのこと頼もしい。彼はダブリンの外にまで、友達とバイク乗りを楽しむ。自信と喜びに満ち、更には技術を伴い、大好きなバイクを自分で手入れしながら、楽しんでいる。バイクでのチャリティーイベントにも参加する。彼は免許を取って初めの一年もしない内に、免許歴だけ長い私を、とうに追い越してしまった。さすがは夫の子だ。
夫は運転に関しては、私の軽く100倍は自信を持っている。ごろごろしているのが好きな夫だけれど、なぜかタクシーの運転手並みに、ダブリン中の道を知り、どんなに細い道も、通ったことのない道も、何の苦も無く、むしろ楽しむように運転するのだ。その昔、彼はシリアで兵役の義務についていた時、ボディガードの運転の訓練をしたという。VIPの車のすぐ後ろにぴたっと車を付け、でももちろん、ぶつからずに運転するのだ。私がそんなボディガードを必要としない身分なのは、実に残念なことである。

のんびり屋の彼らは、実はいろいろな面で私よりずっと優れたものを持ち、結構な事を、短い時間でしっかりこなしているという事だ。メリハリを効かせたそんな生き方は、長時間気張っているよりも、優雅で豊かであり得る。

庭の芝刈りでヘトヘトになったはずの息子が、休む間もなく、アイスクリーム屋でのアルバイトに出かけていった。お店のアイスクリームをたらふく試食し、おいしいコーヒーを何杯も飲んでいるらしいから、お店はさほど、忙しくはないのだろう。それでも、決まった時間にしっかり一人でお店に立ち、お客さんの対応をしているのだ。数年前には想像もできなかった姿だ。立派になったものだと思う。

真っ暗な中、大きなバイクの音を鳴らして、息子がアイスクリーム屋から帰ってきた。ずいぶんと遅い時間だ。疲れて帰ってきた彼に、夕飯を温める。倒れこむように椅子に座る彼の前に、フォークもナイフもお水も、私が並べてあげる。甘やかしているようだけれど、疲れて帰ってきた彼への、私のねぎらいの形だ。他にどうしていいのか、私にはわからない。一人でポツンとご飯を食べさせるのはかわいそうだから、私も隣に座る。明かりを落としたキッチンの静けさの中で、なんでも言いたい事があったら、お母さんは聞いてあげるよという、ささやかで優しい時間だ。
「疲れたでしょ。アイスクリームは売れた?」
「まあまあかな。」
遅い夕飯を食べる彼を横に、静かに言葉を交わす。反抗期のひどい時には持つことのできなかった、こんなごく当たり前の、何の変哲もない静かな会話のやり取りが、今の私には、うれしくてたまらない。
「お母さんね、今日も朝が早かったから、もう眠くてたまらないわ。腰も痛くて困っちゃうな。」
思わず私の弱音も出る。
「じゃあ、寝なよ。僕はいいから。お母さん、早く休みな。」
いつの間に、親をねぎらうようになったんだろう。私はそんな風に、親をねぎらうなんて事をした記憶がない。

子供たちがのんびりとしている時は、できるだけそっとしておくというのが、我が家のスタイルとなって久しい。彼らは彼らのペースで、彼らにとって大事な分野で、どんどん成長をしている。もう、私の能力や人間性までも、彼らが優に超えている部分も多々あるのだ。

今の私は、早起きをして、フレッシュな頭と体を、一日の早い時間にフル回転させるのが気持ちいい。でもいつの日か、私が彼らのように昼までごろごろとベッドで過ごし、それをたまらなく気持ちいいと思う時が来るのだろうか。そんな、限りなく幸せで、安心で、ゆっくりで、穏やかな時間を持つのが楽しみだ。

「早く休みな。」という、息子の言葉が、優しく私に浸透する。親をねぎらえるようになった子供は、私を超えている。私がのんびりごろごろして、気持ちいいと感じる日は、そう遠くないかもしれない。

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