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【エッセイ】最期の病室に、笑い声が響いた話

(不穏なタイトルに、サスペンスだと思われるかもしれない…!と気付きましたが、そうではないのでご安心ください。)

高校生だった私は、母方の祖父(じぃじ)と祖母(ばぁば)と一緒に、大きな駅の地下街に来ていた。

私はトイレに行きたくなり、「待っててねー」と言うと、一人でトイレに入った。
そして個室から出てくると、洗面台のところに、ばぁばがいる。


「あれ、ばぁばもやっぱり、行きたくなったの?」


そう聞くと、ばぁばが笑いながら言った。

「ううん、じぃじがね、変な人がいたら危ないから、見て来いって言うからきたのよ」

休日の昼間である。地下街は多くの人で賑わっていた。


じぃじは、かなりの心配性で、娘である私の母が幼い頃も、手指を消毒しなければ外で食べ物を食べさせてもらえなかったという。
指頭しとう消毒器」と呼んでいた小さな銀色のケースに、消毒液と脱脂綿を入れ、持ち歩いていたそうだ。

屋台の食べ物や駄菓子なんて、もってのほか…のはずだったが、母はいろいろ食べた記憶があるという。
じぃじが見てないところで、こっそり手に入れていたのかもしれない。


ときどき電話を掛けると、じぃじが出ることもあったが、ゆっくり話せた記憶がない。


「うんうんうん、ハイ、ハイ、じゃ、代わるから」


こちらが喋っていようがいまいがお構いなしで、あっという間に電話口から消えてしまう。
耳が遠く、せっかちだということもあるが、照れてしまい何を話していいか分からないようだった。

よく聴き取れるように…と、こちらは受話器に向かって大きな声を出しているのだが、すぐ代わってしまうので、まったく意味がなかった。

それなのに、じぃじは時々、
「この頃電話が無いが、元気なのか?」
と心配していたそうだ。


その年代の人としてはハイカラだった二人は、お互い、パパ、ママと呼び合っていて、二人で旅行に出掛けたり、とても仲のいい夫婦だった。
私は、旅行の写真を幻灯機げんとうき(今で言うプロジェクターのようなもの)で見せてもらいながら、お菓子を食べたり、土産話を聞く時間がとても好きだった。

写真が趣味だったじぃじは、帰省すると必ずみんなの写真を撮ってくれた。
本格的な一眼レフカメラなので、調整には時間がかかる。
ソファーに座り、みんなかしこまってから数分。やっと準備が整う。

「はい、じゃ、撮るよ……あ、ちょっとまった」

じぃじが、カメラの調整をする。

「はいはい、じゃあ撮るよ。はい…あ、ちょっとまって」

これが必ず数回は繰り返され、みんなが笑顔になったころ、ようやくカメラのシャッターがおりるのだった。


そんなある日、ばぁばの病気が発覚した。もう長くはない、とのことだった。

入院中のばぁばのところに、じぃじは毎日のように通い、看病していた。

そんなじぃじを心配して、姉と私でご飯を作りに行ったことがある。
当時、私たちは料理がほとんどできなかった。ほうれん草のお浸しくらい、ゆでるだけだから…と高をくくっていたら、まったくコシのない、ふにゃふにゃの物体になってしまった。

それを文句も言わず、黙って食べてくれたのを覚えている。


ある夏の日、入院中のばぁばから、慌てた声で電話がかかってきた。


「じぃじが薬をカラごと飲んだかもしれないって…!!」


アルミの包装ごと飲み込んでしまった薬は食道に引っかかっていて、手術で取り除くことになった。

なんと、じぃじまで入院してしまった。

幸い、じぃじは大事には至らなかった。
入院時だけではあったが、お見舞いに行った私を違う親戚と間違えていたとき、歳をとってから入院することの意味に少しヒヤリとした。

ばぁばは、自分の葬式の手配などもしていたそうだ。
そうと分かる前に予約していたアメリカ旅行のパスポートのために、じぃじが撮った写真が二種類あった。
そのどちらかを遺影にしよう、と二人で決めていたようだった。



ある寒い冬の日。危篤の知らせが届いた。

私は職場で電話を受けながら、
「ああ、ついにきてしまった」
と思ったのを覚えている。

ばぁばは数時間頑張ってくれたので、近くの友達や親せきはみんな、代わる代わるやってきて、お別れを言うことができた。
社交的なばぁばは、友達もたくさんいて、色々なひとに好かれていたんだな、と感じた。

そして夜中に、まるでドラマのように心電計が弱くなり、そしてついに止まった。

何度もお見舞に行き、次第に痩せていく姿を見ていただけに、私は、ばぁばの死を受け入れる準備はしてきたつもりだった。

けれどそのときが来ると、突きつけられた事実に、ドン、と突き飛ばされた感じがした。本当に来るのとまだ来ていないのとでは、こんなにも違うものなのか、と実感した。

病室には叔母、母、私、姉、じぃじがいた。
苦しいと言っていた闘病生活がようやく終わったね、良かったね、と、泣きながら話しているときだった。

それまでばぁばの傍らに立ち、泣きもせず黙っていたじぃじが、せかせかと言ったのである。


「やっぱり写真は、コニカにしよう。」

病室に一瞬、沈黙が走った。

「パパ、こんなときに何を言ってるの?!」

叔母が大きな声で言い、病室に笑い声が響いた。


遺影の写真二枚で迷っていたのを、どうしてかそのとき決めたらしかった。
あまりのじぃじらしい発言に、じぃじ以外のみんなで泣き笑いした。


外にいて何も知らない看護師さんは、

「人が亡くなったばかりの病室から、なんで笑い声が…?!」

と耳を疑っただろう。

せっかちなじぃじの頭の中はもう、遺影の写真や、葬式の段取りのことでいっぱいだったのだと思う。


けれどじぃじは、ばぁばが最後の入院をしたときも、

「ママは僕が絶対治す」

と、最後まであきらめなかった。

毎年ばぁばの誕生日には、バラの花一輪と好物だったチョコレートを渡していたじぃじは、その年も用意していたそうだ。
けれども、誕生日まであと三日というところで、亡くなってしまった。


じぃじも、今では、ばぁばと同じところに行ってしまった。
そういえば、ばぁばの危篤の知らせを受けた日、私たちは夕方ごろ駆け付けたが、まだ大丈夫そう、とのことで、親戚と交代で夕ご飯を食べに行ったりした。

「危篤の間でも病院を離れて、ご飯を食べに行ったりするんだ…!」

と、若かった私はちょっと驚いた。


大切な人が亡くなっても、お葬式の準備をしなきゃいけないし、親戚やお世話になった人にも知らせなければならない。いろいろな手続きだって必要だ。
そしてその合間には買い物に行ったり、食べたり飲んだりお風呂に入ったり、眠ったりする。

向田邦子さんのエッセイ「ひだ」に、

「(戦時中)校長先生が、渡り廊下の|すのこ《```》につまずいて転んだというだけで、明日の命もしれないという時に、心から楽しく笑えたのである。」
という一文がある。


ばぁばの最期の病室でみんなで笑ったとき、
非日常のときでも日常は流れていく、ということを、私は初めて知ったのかもしれない。


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